8月18日は豊臣秀吉がなくなった日。
「北川風土記」にこうした記述がある。
「豊臣秀吉京都大仏殿建立の用材を土佐に求める。」
「長宗我部元親子信親と共に成願寺山の杉伐採」
天正14年(1586)のこととされています。
「本能寺の変」が起こったのが天正10年6月ですから、秀吉は日の本の為政者への道をまい進していた頃、小田原の北条攻めが天正15年ですから、その前年ということになります。20万人を超える大動員でしたから、何かと忙しかったのでしょうが、京都東山に大仏殿を建立するとの大号令を全国に発し、土佐からは主として木材が調達されたのです。
権力者が自らの権力の誇示のために京都に大仏建立。ありそうな話です。ただ秀吉ですからただの大仏殿ではありません。
大仏の高さは六丈三尺(約19m)、大仏殿の高さは二十丈(約60m)なのです。
ちなみに奈良の大仏さんは高さが14,7mで大仏殿の高さは46.8mですから奈良東大寺の大仏さまより、京都東山の大仏さんは一回り以上大きなものだったのです。
国家的な大事業なのですから、本来だと20年ほどもかかる事業だったのですが、秀吉自身の健康不安や世情安定が急務だったことから、5年でとか10年でとかと無理を強いていたようで、「良いものを作るのには時間がかかる。」などといった理屈は通用しないのです。
大仏殿は文禄4年(1595)起案から9年で完成するのです。もしこの建物が現存していたら、世界遺産は間違いなく、大きな観光資源として貢献していたのでしょうが、残念ながら今はありません。
土佐藩林業経済史にも、土佐材は信州木曾、紀州熊野、九州日向等の諸地方と並んで供出されたとの記述があります。この大仏殿は広範囲から木材を調達しなければならないほど大きかったのですし、協力させることで各地の大名達を試していたのでしょう。
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さてこの大仏様。文禄4年(1595)には木製金漆塗坐像大仏として完成したのですが、慶長元年(1596)の畿内の大地震によって開眼法要前に倒壊してしまうのです。
大仏さんはなくなっても、権力者はここでも無茶をやります。信州の善光寺さんからご本尊を京都に運び「慶長3年8月22日に開眼供養をする。」との触れを出すのですが、秀吉の病が重くなり、8月17日にご本尊は善光寺に返されたのです。8月18日に秀吉、没。
22日には秀吉も、大仏さんもいないままで大仏開眼供養が行われたようですが、巷では「ばちが当たった。」といった噂が流れていたそうですよ。
この事業、後継者の秀頼が後をついで今度は銅製の大仏鋳造をするのですが、慶長7年鋳造中のミスが発生、大仏、大仏殿共に焼失してしまいます。しかし秀頼はあきらめず慶長17年に再建し、慶長19年に梵鐘も完成してやっと開眼供養にこぎつけたものの、例の「国家安康・・」という梵鐘の銘文に家康がクレームを付けて開眼供養中止に追い込むのです。
そして大阪を舞台に戦争が起こり、豊臣氏は滅亡となりました。
家康からすると、豊臣家の膨大な蓄財に一抹の不安を覚えていたのでしょうから、寺院建立は邪魔をする必要はなかったのでしょう。ただ国家的なシンボルが出来てしまうと「お披露目のまえ」に潰すことを考えたのでしょう。
件の梵鐘は今も京都東山の方広寺にあるのですから、梵鐘事件は・・・・。
家康はずるいよなあ。
大仏さんと大仏殿は寛政10年(1798)に落雷により焼失。
天保年間に規模縮小で再建されていたのですが、昭和48年3月深夜火災により焼失。
で、平成の代には現存せず。残るのは梵鐘と基礎石だけです。
権力者達の争いの具として、山から木材を切り出し、船で運んで・・・・。
田舎の理屈で考えると、「無駄なことを・・・。」「もったいないことをしなや。」
千年の大木も焼失するのはホンの一瞬ですからね。
平成の権力者達もあまりに勝手なことをすると、「ばちがあたる。」ぜよ。
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「北川風土記」にこうした記述がある。
「豊臣秀吉京都大仏殿建立の用材を土佐に求める。」
「長宗我部元親子信親と共に成願寺山の杉伐採」
天正14年(1586)のこととされています。
「本能寺の変」が起こったのが天正10年6月ですから、秀吉は日の本の為政者への道をまい進していた頃、小田原の北条攻めが天正15年ですから、その前年ということになります。20万人を超える大動員でしたから、何かと忙しかったのでしょうが、京都東山に大仏殿を建立するとの大号令を全国に発し、土佐からは主として木材が調達されたのです。
権力者が自らの権力の誇示のために京都に大仏建立。ありそうな話です。ただ秀吉ですからただの大仏殿ではありません。
大仏の高さは六丈三尺(約19m)、大仏殿の高さは二十丈(約60m)なのです。
ちなみに奈良の大仏さんは高さが14,7mで大仏殿の高さは46.8mですから奈良東大寺の大仏さまより、京都東山の大仏さんは一回り以上大きなものだったのです。
国家的な大事業なのですから、本来だと20年ほどもかかる事業だったのですが、秀吉自身の健康不安や世情安定が急務だったことから、5年でとか10年でとかと無理を強いていたようで、「良いものを作るのには時間がかかる。」などといった理屈は通用しないのです。
大仏殿は文禄4年(1595)起案から9年で完成するのです。もしこの建物が現存していたら、世界遺産は間違いなく、大きな観光資源として貢献していたのでしょうが、残念ながら今はありません。
土佐藩林業経済史にも、土佐材は信州木曾、紀州熊野、九州日向等の諸地方と並んで供出されたとの記述があります。この大仏殿は広範囲から木材を調達しなければならないほど大きかったのですし、協力させることで各地の大名達を試していたのでしょう。
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さてこの大仏様。文禄4年(1595)には木製金漆塗坐像大仏として完成したのですが、慶長元年(1596)の畿内の大地震によって開眼法要前に倒壊してしまうのです。
大仏さんはなくなっても、権力者はここでも無茶をやります。信州の善光寺さんからご本尊を京都に運び「慶長3年8月22日に開眼供養をする。」との触れを出すのですが、秀吉の病が重くなり、8月17日にご本尊は善光寺に返されたのです。8月18日に秀吉、没。
22日には秀吉も、大仏さんもいないままで大仏開眼供養が行われたようですが、巷では「ばちが当たった。」といった噂が流れていたそうですよ。
この事業、後継者の秀頼が後をついで今度は銅製の大仏鋳造をするのですが、慶長7年鋳造中のミスが発生、大仏、大仏殿共に焼失してしまいます。しかし秀頼はあきらめず慶長17年に再建し、慶長19年に梵鐘も完成してやっと開眼供養にこぎつけたものの、例の「国家安康・・」という梵鐘の銘文に家康がクレームを付けて開眼供養中止に追い込むのです。
そして大阪を舞台に戦争が起こり、豊臣氏は滅亡となりました。
家康からすると、豊臣家の膨大な蓄財に一抹の不安を覚えていたのでしょうから、寺院建立は邪魔をする必要はなかったのでしょう。ただ国家的なシンボルが出来てしまうと「お披露目のまえ」に潰すことを考えたのでしょう。
件の梵鐘は今も京都東山の方広寺にあるのですから、梵鐘事件は・・・・。
家康はずるいよなあ。
大仏さんと大仏殿は寛政10年(1798)に落雷により焼失。
天保年間に規模縮小で再建されていたのですが、昭和48年3月深夜火災により焼失。
で、平成の代には現存せず。残るのは梵鐘と基礎石だけです。
権力者達の争いの具として、山から木材を切り出し、船で運んで・・・・。
田舎の理屈で考えると、「無駄なことを・・・。」「もったいないことをしなや。」
千年の大木も焼失するのはホンの一瞬ですからね。
平成の権力者達もあまりに勝手なことをすると、「ばちがあたる。」ぜよ。
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