ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

厳しい朝

2009-08-31 10:38:17 | 日記
 朝、目覚めるなり、あちこちが痛い。
 山歩きの影響です。

 普段運動など無縁の生活をしていたのですから、仕方がないのです。

 それよりも選挙速報をずっと見ていたものですから、まだ少し眠いですね。
 全国的な自民敗退。しかし高知県って面白いところです。

 外は外。ここはここなんです。自民党の逆風下において、3議席全部とるとはね。
 新しい議員さんに、なにはともあれ頑張ってもらわなくてはなりません。

 今日、痛い痛いと思いながら過さねばなりません。
 また少し動いてみますかね。
 我慢して。

無事帰還

2009-08-30 16:34:39 | 野根山街道物語
 どうなることかと思っていたのですが、無事帰還しました。

 35Kmの野根山街道のホンの一部でしたが、運動不足から心配しておりました。

 朝8*30に出発して、12時ごろに宿屋杉に到着。お昼を食べて帰ってくるだけだったのですが、途中で膝はがくがくになるし、足は上がらなくなって、大変でした。
 帰りになると雨が降り出してしまって、41人が歩いた後はぬかるんで、すべって転んで大変。

 しかし、行って良かったです。明日になると足が痛くなるのでしょうが、満足しています。何人ものすばらしい出会いがありました。豊かな自然が待っていてくれました。自分なりの写真が取れました。

 いのししのヌタバがありましたよ。普段はイノシシたちの遊び場でしょうから今日は彼らにとっては、迷惑だったでしょうね。

 今日は行きも帰りも最後尾でしたが、41人が無事に帰ってきたのです。
 よかった。
 面白い形の木もたくさん探してきました。恐竜みたいな木とか、ビールジョッキみたいな木、倒れた木から枝が伸びて櫛みたいになっている木。神様が創る造形は何より勝るかも知れません。

 気力をもらったような気がします。

 また生きたいね。行きたいね。よかった。
 ほんの往復13Kmということは、片道6.5Km。
 全長35Kmですからね。まだ入り口です。

明日になった。

2009-08-29 11:52:03 | 日記
 どうなることやら。
 野根山街道散策前日になってしまいました。

 どんどん自信が崩れていくのです。

 知人を誘うのですが、「無理、無理」一言で片がつくのです。
 甘く考えていたのかなあ。

 しかし、ナイフの準備から水も、軍手もタオルから着替えのシャツまで入れた。

 思い切って、行くしかない。
 良い写真を撮るために、自然の中にGO。
 まあ、ぐずぐずと思い悩む持病です。

 自然と対話が出来れば最高で、みんなに迷惑をかけなければそれでよし。

ジオパーク認定。

2009-08-29 00:12:50 | Vision East
 日本初の世界ジオパークが8月22日に決定したようです。

 昨年GGN申請をしていた洞爺湖有珠山地域・糸魚川地域・島原半島地域の3地域が、ともにGGN加盟に決定しました。
 日本では初の世界ジオパークとなったのです。

高知県の東でも、室戸ジオパークとして提案されておりますが、今回は対象から外れてしまいました。残念でした。
今回は認定されるには至りませんでした。

日本ジオパークネットワーク(JGN)事務局にも頑張ってもらわないといけません。


 これからは、高知県のみならず徳島県南部、ひいて四国全体をエリアとして、ジオパークとして考える必要があるのではないかなと感じております。

 総選挙の真っ只中ですが、そうした論点は出てきません。聞いたこともありません。
 どの様にこの地域をゆたかに、そして住みやすい地域にしてゆくか、そうした提案がありません。

 しかし、選挙は行われ、誰かが代表として出てゆくのです。

 ジオパークの未来に乾杯です。ただ運動を展開している彼らを孤立させてはいけないのです。四国中をパーク(公園)にしようという提案なのです。

 いいじゃあないですか。壮大な夢です。
 応援の仕方を考えましょう。

ジェ-ン台風で倒壊。

2009-08-28 11:21:15 | 野根山街道物語
 今度の日曜日。8月30日に宿屋杉まで歩きます。

 昭和25年のジェーン台風で倒壊するまでの宿屋杉は目の高さほどで、周囲16、6mで高さ32m、樹齢1000年以上とされていました。残念ながら倒壊したのですが、未だにその残骸はその場所にあります。
 残っている根幹は、中が空洞になっており、空洞の中でゆっくりと休むことが出来るのです。かつての宿屋杉は、空洞内の広さが4,5畳程もあり、3~4人は休むことが出来たそうな。無賃の臨時宿泊所だったのですが、残念なことです。

 この大きな木の周囲の木を伐採したことで、風雨がまともに吹き付けるようになったから倒壊したとも言われておりますが、定かではありません。
 長い歴史を誇る野根山街道の中でも、多くの方々が空洞で疲れた体を休めたことでしょう。お世話になった木。
 街道を行く旅人の目印になっていた木。後どれぐらいと、元気を貰っていたはずです。
 周囲を圧倒していた当時の写真もありますが、迫力があります。

 運動不足の五体でサテいけるものか、自信はないのですが、一度いくといった以上、行かなければなるまいなあ。
 山の上で動けなくなった自分を想像すると、恐ろしいね。

 今から少々動いても、駄目だろうし、覚悟を決めてエイや!!。です。

 途中には絶景の場所が何箇所かありますから、無理をせずゆっくりと行きましょう。

 写真を撮る余裕があるかなしや。わからない。
 でも、がんばろう。ほんの13Kmですから。
 元気で行って来たよ。
 この場所で報告したいですからね。それから藩政林の良い写真がないのです。
 それだけは是非撮りたいですね。

 体力と気力のチェックです。

高松順蔵

2009-08-27 17:12:27 | 高知県東部人物列伝
 文化4年(1807)生まれで、安田浦の郷士高松益之丞の長男として生まれるのです。理由は定かではないのですが、8歳のとき郷士職を継いでいるのですから尋常ではありません。学問は祖父高松弥三衛門の指導を受けていたのですが、やがて江戸に出て、経史の研究をしたようです。また長谷川流の居合術を極めていたといいます。さらに絵は高知の壬生水石に師事し南画大雅堂の流れを学んだとされています。
 そして、和歌の道にもはいってます。諸国を廻り学者や歌人を尋ね、名所旧跡を訪ねて歌を詠み、郷里安田浦に帰っては自宅に閑居して悠々自適の生活を送っていたとされています。

 歌人学者という人もいます。多くの歌を残しているのですが、やはり高松順蔵は儒学を修め、終生儒教主義をもって近在の壮士に影響を与えた人物だと思うのです。ただ子供たちに漢訳の聖書を読み聞かせていたとの記録もありますから。かなり自由闊達な方だったようです。

 岡本寧浦は一級の学者たらんと努力をしましたが、小埜はやはり郷士なのです。足元の安田浦・安芸の山々が彼の脳裏から消えたことはない筈です。地域のリーダーなのです。

 安政6年(1859)。3月小埜は「経国私言」を著し、郡奉行山本只一郎に呈しています。それは国体・制度・教化・勧農・法令・賞罰・選士・励士・武備・兵権の10章からなっており、彼の思想が見て取れます。国のありようから、産業政策さらに防衛軍備に及ぶ総合政策といえるものであったでしょうが、詳細については解りません。あの時代、各地で今で言う「地域づくり」についての試行錯誤が行われており、土佐藩としても困窮する財政に難儀をしていたのです。時の藩主が藩の財政再建を小埜に任せていたら、案外やりおおせたかもしれません。歴史に「もし」と「たら」はありませんがね。
 備中松山藩の山田方谷が実例を示しています。

 さらに彼の妻はかの坂本龍馬の姉千鶴で、龍馬も時折安田に来ていたといいます。
龍馬も高松小埜から影響を受けた一人です。
 彼の門下には中岡慎太郎をはじめ、石田英吉・柏原禎吉・近藤次郎太郎や長男高松太郎・次男坂本南海男までもがいます。坂本龍馬が京都で亡くなった後、龍馬の後を継いだのは高松太郎(小埜の長男)で、龍馬の兄権平の養子となるのは坂本南海男(小埜の2男)です。坂本南海男は植木枝盛らの勧めで自由民権運動に入り論客として認められていくのです。さらに後年坂本直寛として高知県議会議員となっています。

 彼らは、高知東部地域における土佐勤皇党の主要メンバーであると共に、後の自由民権運動を主導してゆくのです。
 岡本寧浦が土佐勤皇党の父ならば、高松小埜は土佐勤皇党の養父であると称えられるゆえんです。

 高松小埜は、郷士なのです。剣を携え、詩歌の道に興じ、学を修めて子弟に伝える。さらに、知識を生かして藩主に意見具申をするのです。文武両道に秀でた人材だったのです。

 幕末の土佐を「代表する武士」かと思います。

 郷士だったから、こうしたことが出来たのですし、郷士だったから出来なかったことも数多かったはずです。

 高知東部人物列伝のなかでも、好きだなあこの人の話。

 

寧浦の道

2009-08-26 17:37:24 | 高知県東部人物列伝
 岡本寧浦。幼名を有隣、長じて大年。寛政6年(1794)に安田浦に生まれたのです。幕末の土佐において、揺るがぬ地位を築いた学者です。

 いったいどんな人だったのだろう。こんな記録があります。
 真宗本願寺派の末寺に生まれた彼は当然のごとく、仏典の研究をするところから始めます。場所は西本願寺の僧寮。さらに当時評判のよかった安芸の国(広島)の真宗の僧石泉に入門します。ここで彼の激しい気性が表に出ます。師石泉の評価があまりにも高くなり、悪い噂が本山あたりから出てくるのです。そうすると彼は京都西本願寺に単身乗り込み、師石泉のために弁明に行くのです。ただ、議論の結果を恐れて誰も応答するものはなく、ただ番士が「出て行ってもらいたい。」というだけだったそうな。弁明に失敗した寧浦は自殺まで考えるのですが、思いとどまって、大阪天満正覚寺において「教行信証」全巻の講演をやるのです。1年以上かかったとされています。40歳ぐらいのときですね。
 直情型の典型のような話です。こうした経験の中で彼は、仏法は活社会においての実益に少なさを悟り、仏教から儒学に転向することになります。
 儒学に転向した寧浦は、大阪の篠崎小竹等について儒学を学び、さらに易学に関心を寄せます。寧浦の評判が高くなりに及んで土佐藩主山内豊煕(トヨヒロ)によって召抱えられることになるのです。

 勤めのかたわら高知新町で家塾、紅友社を開くのです。そして門人千人といわれるほどの評価を勝ち得てゆくのです。

 寧浦は、短身で風采が上がらず、いつも粗末な着物を着て、袴は継ぎ布が当たったものをつけていたといいます。さらに家に帰ると門口から袴を解き始め、家中を歩きながら着物を脱ぎ散らし、夫人が後ろからそれらを丁寧に始末をするといったさまだったそうな。知らない人が見たら奇人狂人の類でしょう。
 そして酒。よく飲んだそうな。そしてよく人と交わっているのです。
 武市瑞山・鹿持雅澄・吉田東洋・間崎滄浪・釈志静・等々キリがないほどです。

 土佐で一定の評価を勝ち得た寧浦は江戸にでて学問の奥義を窮めたいとして47歳のとき江戸に出ます。この時佐藤一斎の門を叩くのです。
 彼の学問は、儒教を根底にし、佐藤一斎の影響を受け、朱子学に陽明学を加えて歴史に通じ、詩文をよくし、さらに易学の大家であったという。
 さらにその指導法は自由闊達で、個人の能力に応ずる個人指導で、門人曰く「実の面白く、よく理解できる。」という。
 又、子弟の間は実に和やかで、講義が終わると高弟数名と酒を飲み、和気藹々としていたそうな。
 その門人にしても、清岡道之助・河田小竜・岩崎弥太郎・岩崎秋溟等々これもきりがありません。

 酒を飲みすぎたからか、体が・・・。そうした話がたくさん残されています。
 朋と語らい、酒を飲み、趣味に遊んで、道を極める。
 こんな贅沢なことってあるだろうかね。 財産を残したっていう話はないようですね。
 しかしこんな先生が近くにいたら、生徒は幸せです。通えば通うほどに子弟が元気になるのですから、これ以上のことはないのです。

 彼は子供がなかったことから、縁戚になる岩崎弥太郎を養子にしようと本気で考えたそうですが、岩崎家の長男だったことからあきらめて、甥暁馬が後を継ぐのです。しかし慶応4年戊辰戦争のおり土佐藩の正規軍として組織された迅衝隊の隊士の中に岡本暁馬の名前があります。さて・・。
 岩崎弥太郎も岡本寧浦の養子になっていたら、人生が変わっていたのでしょう。
それはそれで面白いですね。

a! 今日、誕生日だ。

2009-08-26 09:15:33 | 日記
 誕生日。もう来なくても良いと思うこともあるのですが、「おめでとう。」って言われると「ありがとう。」。良い言葉が交差します。

 それだけでうれしくなります。

 今日は、良い日です。きっとです。何か良いことが起こります。
 良い経験が出来るでしょう。なにか。

 今日は午後に研修会がまたあります。
 今日のテーマは「藤村製糸株式会社」製造工程です。
 何か新しい、発見があるでしょう。

縁は面白い。

2009-08-26 00:36:38 | 日記
 今日は、夕方から町民会館で研修会がありました。ご案内の演題は「森林鉄道遺産と町並みガイド研修会。

 実地研修の町並みのガイドは先輩諸氏がやってくれましたので、よかったのですが、びっくりしたのは講師の話です。

 講師岡山県高梁市観光ガイド会会長さん。

 興味ある話をたくさんしていただいたのですが、何よりもびっくりしたのは、彼の話の中に「佐藤一斎」と「山田方谷」の名前が出てきたことでした。

 それから、ガイドの話はそっちのけでした。歴史の中にも観光資源はたくさんあるのです。面白いですね。

 高知県と「佐藤一斎」と「山田方谷」。さらに「佐久間象山」。さらに「岡本寧浦」。関係がありますね。

 佐藤一斎は、幕府の学問所昌平黄の儒官(総長)だった方です。幕末の難しい時期に陽明学を中心に多くの門下生を育て、安政元年には日米和親条約締結の際、時の大学頭、林復斎を助けて、外交文書作成などに尽力したとされています。
 新しい時代の指導者達に多くの影響を与えた方です。

 そして山田方谷。
 備中松山藩だったのですね。彼は帰藩以来、産業振興やら行政・財政・兵制・教育等各分野の改革に成功するのです。天下の耳目を集めたとされています。
 今日の講師の先生は、この備中松山藩からお見えになったのです。

 彼の改革が終了する安政4年から2年後、安政6年の3月、安田浦の高松小埜は郡奉行、山本只一郎に「経国私言」という一書を呈しています。
 と言うのも安政4年6月には、土佐藩は財政困窮のため、藩士の俸禄を半減しているのです。方や備中松山藩の山田方谷は藩の財政改革を成功させていたのです。
高松小埜は佐藤一門ではありませんが、もしかすると今の岡山県の山田方谷の事例が情報として入っていたかもしれません。今の行政担当者も興味を持ったほうが良いと思うなあ。

 学問の世界でも情報は多分飛び交っていたのです。
 変革が求められていたときだけに、皆、耳をそばだてていたのです。

 そして、そのほかの門下生に「佐久間象山」「岡本寧浦」。関係がありますね。

 山田は天保7年(1836)には備中松山藩に帰っていますし、寧浦が佐藤一斎の門を叩いたのは天保11年から12年にかけてですから、いわゆる机を並べてとはいかなかったようですが、同門になりますね。

 岡本寧浦は後に、「土佐勤皇党の父」と言われる存在になりますし、山田のライバル佐久間象山は勝海舟の師匠となるのです。

 
 「佐藤一斎」と「山田方谷」2名の話から後ろの話は、なぜか覚えていない。
 頭の中は、幕末でしたからね。
 しかし、今より幕末の方がなにやら近しい気がする。
 現代に生きる私のほうが、岡山県のことなど知らないからね。
 情報がありすぎて、整理も出来ていないから使えないのです。通過するだけです。

 同じ研修会へ出席した方々に聞きましょう。
 あれから、なにか?・・・・。

 

 

米寿の仲間

2009-08-25 08:37:44 | 太極拳
 昨夜、太極拳の練習がありました。普段やらないだけに、体が痛いことです。

 その仲間に米寿の方が新しくお見えになって、一緒に体を動かしております。初めての太極拳ですから、知らない事だらけなのでしょう、目で追って先輩方の動きを真似ているのです。

 見ていてほのぼのとして、楽しい気分にさせてくれます。
 先輩方も何人も何人もその方の質問やら、アドバイスをしています。
 練習の最後に私の近くで目があったことから、部分的なアドバイスだけさせていただきましたよ。
 ゆっくりですが、本当にゆっくりですが、体が動くようになってきています。
 頭の中でイメージが出来ると、モット自然に動けるようになるでしょう。

 まだ2回目ですが、前回来たときには「ゆっくり寝ることが出来ました。」といってくれました。
 さて、今回はなんと言ってくれるのでしょう。期待大です。

 ただ、最後に言ってくれました。「ありがとう。」
 簡単な言葉ですが、良い言葉です。
 うれしいですね。反対にこちらからも「ありがとうございました。」です。
 3回目も来てほしいですね。