ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

法は法。されど・・・。

2011-08-16 20:10:39 | 高知県東部人物列伝
 本日のご紹介は、細川是非之助さんです。

 成功した経済人でもなく、政治家でもありませんが、是非・是非紹介したい方なのです。奈半利町平で天保14年(1843)に生まれていますから、幕末の勤皇の志士能勢達太郎と同い年と言うことになります。中岡慎太郎が天保9年生まれですから、5歳ほど年少だったことになります。

 さて彼にまつわる最も有名な話からご紹介します。



 これは、細川是非之助ではありません。
 佐賀県の英雄江藤新平の写真です。

 佐賀の乱に敗れて逃避行をしていた江藤新平を明治7年に高知県安芸郡甲浦で捕縛。
 有名な話としては、高知市内に移送する際、3日もあれば十分の旅程を倍の日数をかけて江藤新平を護送犯人ではなく観光客のように配慮したとして、高知県小属、細川是非之助は県庁でさんざんに叱責を受けたというものです。

 彼は、叱られることについては多分解っていたのです。ただ彼の心情から、そうしたのですし、納得してやったのです。いかにも「土佐っぽ」といった感があります。
 それがどうした。なのです。
 「えらい、日数がかかっちゅうじゃあないか。」
 「新政府がおこっちゅうぞ」

 で、「それがどうした。」なのです。

 法は法。されど前参議、前司法卿として遇したことになります。

 2~3年前高知新聞にその際の経費明細が発見されたとの記事を読んでいて、興味を持ってそれを読んだ記憶があります。

 細川家は長宗我部の家臣として、大阪夏の陣にも出陣、敗戦の後、縁故を頼って奈半利に来たのですから、立派な郷士、士族です。
 その細川家の息子なのですが、家が貧しかったことから、寺小僧に出されます。

場所は南月渓のいる田野の浄土寺(廃寺)です。親御さんも考えたのです。何処にあづけるのがいいかをです。
 南月渓。なかなかの気骨溢れる坊さんだったようで、市太郎(是非之助の幼名)をびしびし鍛えるのです。

 寺の作務は当然として、経史や剣道まで教えていたのですから、忙しかったことでしょう。生活そのものが修行と言った塩梅です。けれども幼い市太郎のためにはよかったのです。

 慶応4年24歳のときに会津戦争に従軍し、明治3年に高知藩八等官小従事監察司に明治5年に30歳で高知県小属となるのです。

 彼の友人には、野根山屯集事件に参加した者もいるのですが、彼は野根山には行きませんでした。やはり安芸郡奉行所寄りの立場であっただろうか。そんなことも考えたりします。時の流れは勤皇・倒幕に傾きかけていたことは、感じていたでしょうに。

 甲浦から高知までの、護送旅程の最後の晩は、岸本の畠中氏宅であったそうですが、飲み且つ食べ、江藤新平は詩を読み、揮毫までしたのです。宴です。

 それからの是非之助は、司直として小田原・名古屋に勤務し、父が病を得たことで明治14年に帰省。
 さらに、明治16年には長岡郡長、さらに安芸郡長を務めます。
 やはり士族でしょうかね。金に踊らず名誉にも傾かず、自分の信ずる道を歩き通したのだと思います。

 最後に彼がなくなったときの逸話です。

 明治28年11月。近所の還暦の祝いの席に招かれ、酒宴の途中倒れるのです。
 突然のこと、彼の妻はこんな言葉を残したそうです。
 「貴方、こんな処で御寝(ぎょし)なったらいけませんろう。私と一緒に帰りましょう。」と涙ひとつこぼさず自宅へ連れて帰ったとのことです。

 いまなら、「救急車!!救急車を呼んで!!」と言うところでしょう。
 士族の妻は、いつも死と向き合っていたのでしょうか。
 清岡道之助の妻、静さんもこんな風情だったように思います。

 享年53歳。

 細川是非之助。なにか北川村の北川武平次さんや同じ田野町の濱口義立さん達と似た匂いを感じます。世情に流されず、我とわが身をキチンと律する力を持っていたように思います。

 彼の孫、細川高義さんは私の中学校の時の音楽の先生でした。温厚な好い方だったと記憶しています。そういえばアノ家に泊めていただいたことがあります。

 どうも士族の士は特別な教育を受けていたのでしょう。
 今の私共には、わからない世界です。


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駆け抜けた人 2

2010-06-21 10:23:04 | 高知県東部人物列伝
「尚亭先生」そのように言う方々は多い。そのままの言葉で彼の人となりを、いい表しているのでしょう。
 大阪に移ったのち、大正13年(1924)、甲子書道会をおこして、「書の研究」を創刊するのです。この雑誌、お世話になった方は多いのではないでしょうか。
 もしかしたら、今でも出ているんじゃあないのかな。
 もちろん「尚亭先生」はいませんがね。

 特別に選ばれた人達だけでなく、多くの大衆を相手として、書の普及と研究に精力的に取り組むのです。

 名著とされる「楷書階梯」、「随所に鋭い見識が見られる」と評されている「書道史大観」にしても、門外漢の私には真の価値について理解できるはずもないのですが、彼の周辺から綺羅星のごとく、多くの人材が輩出するのです。
 桑原翠邦、金子欧亭、手島右卿、高松慕真、南不乗、間介浦、・・・。
 もっと評価されてもいいのではないだろうか。

 そのように思います。
 高知県安芸市には、「安芸市書道美術館」が昭和57年に設立されておりますし、川谷尚亭の作品もたくさん所蔵されていますので、一度見にいってはいかがでしょうか。

 会館当時に行ったときは、印象としては暗い感じだったのですが、最近では誠に刺激的な場所になっています。

 こちら側の目が違ってきているのでしょう。
 書は「美しいと思えるもののひとつ」なのです。

 しかし、理屈は全く分かりません。
 単に、美しいと思えるようになってきただけなのです。
 それに、一度にたくさんの作品を見ると、疲れます。

 人生50年、・・・夢、幻の如く也・・・。
 人の世を「駆け抜けた人」と題をつけました。
 今の世、恐れられる人、金儲けのうまい人は多い。
 しかし尊敬される人は少ないのです。

 川谷尚亭。えらい人です。リーダーですね。

駆け抜けた人

2010-06-19 21:34:52 | 高知県東部人物列伝
 まだこの方について書くのは、材料不足で早いような気もするのですが、思い切って始めることにします。

 明治19年の春、安芸の川北で生まれるのです。土佐の高知では自由民権運動が大きなうねりとなって山谷を席巻していた頃、そしてまだサムライの時代の気配が色濃く残っていた頃です。

 生来、体は、あまり強くはなかったかもしれません。
 名前を川谷賢三郎。後の書家、川谷尚亭です。

 この方を紹介したいなと思ったのは、書家としての評価より、その経歴なのです。
 何があったのか、明治39年(1,906)20歳で安芸第三中学校を卒業します。そして地元川北村役場に就職するのですが、新たに中国上海の東亜同文書院に留学するのです。しかしながら病を得て療養を余儀なくされて帰郷。今度は川北小学校で教鞭をとるのです。この頃でしょうか、書道への道が開かれます。近藤雪竹に師事すると共に、毎日5合の墨を使っての研鑽を繰り返すのです。

 日々小学校で子供達と過ごし、それから筆を持つのです。次第に頭角を現し始めます。

 大正5年(1916)には高坂高等女子学校の教諭になり、さらに同7年には上京して三菱造船会社に入社します。郷里の先輩、岩崎弥太郎の興した会社です。

 多分この当時では、自分の書家としてのありようについては、実感していたはずです。
 在京中は当然のごとく、書道界の重鎮達の薫陶を受けるのです。
 
 幕末の志士達が江戸に向かい、佐藤一斎の基に行っっていたようなものでしょう。
 昌平坂学問所に入れなくとも、彼の私塾に全国から希望者が参集していたのです。

 学校で生徒と向き合いながら、書家としての自らの修行を平行させていたのですから、教育分野の研究と自らの筆致の自立、書の完成を目指すことになります。

 最近、書を見ると「美しいな」と思います。
 以前は「うまいなあ」とか「何か変」さらに「読めんなあ」だったのです。

 白と黒。そして朱の落款。バランスがいいよなあ。そんな気がする。
 絵画を見ているようですらあります。

 自らの芸術について追い求める方と、後進の指導をも意識する方がいます。

 川谷尚亭。両方を追い求めて、やってしまった巨人です。
 波乱万丈です。彼の人生は。
 しかし達成感はあったろうと思います。しかし享年47歳です。凝縮された人生といっていいのかな。

 次回もう少し。
 
 







幕末の独眼流。2

2010-06-12 04:15:59 | 高知県東部人物列伝
 独眼流と称された清岡道之助は、坂本龍馬や中岡慎太郎と比べて全国的な知名度はありません。が。
 歴史に”もし”はないのですが、もしと考えることがあるのです。もし野根山を越えて脱藩に成功していたら、その後の彼らの活動はいかなることに・・・。

 期待してみたくなるような23人の志士達なのです。その首領は、清岡道之助。

 彼は、左目が不自由なだけに武術の修行より、学問の修行を優先するのですが、佐藤一斎の塾を3年程で出るのです。彼の勉学振りは評判となるほどでしたが、父親が病没するなどして、帰郷することになります。

 「濱口の旦那は物好きだ、美人の金さんを、片目の男にやるとは・・。」道之助が美人の誉れ高い、濱口源次郎の娘と結婚したときの話です。ただ源次郎は「日本一のむこ殿。」といって喜んだという。道之助のことを考えるとき、いいエピソードです。
 
 中央の情勢は刻々と変化してゆくこともあり、何度か関西へと往復するのですが、文久2年(1862)12月京都で武市瑞山と、清岡治之助のとりなしで面談します。彼の後半生が決まってしまうのです。
 学問で身を立てる筈の道之助が、武市の持論。「藩論統一による尊皇攘夷」に傾倒してゆきます。
 土佐という閉鎖社会においては、藩主の意見は絶大で、武市以下の志士達が投獄されたことで、環境変化が起こるのですが、ここから又、道之助の真面目さ、正直者振りが発揮されるのです。
 彼らは、単に武市を、仲間を救いたかったのです。土佐全域からの仲間を集めて藩に意見具申をすれば、なんとかなると本当に思っていたのです。しかしそうはなりませんでした。
 藩からすると、武器を携えて野根山に屯集したのですから、反逆者の烙印を押してしまいます。結果として、彼らは状況判断が出来なかったことになります。
 ただ、たった23人の行動に藩は恐れおののいたのです。

 彼らは武器を持ちながら戦わず、言論によって対抗しようとしたのです。
 結果。死罪。多分インテリでありすぎたのです。

 のち、戊辰戦争で土佐藩は大きな成果を上げます。掛川から土佐へ、山内候は徳川幕府に恩顧を感じていたのでしょうが、新しい時代の到来に、竿をさし続けることはなかったのです。
 野根山屯集事件においては、23人の志士たちは誰も救えなかったのです。
 彼らの組織は、彼らの評価より藩のそれの方が高かったといえます。
 そして土佐藩においては、ありえないことが起こったと、過剰反応を起こしたのです。
 
 どこかの大学教授が、中岡慎太郎を評して、「戦闘的民族主義者」といいました。
 しかしながら、23人の挑戦者は、けっして戦闘的ではありませんでした。
 彼らは行動的民族主義者、提案者だったのです。
 彼らの行動をきっかけにして土佐は変わってゆきます。公武合体から倒幕に向かいます。
 そして自由民権運動に発展してゆくのです。
 
 もし、もしですが、清岡道之助が明治の時代に自由民権運動に参加していたとしたら、
・・。そんなことを考えております。
 彼は、武力より学にて身を立てたかったのですから。
 
 

 

 

 

幕末の独眼流。1

2010-06-11 23:06:21 | 高知県東部人物列伝
 日本史レベルでは、通常独眼流といえば、仙台の伊達政宗ですが、幕末の土佐、それも東部地域には独眼流と称された人物がいたのです。

 名前を清岡道之助。野根山屯集事件の首謀者として、投獄された武市半平太の救出を目指すのですが、最後は奈半利川原で処刑されてしまうのです。
 この東部人物列伝では、奥方の静さんを先に紹介してしまいました。
 遅まきながらの紹介です。



 風貌からしても、大胆不敵。少々のことでは動じないサムライなのです。

 高知県安芸郡田野町土生の岡の郷士清岡又三郎春勝の長男として、天保4年(1833)に生まれます。
 幼少の頃より武術は一刀流の名人濱口源次郎の道場に通い、学問は医師宮地太仲の家に通うのです。濱口源次郎は、後年道之助が結婚することになる、静(そのときは金)の父親なのですし、宮地太仲は田野浦の医師です。単に医師とはいっても、藩主にも召し出されるほどの医師ですし、かの頼山陽とも交流があり、頼山陽が宮地家を訪問したとの記録まであるほどなのです。こうした方々の指導を受けることから、彼の学問が始まるのです。
 さらに、安田の高松順蔵の処に通うことで、学問の幅が一挙に広がり、岡本寧甫とも繋がることで、さらに向学心に燃えて江戸に行くのです。佐藤一斎の基の書生寮に入るのです。 日本でも最高レベルの勉学の場所に飛び込んだことになります。
 たぶん、江戸での経験が彼の後半生を決めてしまいます。日本と外国。天皇家と徳川幕府。土佐と日本。考える時間が与えられて、当時最高レベルの指導を受けるのです。日本という国の本来あるべき姿についてです。
 
 表題にも独眼流と記しましたが、道之助は左目が不自由であったそうで、武力より学問で身を立てようとしたのです。それだけに学問の習得には鬼気迫るものがあったのです。
 目が悪いことについては、幼少の頃病にてとか、剣術の稽古で切っ先が目に・・とか、諸説があるのですが定かではありません。

 ”独眼流”と畏敬の念を持って語られるほど、周囲の評価が定まるのです。
 そうした時期がすぐに訪れます。
 土佐の東部地域における彼の役割は独特でした。

 幕末の土佐では、尊皇攘夷運動が活発化して、土佐勤皇党が組織されて、明治維新への道が開かれるのです。
 

 

自分に向き合った人。2

2010-06-07 11:09:55 | 高知県東部人物列伝
濱口義立。彼が生きていた時代は,幕末から明治にかけての、激動の時代なのです。
 そして、その時代に淡々と生きて、最晩年になって、思い切った決断をするのです。

 今でも思うのですが、何で??。
 そんなことをしたんだろうか。背景について考えてみたのです。

彼が生まれた濱口家は、高知県安芸郡田野町の奈半利川沿いの荒地を開墾することで農地化したのです。農業をする前に、川を制することを家業としてきたのです。そうした経験をかわれての、「奈半利川筋普請役」だったのではないか。それだからこそ「白札」だったのです。
 土佐藩からしっかりとした評価を受けてきた現実があったのです。

 高知県東部地域の有意の青年達は、全国に雄飛して勉学に励むのです。そうしたことが容易に認められる時代だったのです。そして庄屋同盟や郷士たちによる儒教思想が定着してゆくのです。特に「知行合一」を掲げる陽明学による影響は多大なものがあったのです。尊王攘夷運動や勤皇に向かう社会が醸成されていったのです。かれも安田浦の高松小埜や岡本寧甫の塾に出入りして知識は吸収し、その塾で多くの活動家となる人材と知遇を得るのです。
 しかし、濱田義立は動きませんでした。ただひたすら自らの仕事に励むのです。

 野根山屯集事件の首領清岡道之助とは、年齢は1歳違い。同じ郷士の家に生まれて、同じ社会状況の中で育っていくのです。さらに彼の妹が道之助に嫁すのですから義兄弟です。
 彼は、尊王攘夷運動にも参加せず、当然のごとく野根山には行きませんでした。
 ただ、道之助等志士達の亡き後、残された家族達の相談役であったのでしょう。

 明治維新の社会変動にも動じることなく、自分の出来ることを着実にこなしてゆくのです。ただ、2人の息子を早世させてしまったことで、50を過ぎてから、娘・夏に養子を迎えるのです。「家」の存続についても、しっかりとした選択をするのです。高知の五台山から”雄幸”をむかえます。”

 明治の時代になっても、自由民権運動にも参加した形跡はありません。全国に先駆けて始まった運動なのです。多くの仲間達が政党に分かれて争っていた時期にも、彼は声を張り上げたりはしなかったのです。
 腕もあり、財もあり、人望もあったのです。ただ彼がそうした選択をしたのです。

 しかし、なぜ北海道だったのでしょうか。開拓するだけなら近在にも候補とする場所はあったのです。しかし彼は北海道。厳寒の北海道に行ってしまうのです。楽隠居を決め込んでもいい立場であったはずなのですが。

 昭和の初期に「満州へ行こう。」といった風潮がありました。ブラジルなどの南米に移民をする事業にも多くの人が参加をするのです。しかし彼は北海道だったのです。

 北海道でないといけなかったのでしょう。たぶん彼は戊辰戦争を引きずっていたのです。

 尊王攘夷運動から討幕運動、さらに明治の新政府が機能し始める時期に戊辰戦争の最後の場所に向かうのです。「俺にも何かやれることがあるだろう。」「新しい世に、なにかやれることがあるはずだ。」
 それは、日本のなかでも、これから開拓を必要としていた、北海道だったのです。
 あの場所だったら、自分の治水事業の経験や自治組織運営の経験が活かされると思ったと思うのです。
 私は、彼が自分の意思を貫き通した事への後悔から、死を意識して北海道に向かったとは思いたくないのです。何かをなすために、俺にしかやれないことをなすために、北海道に妻を伴って出かけるのです。 
 死に場所探しだったら、妻は同行しないと思うのです。そういう人だと思います。
 彼がかの地でなしえるであろう栄誉を、妻と共有したかったのです。

 彼は、翌年北の空の下で、人生を終えます。体が彼の意思に反したのです。
 彼が、かの地で何をなしたか、定かではありません。
 彼の死後、妻・幾子は子供達(雄幸・夏)の元に向かいました。静かな余生であったことでしょう。
そして濱口家は雄幸の孫が正田家に嫁ぐことで、天皇家に繋がることになります。
 着実な人生だったのではないでしょうか。いい人生を過した方かと思います。

自分に向き合った人。1.

2010-06-05 19:05:42 | 高知県東部人物列伝
 高知県東部地域、こんな田舎にいても、その時々の時代の波は打ち寄せてくるのですが、もっとも派手な、というか地域が時代に翻弄されていた時期に生きていた男の話です。

 名前を、濱口義立(よしなり)といいます。天保3年(1832)生まれですから、清岡道之助より1歳年長ですし、岩崎弥太郎より2年先輩になります。ですから、著名な幕末の志士達と同年代の方なのです。

 もともと田野町の濱口家は、彼で7代目だったのだそうですが、郷士とはいえ「白札」格ですから、かの武市家と同格なのです。役向きは奈半利川筋普請役。なかなかの重要な職務なのです。昭和初期までの奈半利川は、3年に一度は氾濫を繰り返していたような暴れ川だったのですから、重役です。

 さらに、父源次郎は一刀流の達人であったようですが、彼も居合術に秀でていたそうですから、文武両道であったのです。
 その彼が60歳を越えてから、家督を弟に渡して、北海道に入植するのです。
 場所は、北海道紋別郡湧別村原野(地番なし)なのです。

 今、彼に注目しているのは、還暦をすぎたご隠居さんが厳寒の北海道へ向かおうと、駆り立てられた理由です。
 あくまで想像の世界です。仮定が多くて思い悩んだのですが思い切って書くことにします。
 多分彼は、仲間に対し「死に遅れた。」と思っていたのです。自分の五体をかけて、全存在をかけて、時代と向き合おうとしたのだと思っています。
 そして、自分なりのけじめをつけようとしたのだと考えているのです。

 しかし、まじめな方です。家の財産のことは弟に託し、自分の家系のことは、娘に養子を迎えて独立をさせてから、動き始めるのです。

 濱口家は幕末には、約100石の収入があったそうですから、上士のなかにはいっても中堅クラスです。郷士としては最高ランクなのですから、捨て去る理由はなにもない筈なのです。

 濱口家に迎えられた養子は、後の雄幸です。高知県で最初に内閣総理大臣になった人物なのです。彼が帝国大学を卒業し、大蔵省に入省してから動き始めるのです。それも妻も連れて、2月に極寒の北海道に向かったのです。

 21世紀の現在、そんなことをする人はいないと思います。
 ただ彼は死にたかったのか、多分死に急いだわけでもなかったと思うのです。
 後に彼の娘婿、内閣総理大臣濱口雄幸は、東京駅で暴漢に襲われます。そして「男子の本懐。」と名言を吐くのですが、殺されようが、何をされようとやることはやる。」だったのです。
 
 私は思います。濱口義立はずっと考えていたのです。死に様をです。
 恐れを抱くことなく、前に向かうのです。北海道は、彼にとってそうした場所だったのではないか、そう思っています。

 野根山で屯集した23人を、奈半利川原で斬ってしまった小笠原唯八も戦に向かい、会津戦争の最中、大砲に当たって死んだとされています。
 彼もその日の朝、言ったそうです。
 「今日こそ俺は死ぬる日だ。」狂人みたいに喜んでいたのだそうです。
 今と違って死が身近にあったのです。

 しかし、一体濱口義立は、なんで??。昔の侍の考えることは??。
 それは、次回に。

作曲家です。

2010-05-02 09:20:12 | 高知県東部人物列伝
 よき時代の作曲家です。そして高知県が世界に誇る人材の一人かと思います。



 弘田龍太郎です。
 安芸市土居で生まれるのですが、父親の仕事の関係で3歳で高知を離れるのです。東京音楽学校(現東京芸術大学)をへて作曲家になります。
 
 作曲家弘田龍太郎は、多くの作品をのこしているのは、皆さんご存知の通りです。

 ただ先日、彼の作品一覧を眺めておりますと、作詞家に有名な方々が多数います。
 野口雨情や北原白秋はもとより、島崎藤村、与謝野晶子、室生犀星、等々並んでいるのです。彼らを魅了した弘田龍太郎の名は21世紀の今でも、今後も残っていくでしょう。

 春よ来い。雀の学校、浜千鳥、叱られて、小諸なる古城のほとり・・・題名を聞くだけで口ずさめるんですから、偉い方です。

神になった男

2010-03-19 23:31:09 | 高知県東部人物列伝
 室戸市羽根町の旧道を東に向かっていると、小さな、といっても普通にくぐれるほどの大きさはあるのですが、鳥居があります。鑑雄神社です。
 この神社に祀られているのが岡村十兵衛なのです。

 藩政時代の羽根浦は藩主の直轄地だったこともあって、お城から徴税官として分一役が派遣されていたのです。布師田の出身であった岡村十兵衛が任命されて赴任して来たのは、天和元年(1681)2月の頃だったそうな。
 分一役とは、他浦他国へ船積みするときに課税する税を分一銀といったことから、この名前があったのです。

 当時羽根村は不作、不漁続きで困窮の極といったところだったそうで、赴任してきた岡村は村内をくまなく歩いて救済方法を検討し、藩の許可を得て木材を伐採し、大阪に売りさばいて利益を出すのですが、根本的な救済とはならなかったのです。
 
 貞亨元年(1684)彼が赴任して3年あまりたった頃、状況がさらに悪化したことで藩庁に嘆願し続けるのですが、返事がなく、彼は無断で御米蔵を開いて浦人を救済するのです。

 後に、その責任を取って割腹して果てたそうな。
 そして浦人は彼の死を悲しみ悼んで、鄭重に葬ったそうな。

 弘化4年(1847)には13代山内豊照が彼の墓前に手を合わせることになるのですし、維新の後、明治4年には鑑雄神社として祀られることになるのです。
 昭和28年、没後270年祭を挙行した時には、各界の名士が参列し特に高知県の長老元貴族院議員野村茂久馬の参拝があって、羽根村始まって以来の盛会であったとの記録があります。

 自らを犠牲にして、民を救済した義人岡村十兵衛は神となって、未だに手を合わせる多くの方々に囲まれて、崇拝され尊敬を集めているのです。
 

 

人生の意義に。

2010-03-19 11:14:58 | 高知県東部人物列伝
 彼の名前は、藤村六郎といいます。明治21年(1888)生まれです。
 藤村製糸株式会社の創業者藤村米太郎氏の二男です。
 
 昭和22年(1947)奈半利町の町長に就任することから今回の話が始まるのです。59歳のときです。
 公言することは、「わたしは、新港開設のために生まれてきたような人間です。」

 そして考えていたことは、「特定の人の名前を残さず無名の方々が、”よってたかって”
この港を造るところに奈半利港の価値があり、それに何を求めずに奉仕できた方々にほんとうの人生の意義がある。」なのです。

 人生の意義を考えながら、仕事をしていた町長がいたことに驚きです。
 昨今はいい結果が出ると、「俺がやった。」「すごいろう。」そんな政治家ばかりです。
そして失敗事例が出ると、「知らなかった。」というのです。

 「特定の名前を出さずに・・・。」地域運動の大切なところです。
 「人生の意義・・・。」最近こんな話を聞いたことが無いなあ。

 当時の港は河口港で、奈半利川が暴れると埋まってしまうような港だったのです。
 紀貫之の土佐日記にある「奈半の泊り」の事例もありますし、中芸の森林は長曾我部元親の時代には既に木材資源の豊富な場所として中央でも評価が定まっておりました。
 秀吉の依頼で京都方広寺大仏殿造営の為に木材を搬出した記録がありますから、港は必要な施設ではあったのです。ただ地形的には、港を造る適地ではなかったことから、昭和28年に着工した港は掘込港湾だったのです。

 高知県の東部地域に商業港を作ったのです。400年以上前から木材の搬出港としての役割を果たしてきた実績が地域住民の理解を得て、運動として展開が出来たのです。

 戦後初の選挙に出て、当選。自分の役割を果たして、退任するのです。
 港建設に、自分の政治生命をかけたのです。
 彼が町長をしていたのは、昭和22年(1947)からの8年間。2期です。
 藤村家の巨財を食いつぶしたとされている彼ですが、実に魅力的な人物です。
 また、町長退任後亡くなるまでの13年間程をどの様に生活していたのか、興味のあるところです。さらに、彼が町長になりたかったとは思えないのです。押されて町長になって、気がついたら港・港だったような気がします。

 今も奈半利港は太平洋に向かって門戸を開いております。
 
 昭和43年(1968)2月没、享年79歳でした。彼の人生の意義は、やはり港だったのだろうか。もっと何かしら出てきそうな気がしております。政治生命は港だったのでしょう。しかし彼の人生からすると、たった8年間のことです。
 あと70年ほどの彼の生活について、追いかけてみたいと考えております。