ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

千本山探訪

2010-11-14 08:56:38 | 森林鉄道物語
 高知県安芸郡馬路村魚梁瀬の馬路村支庁を出発して、曲がりくねった細い道を20人ほどの仲間とバスで向かいました。
 魚梁瀬森林鉄道の最上流部、石仙。かつての森林鉄道の本線終着地点も今はダムの水面の下になっています。

 
 かつては多くの労働者が働いていた場所で、森林鉄道の基地であった場所なのです。
 今はダムが出来たことで、水面が上昇して湖面が続いているだけです。多くの流木が溜っていて静かです。
                
 
 紅葉が美しい場所を経て、千本山登山口へ。




 この木の大きさが千本山の魅力の一つでしょうね。
 つい笑ってしまうのです。写真の中で木の大きさを感じていただくことが難しいほど全部がデカイのです。比較対象として人でも入れないと分からないと思ったのです。
                      

 植林された山ではありえない木々です。異なる樹種の木が互いに生長してこんなになっている。結構たくさん在りましたね。これも自然の一部です。

                   
 山に転がっている木も、デカイのですが、その場に放置されています。
 保護林ですからね。持ち込まず、持ち出さない場所なのです。

                   

 木の大きさも魅力ですが、この密度も凄いです。自然はえらいねえ。

 

 歩くルートも木々の根が重なり合って、表土を突き破って地表で争っているみたいです。面白い形です。

                   
 今回の目的地、展望台です。展望台はありましたが、周辺の木々が生長して展望台からかつての景観は楽しめなかったのは残念でした。ずっと南にある魚梁瀬ダム湖も見えたのに今回は無理でしたね。



 圧倒的な存在の前に、人間はただ感動するだけなのです。
 たまにはこうした場所に行ってみたいものです。

 カメラはいいのですが、写真を撮る感性が磨かれていないことに失望をしつつ下山しました。
 いつも間にか、夕方になっていましたよ。

                  

出発地点がありました。

2010-11-04 07:30:22 | 森林鉄道物語
 高知県安芸郡田野町。かつて魚梁瀬森林鉄道の終着地点、貯木場があったところです。いまはもう、その気配すら感じることは出来ないのですが、田野町に貯木場があったことは、色々な場所や資料からイメージを膨らませることができます。

 古い写真があります。
 説明書きには、田野海岸の船積み作業(昭和30年)とあります。
 2隻の船が木材を積み込むために、海岸近くまで来ています。
 しかし大きいですねえ。杉の木のサイズ。
 森林鉄道で運ばれてきた木材が、今度は船で出発するのです。
 海岸で木材を船積みする作業員もたくさんいたのです。
 ただ、波打ち際で木が波にあおられて動くため、危険な作業だったようです。

 陸上運送より海上運送のほうが、当時は理にかなっていたのです。高速道路を中心とした基盤整備は出来ていないのですし、性能の良いトラックもまだ無いのです。



 現在の田野海岸です。奈半利川にダムが3つも出来たことにより砂利等の補給がされなくなったことから、海岸の砂浜が磨り減ってしまったのです。そして海岸調整のために離岸堤が、堤防の前には消波ブロックの山が築かれています。こうなると船は近寄れませんね。
 もちろん船で運ぶ何物も無いのですがね。

 かつてこの場所は、高知県中芸地域の最上流域から魚梁瀬森林鉄道によって運ばれてきた木材が、運び出されたところなのです。
 
 いまは、働く男達はいません。ただ波が打ち寄せ、時おり散歩する方々がいるだけです。

是非。おすすめです。

2010-09-20 10:14:46 | 森林鉄道物語


 この橋、是非一度見てください。
 魚梁瀬から馬路に向かう途中、犬吠谷川に架かっている橋で、旧魚梁瀬森林鉄道施設として国が重要文化財として指定しております。

 上路式の鋼製橋梁です。主径間は単トラス桁、側径間はI形桁となっております。
 大正13年に建設されたのですが、今でも県道の一部として利用されているのです。
 普通はトラス部分は路上の上に構築するのでしょうが、ここでは谷が深いこともあって、路面の下部にあります。

 車上から見ていると、周囲の樹木が覆い被さっている事も重なって、橋の存在に全く気がつかないのです。
 ドライバーにとっては、圧迫感がなくていいですけどね。

 深い谷をまたぐ橋、周囲の緑に映えて、赤く塗られたトラス構造がキレイです。

 今度、谷川まで下りてみたい場所のひとつです。
 見上げると首が痛くなりそうですが、一度は写真も撮りたいですねえ。

美しい曲線。

2010-09-19 09:07:19 | 森林鉄道物語
 この橋。魚梁瀬森林鉄道の堀ヶ生橋です。重要文化財に指定されると共に近代化産業遺産に指定されている橋です。昭和16年に建造されました。

 コンクリート造のアーチ橋で、スパンが43M、橋長46.9Mなのです。
 全国でも目面しい橋です。
 中央部分に待避場所があって、生活感に溢れております。



 底のカーブが美しいですね。一説によると無筋だという情報まで飛び交っておりますが、まあここでは鉄筋コンクリート製ということにしましょう。

 高知県の東部地域の貴重な財産ですねえ。
 行ってみて発見です。



 橋中央部分の辺りに位置する川床に平たい構造物を発見。
 この構造物に関して、同行の方々と協議したのですが、多分、多分ですよ、橋を建設した際の型枠の基礎ではないだろうかといった意見が多かったですねえ。

 橋を覗きに行って、建設方法に思いをはせておりました。
 楽しい時間でしたよ。

 老化が進行しつつある大脳に大いなる刺激があったと思います。
 橋を下から見るという、新たな習慣が定着しそうです。

 

廃墟

2010-08-16 16:23:03 | 森林鉄道物語
 森林鉄道の遺跡案内について、考えていたのです。昨夜、本当に深夜に本を読んでいたのですが、その中にこうした記述がありました。

 この世で「廃墟」が一番美しい。というのです。

 廃墟の中に露出している歴史を見て、人は感動する。

 人間がさんざんと一生懸命になって美を作り出そうとして、完成できなかったものを、物理的な自然と時間が完成させる。しかも今も見ているのは、その完成と崩壊のプロセスである。いまでも美が完成しつつあると同時に、消え去ろうとしているところを目撃するわけです。それが感動を生まないわけがない。

 廃墟をそのままで美しいと考える。この考え方は本来日本人独自の発想かもしれません。

 森林鉄道の遺跡群や登録文化財を美しいものとして表現する、言葉に置き換える作業が必要なのです。しかし語彙の不足はどうにもならないのですが、さて・・・。 



 今回の仕事は、廃墟を前に、往時をしのび、輝きを想像して感激するより、今あるがままの廃墟の美しさを伝える作業なのです。

 どこまで出来るか。自分に期待してみたいところです。
 日本人は、布の断面を見て、キレッパシカラ、全体像を見ようとする。そうした美意識を持っている人達であるはずだから、言葉足らずの私の話にもなんとかついてきてくれるでしょう。
 感動は、ある種イマジネーションの産物でもあるはずですから。

ガイド事業。1

2010-06-21 16:25:33 | 森林鉄道物語
 大手観光会社JTBが、高知県東部地域。とくに森林鉄道の跡地を観光対象として事業を展開するそうなのです。」
 時期は6月の29日から9月30日まで、94日間連続でバス1台、42名を案内するというのです。

 大手観光会社の力は凄いねえ。4000人近い動員力なのです。



昨日北川村で会議が招集され、私も準備もせず参加をいたしました。

 面白い作業になります、普段は奈半利の登録文化財のガイドをしているのですが、今度は中芸地域のガイドをする事になります。

 問題は概ね2点。第一は情報不足。中芸全域の情報並びに森林鉄道の情報が不足しているのです。これについては早急に対応することにします。

 2点目は、これが大問題なのですが、主催者があまりにも脆弱でよくわからないこと。

 情報は調べれば分かることなのですが、組織ネットワークについては主催者の意向が分からなければ、新たに提案しなければならないのです。

 今回の主催者は森林鉄道の保存会のようなものか。
 中芸=森林鉄道でもないし、単に鉄道の説明だけなら、主催者だけでやれば良い。

 「金を払うのだから、協力してくれ」だけだと、熱も冷めるというものです。

 今度は25日に会合があります。さて彼らからどんな提案が出てくるのか、期待して待っていましょう。

ヒヨウ

2010-05-10 16:07:48 | 森林鉄道物語
ヒヨウという言葉を初めて聞きました。
資料を読んでいると、分からない言葉でした。

語源は、はっきりとしないようですが、日雇いがなまったのではないかといわれています。
 
 さてヒヨウというのは森林鉄道がつく前に、筏流しや管流しをしていたころ、流木の上に乗ってトビを操り、木材を下流まで運んでいた「流材夫」のことなのです。
 そのヒヨウが、森林鉄道が走り始めると伐採された材木を斜面から引きおろす作業をするようになるのです。材木運搬の危険な場所を担当する専門家になったのです。

 伐採された材木の皮をはぎ、玉切りをした丸太を山腹のある場所に集めることで、集材の効率化を図っていたのです。

 山の仕事といっても色々ですね。高知県の東部地域においては、森林資源の有効活用によるしか生きてゆく術は最近まではなかったのです。

 江戸の中期頃の資料を見ると、安芸郡内で山仕事に従事していた人数が7,921人と出ていますが、当時の労働者人口はほぼ19,000人ほどですから、働いている男子の4割が、山で仕事をしていたことになるのです。農業者や商工業者、そして武士郷士より、はるかに多い労働者が山間部にいた事になります。土佐の山間部は土佐藩の米倉だったのです。

 今は、山は静かです。
 過疎と高齢化に悩み、多くの制約の中で可能性を模索しております。
 グリーンツーリズムに可能性があるのですがね。
 いままで高知県は本気で観光産業について向き合ってこなかったのです。これからです。

 現在のヒヨウはこれから何をするのだろうか。そんなことを今日は考えておりました。
 少々危険な作業でも、体を張ってやるような男達が現れると、いろいろな場面が好転するのですがね。
 ヒヨウは、日雇いだとすると、自由人。フリーターかな。
 機械を駆使して何かをするのではなく、手仕事従事者でしょうね。

杣夫(そまふ)

2010-03-10 09:31:47 | 森林鉄道物語
 延宝元年(1673)の安芸郡内で杣夫(そまふ)と呼ばれたのは、7,921人だったそうですが、当時の15歳以上の男子は全部で19、000人程度ですから約40%は杣夫(そまふ)だったことになるのです。高知県の東部地域は杣夫だらけだったことになります。

 杣夫は、山の木を切る人。山の仕事で生計をたてる人のことです。
森林鉄道が出来るまで杣人は、ほとんどの仕事をしていました。40%もの人数は、それだけ山間部の豊かな資源に地域として依存をしていたのです。

 伐採は普通2人一組で仕事をしたそうで、 直径1M程度の木を切るのに30分ほど、一日に5本を切るのが標準だったとか。
 そして「一升飯を食わないと一人前ではない。」などといった話もあります。
 重労働だったのです。

 川に流しやすいように、また材を無駄にしないように2間材に玉切りをして、枝を打ち、皮をはぐ。そうしたことも重要な作業でした。

 土佐は、24万石といった農業生産高を藩の経済規模を計る指標としてよく使いますが、高知では、木材の出荷が大切な収入源だったのです。

 そして、材木を船で上方に運ぶ廻船業が発達するのです。浦はそうした技術を持った方々が住んでいた場所だったのです。もちろんいつの頃からか、トラック輸送のほうが多くなるのですがね。

 しかし森林鉄道の敷設は、天然の森林資源を枯渇させるほどの能力を得たのです。
 地域にとって良かったのかどうか、今となっては良くわからないですね。

 

水の流れに

2010-03-08 21:26:46 | 森林鉄道物語
 魚梁瀬森林鉄道の取材に奈半利川に来てしまったのですが、ここ2~3日の雨の影響でしょうか、結構水量がありました。

 森林鉄道が出来るまでは、この水に木材を載せて流していたのです。川流しは大変危険な作業だったようですが、それ以外の手段は無かったのです。
 また水量不足で木材を流すことが出来なくて、困ったような記録も多く残されています。

 昨年森林鉄道の遺産が重要文化財に登録されたのですが、文化財になるほどの規模の施設がその当時建設されたのも、豊かな資源がかつてこの中芸地域の奥地にあった証拠なのです。
 写真に見える川原の黒い物体は森林鉄道の奈半利鉄橋の橋脚の跡で、その向こう側に田野地の鉄道遺産が見えています。

 今は奈半利の町中では、すでに森林鉄道の気配を感じることは出来ませんが、六本松の貯木場と法恩寺の袴橋だけが森林鉄道があったことをかすかに伝えているのです。

今昔物語

2009-11-16 22:23:59 | 森林鉄道物語
 ほほえましい写真がありました。

 昭和30年に撮影された写真です。場所は馬路村馬路。商店街なのです。複式の線路の間で火をたいているのです。軌道敷は、子供にとって通学路だったでしょうし、遊び場だったのです。普段の生活でもいつものことのように、火をたいたりして、森林鉄道とともに生活があったのです。
 木材を満載して森林鉄道が通過する時間は決まっていたのです。そしてそれが帰ってくるまでの時間、軌道敷きはそこに住む人達にとって生活空間だったのです。

当然のことですがその当時、今の道路はありません。森林鉄道が唯一海岸線に出る手段だった頃の風景なのです。朝出かけて夕方かえるのです。

 しかし、線路の位置を見ると軒下ぎりぎりに列車が走っていたようですね。

 左には木箱が積み上げてあり、その向こうにはドラム缶が置かれています。
 さらに線路上には台車がそのまま置かれているのです。何か運んできたのでしょうかね。
 ここは今ではアスファルトをしいて道路として普通に車が走っています。

 馬路村の幹線道路です。

 もちろん火をたいているおばさんはいません。