ふくろう親父の昔語り

地域の歴史とか、その時々の感想などを、書き続けてみたいと思います。
高知県の東のほうの物語です。

突貫工事

2011-05-30 01:19:33 | 森林鉄道物語
明治42年9月高知県知事石原謙三より森林鉄道敷設の用地提供の要請文を安田町中村の竹内代吉氏が受け取っていることから、その頃に田野町の貯木場から安田町不動を経て中山から馬路にいたるルートを決定しているのです。それ以後,設計等の準備に係り明治43年に工事を始めて、明治44年には田野から馬路にいたる24Kmの工事を完了させたのです。トンネルや橋梁が連続する安田川沿いの難所続きのルートなのです。トンネルだけで馬路まで7ヶ所必要だったのですし、桟道、橋梁まで含めると一般国道の建設以上の難工事だったはずなのですが、1年ちょっとの工期で完成させるのです。

 明治の新政府の国策事業だったのです。
 一体何人の作業員が動員されていたことやら。
 岩石と爆薬で戦い事故が起きたこともあったとされています。
 
 さらに大正4年には魚梁瀬まで、大正6年には石仙まで延伸したのです。
 本来、魚梁瀬の豊富な木材資源を搬出するための森林鉄道だったはずなのですが、奈半利川沿線より先に安田川線を着工したのです。

 もちろんナゼそうなったのか、理由はあります。
 明治32年に制定された「国有土地森林原野下戻法」により奈半利川沿いの国有林が係争の対象となっていたことから、こちらを断念して、釈迦ヶ生から馬路間が逆勾配になることを承知の上で、安田川沿線に決定したのです。

 現在のような重機もなく、コンクリート工法もない時代、人海戦術と熱意で作られたのでしょう。新しい日本という国づくりに、みんなで参加していたのです。





 トンネルはすべてこうした石積みの隧道で、全線川沿いですから、ほとんどの隧道がゆるやかな曲線を描いています。優秀な石工さんがたくさんいたのです。そういえば山の斜面をきって路面を造っていますから、ほとんどの場所で石垣が延々と築かれています。
 ただただ唖然とする仕事振りです。「良い仕事してますねえ。」
 この隧道、海岸から数えて7番目の五味隧道です。既に新たな橋梁建設のために半分埋められています。



 この場所は、安田町明神口橋の上から川面を撮りました。
 ダムのない川の水は澄んでいて、何時見てもキレイです。



 現在の明神口橋の写真です。
 橋の上から川面がそのまま見えるようになっています。
 明治44年には木造で建設されたのですが、機関車が導入されたことから鋼製鉄橋に昭和4年に架け替えられました。



 勾配、カーブがきついうえ、逆勾配もある危険な鉄道だったのですが、地域の住民にとっては、これしかなかったのです。

 明治44年ですから、今年で100年経ったことになります。
 24Kmを1年ちょっと。
 現在でも出来るかどうかの長さです。

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