高知県の東部地域の財産かと思います。多気・坂本神社です。
高知県だけなのか、よくわかりませんが8世紀以前の情報があまりないのです。
古代のことで記録が少ないのは、仕方ないことなのでしょう.
土佐の国司や郡司が国に対し報告書を提出しているのでしょうが、都は戦いの連続で、焼失したりもしたのでしょう。
それだけに、残された少ない情報を精査する以外、することがないのですが、推論することが多いだけに、楽しい作業です。
写真は多気・坂本神社の入り口にある神輿橋です。
御祭神は、多気神社が武内宿禰で、坂本神社が葛城襲津彦命です。
境内社として壱岐神社(壱岐直根子命)、多賀社があります。
多気神社・坂本神社は共に延喜式内社です。両社は宝永(1704~10)の頃に合祀されたと伝えられています。
延喜式内社とは、醍醐天皇の御代にまとめられた、延喜式神名帳に登載される古社の事です。
御祭神の武内宿禰は第八代孝元天皇の孫で、多くの天皇に仕えた長寿の方とされています。葛城襲津彦命は、武内宿袮の子神です。 この二祭神は蘇我氏の祖で、その一族が地域の守護神として祀ったものといわれているのです。
さて、この神社がいつ頃この場所に造られたのか、資料等について読んだことがありません。研究不足ですがね。政治と宗教はいつの時代も合一してきたように考えています。
もともと日本は神道の国だったはずです。その日本に6世紀の末から7世紀の初頭に中国から朝鮮経由で仏教が入って来たことについては、昔、学校で習ったと記憶しています。
日本史上、最初の文明開化なのです。
さらに、無理なこじ付けかもしれませんが、こんなことを考えました。
長谷川が流れ出してきたあたりに人が住み始めるのです。海岸が近く、貝や小魚を採取できる場所。さらに野根山山系の麓ですから山での狩猟にも便利なところです。小枝等の燃料の調達が楽で、小屋の建設に必要であろう木材にしても豊富にある場所なのです。そしてこの付近で、稲作が始まったのです。奈半利川から取水して稲作をやるには、治水事業に無理があるからですし、暴れ川が落ち着くのはずっと最近になってからなのです。四手井山南側で弥生石器が出土していることも、納得の出来るところです。
稲作が始まり、食料品の確保と燃料としての木材の調達と、水の確保が楽で、さらに日当たりがいい場所ですからね。そうした理由で人口が急増していったのではないか。
そこから上流、清浄な場所を選んで、多気神社・坂本神社を造ったのです。背後の山々を霊的な場所として選ばれたところなのです。さらに、神への信仰の場の建設は人口の増大を生みます。周辺地域の信仰を集め人口の集中が起こりはじめるのです。
大和の中央王権では、645年の「大化の改新」によって、すでに蘇我宗家は滅亡しているのですが、土佐の東部地域の僻地においては蘇我氏の一族が社を構える事が出来たのです。 そして、6世紀から7世紀にかけて、仏教が日本に入ってくると、8世紀も半ば頃、奈良の時代にコゴロク廃寺が建立されるのです。
建立した場所は奈半利で最初に人間が住み始めた四手井山の南麓と多気神社・坂本神社の中間辺たりということなのです。
もっと海岸に近い場所を「最初に住んだ場所」に設定したかったのですが、水がないのです。
多分、水のない場所に人は住まないだろうと思うのです。
コゴロク廃寺が建立されたであろう時期は、すでに野根山官道が出来ていたのですから、官道沿いには、田畑が広がっていたことでしょう。神社はすでにあり、さらに寺を建立するのです。それ相当の人数が生活していたことになります。食料品の調達が大問題であったはずなのです。
この頃には、すでに今の野根山街道沿いには家が建ち、市が開かれていたのではないでしょうか。
奈半利の最初の一ページは野根山山系の麓の場所から始まって、多気神社・坂本神社が出来ることで人口の増大が始まり、野根山街道が出来て人の往来が始まるのです。さらにコゴロク廃寺が出来ることで高知県東部地域の中心地となっていったのです。
多気・坂本神社。高知県東部地域のパワースポットなのです。
なにしろ1200年を越える程の長い期間、多くの信心を受けてきた場所なのですから。
資料や記録がなくとも、奈半利には、間違いなく人が住み、営々と生活を営んできたことは事実なのです。そして神社が今ここにある、この事実は、大切にしなければなりません。
奈半利E 地点としました。
高知県だけなのか、よくわかりませんが8世紀以前の情報があまりないのです。
古代のことで記録が少ないのは、仕方ないことなのでしょう.
土佐の国司や郡司が国に対し報告書を提出しているのでしょうが、都は戦いの連続で、焼失したりもしたのでしょう。
それだけに、残された少ない情報を精査する以外、することがないのですが、推論することが多いだけに、楽しい作業です。
写真は多気・坂本神社の入り口にある神輿橋です。
御祭神は、多気神社が武内宿禰で、坂本神社が葛城襲津彦命です。
境内社として壱岐神社(壱岐直根子命)、多賀社があります。
多気神社・坂本神社は共に延喜式内社です。両社は宝永(1704~10)の頃に合祀されたと伝えられています。
延喜式内社とは、醍醐天皇の御代にまとめられた、延喜式神名帳に登載される古社の事です。
御祭神の武内宿禰は第八代孝元天皇の孫で、多くの天皇に仕えた長寿の方とされています。葛城襲津彦命は、武内宿袮の子神です。 この二祭神は蘇我氏の祖で、その一族が地域の守護神として祀ったものといわれているのです。
さて、この神社がいつ頃この場所に造られたのか、資料等について読んだことがありません。研究不足ですがね。政治と宗教はいつの時代も合一してきたように考えています。
もともと日本は神道の国だったはずです。その日本に6世紀の末から7世紀の初頭に中国から朝鮮経由で仏教が入って来たことについては、昔、学校で習ったと記憶しています。
日本史上、最初の文明開化なのです。
さらに、無理なこじ付けかもしれませんが、こんなことを考えました。
長谷川が流れ出してきたあたりに人が住み始めるのです。海岸が近く、貝や小魚を採取できる場所。さらに野根山山系の麓ですから山での狩猟にも便利なところです。小枝等の燃料の調達が楽で、小屋の建設に必要であろう木材にしても豊富にある場所なのです。そしてこの付近で、稲作が始まったのです。奈半利川から取水して稲作をやるには、治水事業に無理があるからですし、暴れ川が落ち着くのはずっと最近になってからなのです。四手井山南側で弥生石器が出土していることも、納得の出来るところです。
稲作が始まり、食料品の確保と燃料としての木材の調達と、水の確保が楽で、さらに日当たりがいい場所ですからね。そうした理由で人口が急増していったのではないか。
そこから上流、清浄な場所を選んで、多気神社・坂本神社を造ったのです。背後の山々を霊的な場所として選ばれたところなのです。さらに、神への信仰の場の建設は人口の増大を生みます。周辺地域の信仰を集め人口の集中が起こりはじめるのです。
大和の中央王権では、645年の「大化の改新」によって、すでに蘇我宗家は滅亡しているのですが、土佐の東部地域の僻地においては蘇我氏の一族が社を構える事が出来たのです。 そして、6世紀から7世紀にかけて、仏教が日本に入ってくると、8世紀も半ば頃、奈良の時代にコゴロク廃寺が建立されるのです。
建立した場所は奈半利で最初に人間が住み始めた四手井山の南麓と多気神社・坂本神社の中間辺たりということなのです。
もっと海岸に近い場所を「最初に住んだ場所」に設定したかったのですが、水がないのです。
多分、水のない場所に人は住まないだろうと思うのです。
コゴロク廃寺が建立されたであろう時期は、すでに野根山官道が出来ていたのですから、官道沿いには、田畑が広がっていたことでしょう。神社はすでにあり、さらに寺を建立するのです。それ相当の人数が生活していたことになります。食料品の調達が大問題であったはずなのです。
この頃には、すでに今の野根山街道沿いには家が建ち、市が開かれていたのではないでしょうか。
奈半利の最初の一ページは野根山山系の麓の場所から始まって、多気神社・坂本神社が出来ることで人口の増大が始まり、野根山街道が出来て人の往来が始まるのです。さらにコゴロク廃寺が出来ることで高知県東部地域の中心地となっていったのです。
多気・坂本神社。高知県東部地域のパワースポットなのです。
なにしろ1200年を越える程の長い期間、多くの信心を受けてきた場所なのですから。
資料や記録がなくとも、奈半利には、間違いなく人が住み、営々と生活を営んできたことは事実なのです。そして神社が今ここにある、この事実は、大切にしなければなりません。
奈半利E 地点としました。
お聞きしたいのですが、坂本神社の名の由来は武内宿禰の後裔の坂本臣でしょうか?武内宿禰の子の、葛城襲津彦ではなく紀角宿禰の子孫になると思いますが。奈半利に坂本臣の子孫が居たという事になりますか?坂本龍馬も紀氏の子孫という説がありますね。
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-kishi.html
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-sakamoto.html
ただこの地には、坂本姓が多く、現在もおられます。
坂本龍馬と紀氏とのかかわりについては、聞いたことがありません。悪しからず。
天保9年(1838)に坂本家が提出した『先祖書指出控』では、武内宿禰の後裔紀氏の末裔と書いてあるそうで、京都霊山観音にある龍馬の墓石には「坂本龍馬紀直柔之墓」と書いてあります。
http://blog.livedoor.jp/hiroharu825/archives/1068924.html
【世系】自然堂坂本直柔先生の祖は、もと大濱氏を称す。その先は山城國紀姓にして、武内宿祢に出づ。
【歴史】郷士坂本氏の先は、中古に兵乱を避け、山城より和泉國坂本郷に依りてその氏を称すといふ。のち讃岐に至り、土佐に至る。坂本直柔の先祖太郎五郎は、土佐國長岡郡殖田郷才谷村に住し、その子彦三郎は才谷村大濱屋敷に住せるに依りて「大濱」を以て氏と為す。八平直海、財を成して中絶したる郷士坂本氏の株を購ひてその氏を冒すと云ふ。
※桔梗紋ゆへ美濃土岐氏明智光秀、或ひは、明智左馬助光俊(光春)の裔といふは、明治16年(1883)坂崎紫瀾の著作『汗血千里之駒』(摂陽堂)により流布したる俗説なり。
http://www.k2.dion.ne.jp/~tokiwa/keifu/keifu-sakamoto.html
真に歴史に詳しい方のようですね。
知らないことに出会うと楽しくなります。
「坂本龍馬紀直柔之墓」
紀氏と名乗っている竜馬について関心を持つことはありませんでした。
名門意識を振りかざす必要のない方ですからね。ある程度の地位や名誉を期待するとそうした意識が出てくるのでしょうが、幕末の草莽の志士達にそうしたものは似つかわしくないと思います。
関心があるのは、彼らが今生きていたとしたら、何をするだろうかということです。
想像すると面白いと思います。
歴史は面白いですね。
またこの宣教師フルベッキはユダヤ系オランダ人である事、司馬遼太郎が『兜率天の巡礼』の中で秦氏をユダヤ人キリスト教徒としている事(日ユ同祖論)、坂本神社に祀られている、武内宿禰(母方紀氏)の子 葛城襲津彦が百済の弓月君(秦氏)を帰化させた事、などにも興味を持っています。現在ではイスラエルの「失われた十支族」調査機関、ユダヤ教のラビや、前駐日大使のエリ・コーヘン氏も日ユ同祖論に興味を持ち、実際に日本の各地を周り本を出されています。
私も何か考えて見ましょう。
やまとさん。ありがとうございます。
Ga'aton Riverという小さな川が地名の由来だそうです。
http://en.wikipedia.org/wiki/Nahariya
地図
http://maps.google.com/maps?hl=&q=Nahariya&rlz=1B3MOZA_jaGB423GB424&um=1&ie=UTF-8&hq=&hnear=Nahariya,+Israel&ei=8Aq6TbHrJYGv8gOMoN1X&sa=X&oi=geocode_result&ct=title&resnum=1&ved=0CCUQ8gEwAA
奈半利(Nahari)は、ヘブライ語で川の民という意味かもしれません。
「君が代」について、このように書いてる人がいます。
>「チヨニ」はとヘブライ語で綴りますが、これは一般的な言葉でもあり、「シオンの民」を意味します。
Zion-i-ya, Zion-i(ちよにやちよに)=神のシオンの民、シオンの民
つまり、Zion + i ですね。また ya が後ろにつくと、「神の」になるのではないでしょうか。イスラエルのナハリヤ(Nahariya)の意味がGod's river となっていましたから。正確には、God's river people かもしれません。
いいですね。
かつての紀貫之の土佐日記には「奈半の泊」として登場します。
奈半利の古名は「奈半」であったり、「那波」であったりします。ただ「ナハ」だったのです。
お知らせいただいたアドレスにアクセスしたのですが、残念ながら浅学につき読むことが出来ません。
しかし、面白いですね。
http://www.nahariya.muni.il/
(アドレスが"arigat"なのが不思議です。笑)
沖縄、鹿児島、高知。それに和歌山の酒の飲み方がほとんど同じなのです。探せばもっと似たところがあるのかもしれません。
私は黒潮ネットワークだと思っているのです。