最近の色々なニュースや報道内容を見ていると、少しづつ様々な意味での「信頼」が崩れてきたように思えてならない。
他人の言うことを信じられなくなるほど悲しいことはないが、今の日本社会では大手企業によるウソやギマンが残念ながら頻出しているのが現実だ。
昔は人間は五感をきっちり働かせたら、危険を察知できた(私は医学や生理学、生物学の専門家ではないのだが)。
…人間は本来、体にとって有害(外敵、傷や怪我のもと、有毒)なものを不快な感覚としてとらえ、避けるべく行動してきたはずだ。
味覚において快い、すなわち「美味い」ものは栄養または無害なものとして、不快なもの「まずい」ものは有害なものとして、避けてきた。それは味蕾の上で感じるだけではなく、香りや喉越し、口あたり、食感なども含めてそういえるのではないだろうか。
嗅覚つまり、においでも然り。いやな臭いや悪臭は毒物または腐敗物。また外敵、天敵となる肉食動物の接近はニオイでも感じ取ったという。現に嫌いな食べ物はそのニオイがしただけでも気分が悪くなるし、逆に好物なら芳香がしただけで良い気持ちになる。
五感の他に、方向感覚というものもある。私はこの感覚は優れていない。
こんな実験がある。土地勘のない場所で車に目隠しをした状態で乗ってもらい、暫くして降車するとき、今自分がどの辺りに居るのか地図上に示す、という実験があった。
方向感覚に優れている人は、無意識のうちに皮膚の伸縮の感覚や平衡感覚、左右の曲り、そういったことから方角を感じるらしい。太古の昔の感覚では、帰巣本能のひとつになるのだろうか。
視覚障害を持っていて全く視力がない人が、白杖とブロックだけでもあまりぶつからないのは、音の反響や空気の動き、人の移動方向などを感じ取り、そこから壁や柱の位置が認識されるともいう。同様の働きは視覚に障害がなくても経験していることかもしれない。たとえば暗いところで障害物を避けることができるのは実に不思議だが、ある程度は明るさがあるケースでは僅かな光を頼りにしている。本当に真の闇に近い場合、視覚にはたよれない。
そういった場合、じゃあどうやって判断するのか。私はなかなか「真の闇」に入ったことがないので飽くまで想像でしかないのだが、上述の「空気の動き」が無意識のうちに感じ取れるのかもしれない。
この、「感じ取る」というのが大切なことに最近気づきつつある。
いわゆる占いとか超能力ではなく、相手と面しているときに察する、ということ。
コミュニケーションにおいては、相手の発する表情、動作、しぐさ、等の非言語的メッセージを感じ取り、今の相手の立場になって、今相手が何を考えているのか、思っているのか、感じているのか、それらを感じ取るセンスが必要である、と。そしてそれらのベースは五感をフルに使わなければ難しいと。
そして、それらを過去のそれまでの対人経験などのデータベースに参照し、こうではなかろうか、と推測(予想、仮説を立てる)し、それに適切な言葉を選択し、相手に伝える。
そこで推測が正しければその後はスムースに流れるが、若干でも誤りがあれば再度別の候補から選び直し、再び話す。
人間はこの一連の処理を瞬時にやってのける頭脳を持っているのだから、有用に使えば本来は優れた社会を構築できるはずだ。
ごまかしや詐欺、良くないことに使うと、そしてそれが世間に晒されると大変な非難を浴びるのだが。
自分自身はよりコミュニケーション力を向上させ、と同時に様々な情報から何が正しくて何がウソなのか、または有害なものと有益なものとをしっかりと判別できるようなセンス、そこをも向上させたいと思った。
他人の言うことを信じられなくなるほど悲しいことはないが、今の日本社会では大手企業によるウソやギマンが残念ながら頻出しているのが現実だ。
昔は人間は五感をきっちり働かせたら、危険を察知できた(私は医学や生理学、生物学の専門家ではないのだが)。
…人間は本来、体にとって有害(外敵、傷や怪我のもと、有毒)なものを不快な感覚としてとらえ、避けるべく行動してきたはずだ。
味覚において快い、すなわち「美味い」ものは栄養または無害なものとして、不快なもの「まずい」ものは有害なものとして、避けてきた。それは味蕾の上で感じるだけではなく、香りや喉越し、口あたり、食感なども含めてそういえるのではないだろうか。
嗅覚つまり、においでも然り。いやな臭いや悪臭は毒物または腐敗物。また外敵、天敵となる肉食動物の接近はニオイでも感じ取ったという。現に嫌いな食べ物はそのニオイがしただけでも気分が悪くなるし、逆に好物なら芳香がしただけで良い気持ちになる。
五感の他に、方向感覚というものもある。私はこの感覚は優れていない。
こんな実験がある。土地勘のない場所で車に目隠しをした状態で乗ってもらい、暫くして降車するとき、今自分がどの辺りに居るのか地図上に示す、という実験があった。
方向感覚に優れている人は、無意識のうちに皮膚の伸縮の感覚や平衡感覚、左右の曲り、そういったことから方角を感じるらしい。太古の昔の感覚では、帰巣本能のひとつになるのだろうか。
視覚障害を持っていて全く視力がない人が、白杖とブロックだけでもあまりぶつからないのは、音の反響や空気の動き、人の移動方向などを感じ取り、そこから壁や柱の位置が認識されるともいう。同様の働きは視覚に障害がなくても経験していることかもしれない。たとえば暗いところで障害物を避けることができるのは実に不思議だが、ある程度は明るさがあるケースでは僅かな光を頼りにしている。本当に真の闇に近い場合、視覚にはたよれない。
そういった場合、じゃあどうやって判断するのか。私はなかなか「真の闇」に入ったことがないので飽くまで想像でしかないのだが、上述の「空気の動き」が無意識のうちに感じ取れるのかもしれない。
この、「感じ取る」というのが大切なことに最近気づきつつある。
いわゆる占いとか超能力ではなく、相手と面しているときに察する、ということ。
コミュニケーションにおいては、相手の発する表情、動作、しぐさ、等の非言語的メッセージを感じ取り、今の相手の立場になって、今相手が何を考えているのか、思っているのか、感じているのか、それらを感じ取るセンスが必要である、と。そしてそれらのベースは五感をフルに使わなければ難しいと。
そして、それらを過去のそれまでの対人経験などのデータベースに参照し、こうではなかろうか、と推測(予想、仮説を立てる)し、それに適切な言葉を選択し、相手に伝える。
そこで推測が正しければその後はスムースに流れるが、若干でも誤りがあれば再度別の候補から選び直し、再び話す。
人間はこの一連の処理を瞬時にやってのける頭脳を持っているのだから、有用に使えば本来は優れた社会を構築できるはずだ。
ごまかしや詐欺、良くないことに使うと、そしてそれが世間に晒されると大変な非難を浴びるのだが。
自分自身はよりコミュニケーション力を向上させ、と同時に様々な情報から何が正しくて何がウソなのか、または有害なものと有益なものとをしっかりと判別できるようなセンス、そこをも向上させたいと思った。