渦中ではできない話ってものもある。
年季を経て、ようやく「話してもいい」と思え出すこともある。
一概に「言葉を操る」人同士でも、「話せるから」といって、のべつまくなしに、全部話してるわけではない。
「話さないでいる」、があるのは、話せる同士だからの心模様そのものだ。
心の配膳には順番や好機というものがあり、心得次第で適切なときに、最良のカードをきることができるのは、「それまで綺麗に保持」し、「最適解な瞬間を見極める」を英断させる複数のレイヤーがある。
頭の悪く、堪え性のない者というのは、「すぐつかわないと、忘れちゃうから」を理由に、小出しに闇雲に放出してしまう。
それはそれなりに愛のある行動ではあるけれど、「相手が望む」まで「持ち続ける」なるものは、心のうちにあって「褪色させない新鮮味」を維持させる持久力が必要になる。
ここが「誰もが持ち得るとは限れなさ」として強い強い価値になる。
「ずっと、それを心に宿し残し、洗練を加え、醸成も任せ、濃厚かつ鮮烈」にしたのは、まごうことなきその人の特性だから。
冒頭に挙げたように、「機を見るに敏」は粛々と、延々と忍びもし、目論見も常駐させるという持久がある。ロングマラソンの様相です。
それゆえ「話してもいい」の重さが変わってくる。
話せる良さもあるけれど、「話さないでいてくれた」ゆえに覚える感慨も、実に人らしいではないか。