在学時に「フォトジェニック」なるタームで授業が進んだ時、その定義は曖昧なスタンスで維持されました。各々のつかむフォトジェニック像に立脚しなさいってことかもしれないし、発揮されるべきニュアンスやニッチに余白を残した、ともいえるやりようでした。
実際に銀塩、乳剤を介す現像行為に伴う「化学反応」たるフィルムに、撮像管、電子的分解能と再構成再出力のデジタル媒体は、成立の仕方が違う。
電子カメラによく聞く「映像エンジン」の理念はフィルムにはなかったし、せいぜいレンズ特性か筐体個性からくる差異、フィルムメーカーごとの活かしたいニュアンス差という複合因子の絡みようが対極に並び立つんでしょう。
🐼はビデオ習った頃にはまだ撮像管グリーン軸にRed、Blue寄せてく軸合わせがあったものです。微調整無しに「撮れない」が本当にありました。
カメラサイドが「『撮れない』は、『ない』ようにしだした」頃の辺りから損なったものがあるのは漫画の通りな気がしますね。
撮れなさ、を経由した写真は、たぶん撮り手からも、被写体側も、こころがちょっと勇んだし、それがこもった気がしてます。
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