町の山車が修理されています。
途中経過を見学させていただくことになりました。
普段なら遠くから見る彫刻などまじかで見ることができ大変感動しました。
すごい迫力です。
歯も修復されています。
爪の先も新しくなっています。
竜の頭の部分です。
車輪の鉄枠等各所メンテナンスされていました。
実際の祭り登場の時にはどのような姿になるのでしょうか。
町の山車が修理されています。
途中経過を見学させていただくことになりました。
普段なら遠くから見る彫刻などまじかで見ることができ大変感動しました。
すごい迫力です。
歯も修復されています。
爪の先も新しくなっています。
竜の頭の部分です。
車輪の鉄枠等各所メンテナンスされていました。
実際の祭り登場の時にはどのような姿になるのでしょうか。
茶の本を書いた人、岡倉天心が晩年(といっても50歳で亡くなられたので40歳台なのですが)一年の半分をここで暮らしたという五浦(いずら)海岸に行ってきました。
≪岡倉天心像 平櫛田中 作 昭和6年 昭和36年債鋳造 金泥・ブロンズ 茨城大学五浦美術文化研究所 ≫
岡倉天心(本名 角蔵・覚蔵→覚三、1863年2月14日(太陽暦)-1914年9月2日)は明治23年東京美術学校(現東京藝術大学)校長、明治31年日本美術院創立、明治36年五浦に土地と家屋を求める、「東洋の理想」をロンドンで刊行する、明治37年アメリカのボストン美術館中国・日本美術部エキスパートになる、明治38年、五浦の別荘を新築し六角堂を立てる、明治39年赤倉に別荘を建てる、「茶の本」をニューヨークで刊行する、明治43年ボストン美術館中国・日本美術部長となる、大正2年病気のためアメリカより帰国する、療養のため赤倉に移るが9月2日没する。
茨城大学五浦美術文化研究所に入ると、展示室、天心邸、六角堂、等が拝観できる。
最初、庭の芝生に違和感を持ちましたが、天心がボストンから種を待ってきてここを芝生にしたと聞いて納得しました。
ガラス戸で覆われた家屋ですが、近づいてみるとガラスの綺麗さに驚きました。素晴らしく、宝石のように綺麗でした。
南の方向に目を向けると、六角堂の屋根が見えます。そして向こうには海が見えます。
六角堂の中は茶室になっていてここで瞑想に耽ったとの記述があります。
ここのガラスも凄く綺麗、ここは津波の被害の後、復元されたとのことで、ガラスの品質までこだわって昔の雰囲気を再現してくれているものと思います。ガラスの歪みが景色に味を与え、当時もこのように見えたのだろうと、想像をさせてもらいました。
横山大観の別荘のあったところがホテルの別館(大観荘)になっていて次はそこからの眺めです。
六角堂の周りには観光の皆様が佇み中です。
ライトアップした六角堂です。同じく大観荘より撮影しました。
展示室には、五浦釣人像 平櫛田中 作、龍王丸 設計 岡倉天心が展示されています。
龍王丸の下にセンターボードがあることが分かります、ヨットの構造を参考に岡倉天心自身の設計でセンターボードを装備するよう船大工に言い渡してボストンに向かったようです。
実際に見たときは船の下まではみませんでした、あとで写真に写っているところを確認して、なるほど・・と思いました。
西欧文化を全面拒否するわけではないことは、天心邸の庭の芝やこの船の船底を見れば一目瞭然です。
五浦海岸のもう一つの狙いは天体観望です。綺麗な星が見えることを期待していました。
まずは晴れた夜空です。
期待通りの星空が見えました。
レンズを広角に代えてみると、北斗七星から牛飼い座のアークツゥルス、おとめ座のスピカへ向かう春の大曲線が見事でした。
それから数時間後、水平線からの月の出を待ちました。
水平線上に仄かに明るい兆しが見え始めます。
月が上がると、海面には銀色の路が現れました。
人間の目と違いカメラでは月と景色の両方を同時に撮ることは中々難しく、またこの夜は、雲があって中々クリアーな月の姿は見れませんでした。個別に撮った月と景色を頭の中で合成していただきたいと思います。
そしてそれから数時間後、日の出を迎えました。
また、新しい日が始まりました。
一泊二日、五浦海岸を堪能してきました。
岡倉天心の思いに負けないくらい、五浦の地域の整備・清掃、街路の刈込、ガラスの汚れの無いこと、管理している皆様のご尽力あってのものと感謝しています。
The Indian fritillary
豹柄の蝶が近くにきました。
しばし撮影を楽しませてもらいました。
翅にハートマークがあるとのこと。
精悍な感じですが、オシャレな一面もありました。
狭山丘陵西端北麓 白露 草露白《褄黒豹紋》