茫庵

万書きつらね

2012年08月02日 - 詩と技巧 11

2012年07月29日 17時40分45秒 | 詩学、詩論

 詩と技巧 11

 10を書いてから随分と間が開いてしまいましたがこのシリーズはまだ終わってはいません。ゆっくりと続けていきます。

 前回は詩学のほんのさわりとして西洋詩における詩脚と詩行についてとりあげ、日本語における詩脚はどのように表現されるか考察し、試しとして音数による 韻律の単位を組み合わせて1行とする方法を提言しました。そして、本格的な詩学的試みを怠っていると、日本語の詩は海外勢に乗っ取られる日がくる事を予言 したのでした。また、ゲーテの詩の一節を題材に、韻律を無視した訳詩は散文の翻訳と何ら変わるところはなく、原詩の持つ味わいやリズム感をまったく失わせ てしまっていて、これで原詩の詩情が伝わるといえるのか、という問題提起もしました。

 今回は、詩のレシピとしての詩学について考えていきます。

  やれ詩学だ技巧だというと、こういうものにすぐ拒否反応を示して「そういう難しいことはわかりません(=私には不要です)」と結論づける向きも見受けられ ますが、私にとっては詩学とは料理でいうレシピ集のようなものです。詩が知性的芸術である以上、ある程度難しいと感じられるのは当然の事であり、それを毛 嫌いして発展はありません。

 愛好家同士でお互いの成果を認め合い、共に楽しみを深めていく、というのはそれはそれで成立する世界です が、それを普遍的なものとして高みを目指す人にまで押し付けるのは、低迷と堕落を強要する以外の何物でもありません。一方、逆もまた真なりで、本稿はもと より芸術嫌い、技巧嫌いの人の事は範疇にありません。なので、レシピ集を紐解いて、先人たちが残した知恵と工夫に満ちた豊かな詩の世界を楽しむのか、そう いったものを放棄して、ひとりよがりの好みに任せて偏狭で好き勝手な世界にとじこもって良しとするのかは、それぞれが自由に選択すればよい事です。

  さて、詩学の役割は、各言語で書かれた詩の構造を明らかにしてどう解読すればよいかを説明するだけではありません。前稿で述べた様に、別言語からの詩型の 導入を検討したり、漢俳のように、異なる言語の詩型が合体して全く新しい詩型を生み出すのにひと役買ったりもします。すべて運用次第で、この運用方法に制 限を設けたりある事を禁止したりする理由はどこにもありません。

 そこで、本稿では西洋の詩型に日本語独自のレトリックをかぶせての詩作について検討してみたいと思います。レシピ的に言えば無国籍料理とか創作料理というものに近いのかもしれませんが、あくまでも日本語詩型として考えていきます。

例えば、次のような定型はどうでしょうか。

枕詞を使った可変詩脚型日本語ソネット

  日本語ソネットの各連の最初に枕詞を持ってきます。枕詞は古典ではおなじみですが、これを西洋詩型で用いるのは日本語の崩壊と見るのか、サバイバルと見る のかは人によるとは思いますが、言葉もまた生き物なので、このまま忘れ去られてしまうよりは色々な可能性を見せて欲しい、と私は思います。何と言っても外 国語には無い日本語独自の美を追求出来る言語技術なのですから。可変詩脚型というのは1行の詩脚のパターンおよび数を可変もしくは詩人指定のパターンにし よう、というものです。つまり、ソネットは原則弱強五歩格ですが、英語やドイツ語ソネットの中には五歩ではあっても弱音節が入り込んで必ずしも規則的に弱 強が並んでいる訳ではない、不規則なリズムを刻む作品もあります。日本語定型としても、七五調など、音数を固定化するのではなく、詩脚数を固定化して、中 のリズムをもっとフレキシブルにする、という詩作方法が考えられます。

雅や大和言葉、漢語を多用したバラッド

 枕詞も 雅ややまとことば、漢語も、もはや死にゆく言葉、捨て去られた言葉のように言われていますが、近代化を目指した明治政府の標準語教育の弊害でそう扱われて いるだけで用を為さないという明確な根拠がある訳ではありません。むしろこの国の2000年の文化の神髄を持つ民族的財産としての価値は計り知れません。

  こうしたものに再び生命を吹き込もうという試みが、時代の逆行なのかどうか、私には判断できません。ただ、今口語といわれている言葉は、もともとはお上の お仕着せで無理強いされて普及したものにすぎず、言語としての生命力が豊かな訳でもなく、実績もないので、これに固執する理由はない事は確かです。実際 は、これ等を使いこなす為には多くの人は最勉強しなければならず、相当多大な努力を要する事は間違いありません。私自身も新体詩の文体がすらすら理解出来 る訳ではありません。

 しかし、これは母国語とどう向き合い、後世に伝えていくかという意識の問題なのです。こういう訳で、本稿では安易 に現代口語の詩文を詩文とは認めないことにします。今標準語と呼んでいるこんな語法自体、明治政府の植民地主義的国策の元で進められ、もしかしたら100 年後にはなくなってるかもしれないのですから。

 


2012年07月29日 - 西欧詩の原点

2012年07月29日 12時47分21秒 | 詩学、詩論

西欧詩の原点を味わう

 日本現代詩の原点を辿って、英語からフランス語やドイツ語の詩に遡って読み進み続けて、到達したのがラテン語と聖書でした。近代日本で新体詩調の翻訳詩が量産されたのには、賛美歌の和訳というニーズがあった、という事情もあり、このふたつはやはり避けて通れないもののようです。

 聖書はAndroidには数十の言語で読めるアプリが出ているので材料に事欠く事はありません。ラテン語の文例集もインターネットから入手。日本語、英語、ドイツ語の対訳つき読めます。文法はまだ全然理解していませんが、一応入門書はあるのでちょくちょく読み直ししています。

 西欧の詩の原点にあるもの。聖書表現もさることながら、亀、じゃない、神への祈りの文章、ギリシャ悲劇や歴史書、叙事詩などなど、捜せばいくらでも出る出る。

 あの、我々の通常から見れば、大袈裟で芝居がかった言い回しの原点ともいえる表現が、「随所にある」、というよりは、そういう表現だらけの文章世界が拡がっています。まさに堂々たる自己主張。誰が読んでも「どうだ、すごいだろう」と言わんばかりに迫ってきます。漢詩や日本の古い歌にもそういう趣向の物がない訳ではありませんが、あったとしても、私には、余り「美」が感じられません。

 考えてみれば、そういう表現が日本の文学にもともとあるものなら、明治に文士たちが顔色変えて西洋の文学に振り回される事はなかった訳です。それは新鮮で衝撃的である反面、私のように、一般読者の中にはいまいちピンとこないと感じる人も多かったのではないかと、と思われます。口語自由詩の流れは、前述のような、西洋詩の赤裸々で誇大な表現と、どんな題材でも表現世界に飲み込んでいく貪欲さを原点とし、今までの雅や侘び寂びの世界にはなかった新しい潮流となるはずのものでしたが、結局先人の思いとは裏腹に、口語で書かれる、という平易さのみが浸透し、肝心の表現世界の深淵さの開拓や読者層への浸透は置いていかれたまま現在に至っています。上っ面、殻だけの詩、白けきった読者。ひとつの詩がかつての様に日本の国民を熱狂させる様な現象が起きないのはそのためです。

 西欧の詩世界には、古典以来言語上に育まれた詩表現の土台が一般読者側にもあり、それを理解する事が読者側にとっても自身の知性と教養を示すステータスシンボルになっていたりもします。現代詩が衰退した、と言っても言語的に何の土台も持たず、読者と土台を共有していない、上っ面だけの日本現代詩とは根本的に事情が違います。

 西欧の古典の世界に足を踏み入れて、私は日本の詩も、いちど言語的な土台を組み直して読者とともに再出発した方が良いのではないか、という気がしてきました。表面だけ口語体だ、散文だ、と西欧の真似をしてみても、その前に置かれた言語的な環境が違い過ぎるので、同じ様にはいかないのは自明の理なのです。読者も詩人ももっともっと古典を勉強しなければなりません。