おだにゃら記

地元小田原市中心のフィールドワーク備忘録。
歴史、神社仏閣、あとはいろいろ。


葛山城 キセキの中世城郭

2024年11月12日 21時22分00秒 | お出かけ

城が続きます。

先週、裾野市の葛山城に紅葉狩りに行ってきました。
 
 


 
大手口入ってすぐに楓が植栽された素敵な道があるんですけど


まだ早かったです
 
やっぱり11月に入ってからでしょうか。
何度か来てるのにまたもや失敗です。
 

色づいてる木もけっこうあってそれなりに楽しい城散策






葛山城は
鎌倉時代から戦国時代まで駿河郡で勢力を誇った葛山氏の本拠地です。
 
葛山氏は北条氏以前に小田原を支配した大森氏の一族。
大河ドラマ「光る君へ」をご覧の方にはお馴染みかもしれない藤原伊周の流れを汲んでると言われています。
 
 
新九郎、奔る!16巻より

今川の家臣なので最初は新九郎には協力的。
新九郎は葛山氏の娘を側室に迎えたり、葛山氏は新九郎の子(氏広)を養子に迎えたり、
もらったりあげたりで良好な姻戚関係。
当然これから作品での登場回数も増えることでしょう。
 
 
葛山氏墓所
 

墓所前の説明板
(現在墓所に立ち入れないので昔の写真探してきました)
 
 
葛山氏は河東一乱が続く過程で北条氏から離反、武田信玄が駿河に侵攻にすると今川を見限って武田氏に従います。
 
信玄は六男の信貞を葛山氏元の婿養子とし葛山の跡目を継がせます。当時どこの領主もやっていた婚姻による他家の乗っ取り、領地拡大です。
 
ここまではいいのですが、
信玄は武田の葛山支配を確固たるものにするため、氏元に謀叛ありとして、氏元以下5名の葛山一族を諏訪湖で処刑してしまいます。
 
武田や徳川の戦記では斬刑や磔と書かれてますが実際は諏訪湖で水死させられたそうです。むごいですね。
この時処刑された中には氏元の3人の息子も含まれ、年齢は上から24、18、13歳でした。
 
葛山当主となった信貞は天目山の戦いで兄勝頼が敗れた後甲斐善光寺で討死します。
これにより駿河葛山氏は完全に滅んでしまいました。
 
 
という悲劇的な最後を迎えた葛山氏。
しかし家臣や領民たちによって城跡、館跡含む葛山の土地は大切に守られ現在に至ります。
 
 

現地案内図
葛山にはこういうのたくさんあってとてもわかりやすい。親切!
 
中世の城郭(13〜16世紀)はだいたい詰めの城と領主が暮らす館がセットになってます。
詰めの城は山中にあるので遺構が残りやすいですが、館は田畑や宅地に開発されその姿を留めていないケースがほとんど。
 
ですが葛山城は詰めの城と館跡がしっかりと残っている極めてレアな城郭史跡です。

キセキ的に残ってるんです。
 
 



葛山館跡
北側の土塁
 
中世の館はだいたい100メートル四方の方形。
100メートルは昔の単位で一町、
面積10000㎡も一町と数えます。

 

これだけ良好に残る館跡は他に
福井県一乗谷の朝倉屋敷くらいしか思い浮かばないです。
あちらは残ったというよりは埋没していたんですけど。
 
あとは、少し違うけど八王子城とか。
 
 

館跡は平成4年に発掘調査されており、11〜16世紀までの陶磁片や柱跡、庭園跡などが確認されています。
 
ちなみに詰めの城のほうは一度も発掘調査はされてないそうです。
 

門跡の土塁
 


詰めの城(葛山城)と仙年寺と館跡の位置
 


館跡詳細
 
(1)葛山氏館 の隣に(2)半田氏屋敷(4)荻田氏屋敷(5)岡村氏屋敷
家臣の屋敷が並び複郭式の城郭を成しています。
普通は領主の館が単郭あるだけなので、これだけでも相当珍しいです。
 
 

道路から見る葛山氏館(奥の植え込み)と半田氏屋敷(赤い石塀)
 
半田氏の子孫の方が住まわれてるので撮影は塀だけ。

中世から規模の変わらない敷地に住居されてるってすごいことです。
 
  
大門跡に集められてる石造物
 
 

仙年寺への参道
 
背後の愛宕山に葛山城があります。
寺の前に堀を埋めた堀田という地名が残っており、かつては仙年寺に館があったと言われています。
 




とても綺麗な仙年寺
 



昨年の大雨の影響で寺裏から城への階段が通行止めになっており、
寺の駐車場右手の細道から大手門入り口まで行かなくてはなりません。
(私は寺の急階段が嫌なのでいつも大手門からです)
 
大手門までは徒歩7〜8分。
屋敷の名残や城跡の雰囲気を感じる自然豊かな道なので楽しいです。
 
というか
絶対歩いたほうがいいです。
 
 
正直、詰めの城はどうでもいいかな🙇 と感じてしまうほど
葛山は館跡や集落の存在に価値のあるところだと思ってます。

 

途中にある馬頭観音
 
 
好きな史跡なので長くなってしまいました。
でもぜんぜん足りないわ。
また紅葉狩りチャレンジしないといけないし。
 
 
✳︎ 参考文献✳︎
静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成
裾野市史研究
裾野市史
葛山居館跡遺構確認調査概報
新九郎、奔る!
 
 
 

興国寺城 ファンタジーの北条早雲

2024年11月04日 22時56分00秒 | お出かけ


とつぜんの伊都さま

若き日の北条早雲を描く新九郎、奔る! 
では直近17巻でようやく、、
ええようやくですよ
龍王丸(今川氏親)が今川の家督をゲットし、
伊都(北川殿)が新九郎に富士下方十二郷および興国寺を与えました。


そのお祝いってわけではありませんが
先週興国寺城へ。
北条早雲旗上げの地として知られる城です。


沼津市根古屋
国道1号線から北へまっすぐ、とてもわかりやすい。










天気がいいので木の影で全然読めませんね。

興国寺城は国指定史跡。
平成29年には続100名城に登録されています。

私は9年ぶりの訪問。



本丸にある穂見神社


天守台の石垣




西櫓台から本丸を見下ろす

駿河湾、伊豆半島が見えます





大空堀



戦時中の防空壕が3つ残されてます。

中に入った強者もいるようで、検索すると内部の写真が見つかります。


清水曲輪のほうにもいくつか防空壕があるそうです。





空堀の西端

興国寺城で最も絵になるカッコいい場所だと思います。

でもこのへん歩きづらい。





北曲輪

大空堀から階段登って行けるんだけど通行止めになっててよくわからないのでいったん外の道路に出て坂道をぐるっと。

疲れました。



興国寺城前の道路に立ってる整備計画図
(Googleマップより)

これ、9年前にもありました。
発掘調査や整備が進んでるそうで、今回は見どころ増えてるのかな?と楽しみにしてたのですが特に変わらず。

駐車場がわかりにくいのも昔のままでした。


わからないとこ多いの。
小さい城跡なのに。



新九郎(北条早雲)の興国寺城での旗上げ話は江戸時代の軍記物に書かれているもので、
当時新九郎が興国寺城を居城としていた史実はありません。

興国寺城自体、史料に登場するのは新九郎没後の今川義元の時代になってからです。
今川義元が興国寺を移転させて、その土地に寺の名前を取った興国寺城を築城してます。
つまり新九郎が生きてた頃はまだ興国寺は城ではなかったのです。

新九郎が北川殿から貰った富士下方というのは現代の富士市一帯、興国寺も含まれますが、図を見てわかるとおり興国寺はかなり辺鄙なところ。
富士下方を支配するなら善徳寺のほうがふさわしいです。

また、新九郎が茶々丸を討伐したのは下剋上ではなく、室町将軍足利義澄及び今川家からの命なので旗上げなんかしません必要ありません。

そんなですから
北条早雲興国寺城で旗上げというのは、早雲が浪人だったとか牛に松明くっつけて大軍!的なお話同様ファンタジー なのです。



よく見えないけど
北条早雲と天野康景の石碑

天野康景は徳川時代の興国寺城城主。
領民殺害事件をめぐり本多正純と揉めて城を捨て出奔、改易され、
その後は南足柄市沼田の西念寺で晩年を過ごしました。

沼田近隣では天野さん慕われてたみたいです。



「新九郎、奔る!」での興国寺城の扱いはまだわかりませんが、
茶々丸討伐は中盤(?)のクライマックスなのでみっちり丁寧に描かれそうですよね。

となると小田原に到着するのはあと5巻くらいは必要か。


早く来てね。
寄栖庵も道寸も待ってるよ。


✳︎参考文献✳︎
「戦国北条五代」黒田基樹
「新九郎、奔る!」ゆうきまさみ
「興国寺城跡」沼津市教育委員会、沼津市文化財センター


祝シーズン2 「天狗の台所」ロケ地へ再び

2024年08月16日 17時16分00秒 | お出かけ





今日の一枚
でも書いたのですが

ドラマ「天狗の台所」ロケ地の小山町上野を再訪しました。

10月からシーズン2が放送されるそうで楽しみです。


浅間神社

シーズン1でチラリと出てきました




前回来たのは11月だったので寂しい田んぼでしたが、
今はこの通り素晴らしい眺めです。







境内の林から透かして見える田んぼの輝き

なんというか、
光と影が美しい神社です








基さんが暮らす古民家山口邸

普段は住んでる方がいらっしゃるので撮影は正門だけにしました。





山口邸の周りの水路

溢れんばかりに滔々と、小さいのにすごい迫力。
思わず見入ってしまいました。



だいぶ稲穂が育って黄色味がかってる青田



残念ながらこの日は富士山は見えませんでした。