間が空いてしまいました。
「北原白秋と小田原と関東大震災」の最終回になります。
大正12年(1923)9月1日、
関東地方を未曾有の揺れが襲います。
相模湾北西部を震源地とするマグニチュード7.9の関東大震災です。
小田原は震源地に近かったため被害が甚大で、
小田原含む足柄下郡の死者・行方不明者は1683人、住家の被災率は91%と報告されています。
大手門櫓台から転落した鐘撞堂
堀に落ちて全滅した桜並木
崩れた堀は4〜5m埋め立てられ、そこに現在の桜が植え直されました。
そのため江戸時代より堀の幅が狭くなってしまいました。
国道1号、早川口から小田原方向
倒壊したういろうの八棟造りの屋根
焼け野原の松原神社
崩れた酒匂橋付近の警戒にあたる騎馬憲兵
崩れた酒匂橋付近の警戒にあたる騎馬憲兵
倒壊した閑院宮別邸
閑院宮家では17歳の寛子女王と従者4名が建物の下敷きになり亡くなりました。
閑院宮別邸と同じ天神山に住んでいた北原白秋は
階段から転落して頭部に怪我をしたものの無事でした。家族も使用人も無事でしたが、幾人かの知人を失っています。
みみづくの家は半壊状態、それでも不思議と倒壊は免れたそうです。
白秋一家は隣の伝肇寺の竹林で避難生活を余儀なくされます。
竹林での避難生活の様子
市内のあちこちの竹林に避難民が集まっていて
天神山の麓、伝肇寺からわずか200m程度の玉伝寺の竹林では賤卑な物欲の争いが起きており、白秋は山を降りなくてよかったとホッとしています。
伝肇寺の竹林では誰かが時計や仏の面を掛けてくれたり、白秋たちはテーブルや椅子を運び、他に比べて穏やかに過ごせていたようです。
寺の檀家が棺桶を運んでくることもあったのですが
隣の寺の和尚は四、五羽の鶏と三匹の猫を放ったらかしで逃げた
和尚は逃げて不在だったんですよ。ひどいですね。
伝肇寺の和尚は白秋の山荘建築にあたり金銭面などで無理難題を押し付けており、
嫌気のさした白秋が一時期天神山を下りて知人宅に行ってしまったほど。
寺の総代や弁護士、新聞社社長、谷崎潤一郎(当時小田原住み)らが間に入り交渉を重ねようやく解決したそうで、新聞記事にもなりました。
そんな確執のある相手が、しかも住職という立場が自身だけを案じどこかに逃げてるわけです。
本尊仏も位牌も鶏も猫も放ったらかしで。
白秋の怒りや呆れが伝わってきて、不謹慎ながら苦笑いしてしまいます。
棺桶が運ばれてくると白秋は
和尚さんはよその寺の裏藪に避難してゐる
と答え
仕方なく茶碗に水など入れて供えていたそうです。
鶏や猫も白秋や妻が世話してたのでは?
竹林生活の中、白秋は花々やつくつくぼうしなど中秋のものあわれさを観察し、多くの詩を発信しています。
朝咲いて昼間の芙蓉震絶えず
茶の花や慰問の浴衣さがる頃
かうした生活こそほんたうのものである。
貧極れば心の富が普満する。
私たちの竹林は全く楽園であつた。
白秋は竹林生活を楽園とまで言ってるのですが、これはもうヤケクソのような。
野上飛雲氏は「強がり」と書いています。
その後、みみづくの家はなんとか暮らせるように修理されましたが不自由な生活が続き、
大正15年5月、一家は東京谷中に転居。
こうして北原白秋の小田原での8年間の生活は終わりました。
旧制小田原中学3年生の時に白秋門人となり、のちに秘書にもなった詩人の薮田義雄は
「北原白秋と私」で以下のように書いています。
白秋が57年の文学的生涯において、自分の持家で生活したことは小田原以外にはない。
(中略)
小田原の自然や人情がこよなく愛されていた何よりの証左であろう。
(中略)
もしこうした不測の災害がなかったら永住したかもしれない。
伝肇寺のカヤの大木とカヤの木地蔵(震災前)
童謡「かやの木山」のモチーフとなった。
もし関東大震災が起きなかったら、みみづくの家と白秋山荘は現在まで残ったかもしれないし、小田原を舞台とした作品をもっともっと発表してくれたことでしょう。
さみしいですね。
ところで、
伝肇寺の和尚はいつ戻ってきたんでしょうね。
✳︎参考文献✳︎
竹林生活 震災手記断片(北原白秋)
北原白秋 その小田原時代(野上飛雲)
一枚の古い写真(小田原市立図書館)
小田原 古きよき頃(小暮次郎)