おだにゃら記

地元小田原市中心のフィールドワーク備忘録。
歴史、神社仏閣、あとはいろいろ。


北原白秋と小田原と関東大震災 3

2024年12月03日 01時04分00秒 | 近代文学に見る小田原

間が空いてしまいました。

「北原白秋と小田原と関東大震災」の最終回になります。

 
大正12年(1923)9月1日、
関東地方を未曾有の揺れが襲います。
相模湾北西部を震源地とするマグニチュード7.9の関東大震災です。
 

小田原は震源地に近かったため被害が甚大で、
小田原含む足柄下郡の死者・行方不明者は1683人、住家の被災率は91%と報告されています。
 

大手門櫓台から転落した鐘撞堂



堀に落ちて全滅した桜並木

崩れた堀は4〜5m埋め立てられ、そこに現在の桜が植え直されました。
そのため江戸時代より堀の幅が狭くなってしまいました。



国道1号、早川口から小田原方向


倒壊したういろうの八棟造りの屋根

焼け野原の松原神社


崩れた酒匂橋付近の警戒にあたる騎馬憲兵


倒壊した閑院宮別邸

閑院宮家では17歳の寛子女王と従者4名が建物の下敷きになり亡くなりました。


閑院宮別邸と同じ天神山に住んでいた北原白秋は
階段から転落して頭部に怪我をしたものの無事でした。家族も使用人も無事でしたが、幾人かの知人を失っています。

みみづくの家は半壊状態、それでも不思議と倒壊は免れたそうです。

白秋一家は隣の伝肇寺の竹林で避難生活を余儀なくされます。




竹林での避難生活の様子

市内のあちこちの竹林に避難民が集まっていて
天神山の麓、伝肇寺からわずか200m程度の玉伝寺の竹林では賤卑な物欲の争いが起きており、白秋は山を降りなくてよかったとホッとしています。

伝肇寺の竹林では誰かが時計や仏の面を掛けてくれたり、白秋たちはテーブルや椅子を運び、他に比べて穏やかに過ごせていたようです。

寺の檀家が棺桶を運んでくることもあったのですが
 
隣の寺の和尚は四、五羽の鶏と三匹の猫を放ったらかしで逃げた


和尚は逃げて不在だったんですよ。ひどいですね。

伝肇寺の和尚は白秋の山荘建築にあたり金銭面などで無理難題を押し付けており、
嫌気のさした白秋が一時期天神山を下りて知人宅に行ってしまったほど。

寺の総代や弁護士、新聞社社長、谷崎潤一郎(当時小田原住み)らが間に入り交渉を重ねようやく解決したそうで、新聞記事にもなりました。
 
そんな確執のある相手が、しかも住職という立場が自身だけを案じどこかに逃げてるわけです。
本尊仏も位牌も鶏も猫も放ったらかしで。
白秋の怒りや呆れが伝わってきて、不謹慎ながら苦笑いしてしまいます。
 
棺桶が運ばれてくると白秋は

和尚さんはよその寺の裏藪に避難してゐる
と答え
仕方なく茶碗に水など入れて供えていたそうです。

鶏や猫も白秋や妻が世話してたのでは?
 
 
竹林生活の中、白秋は花々やつくつくぼうしなど中秋のものあわれさを観察し、多くの詩を発信しています。

朝咲いて昼間の芙蓉震絶えず
茶の花や慰問の浴衣さがる頃
 
かうした生活こそほんたうのものである。
貧極れば心の富が普満する。 
私たちの竹林は全く楽園であつた。
 

白秋は竹林生活を楽園とまで言ってるのですが、これはもうヤケクソのような。
野上飛雲氏は「強がり」と書いています。
 
 
その後、みみづくの家はなんとか暮らせるように修理されましたが不自由な生活が続き、
大正15年5月、一家は東京谷中に転居。
こうして北原白秋の小田原での8年間の生活は終わりました。

旧制小田原中学3年生の時に白秋門人となり、のちに秘書にもなった詩人の薮田義雄は
「北原白秋と私」で以下のように書いています。

白秋が57年の文学的生涯において、自分の持家で生活したことは小田原以外にはない。
(中略)
小田原の自然や人情がこよなく愛されていた何よりの証左であろう。
(中略)
もしこうした不測の災害がなかったら永住したかもしれない。



伝肇寺のカヤの大木とカヤの木地蔵(震災前)
童謡「かやの木山」のモチーフとなった。



もし関東大震災が起きなかったら、みみづくの家と白秋山荘は現在まで残ったかもしれないし、小田原を舞台とした作品をもっともっと発表してくれたことでしょう。

さみしいですね。



ところで、
伝肇寺の和尚はいつ戻ってきたんでしょうね。


 
  ✳︎参考文献✳︎
竹林生活 震災手記断片(北原白秋)
北原白秋 その小田原時代(野上飛雲)
一枚の古い写真(小田原市立図書館)
小田原 古きよき頃(小暮次郎)

 


北原白秋と小田原と関東大震災 2

2024年09月25日 15時46分00秒 | 近代文学に見る小田原
初秋だといふに小田原の丘はもう早春の絵模様である。
暖かいいい国だ。
           「蜜柑山散策」
 
 
北原白秋は随筆「蜜柑山散策」で
前田夕暮と2人で伝肇寺から水之尾へ散策した秋の情景を書いています。
(前田夕暮は秦野市出身の歌人)

二人が散策したのはマップのこの部分
  

小田原町詳細圖(昭和4年)だとこの道。
画像はズレてますがピンクの道で繋がります。
 
 
初秋の午後三時過ぎ、山荘を出てテニスコートを抜け
(このテニスコートの詳細は不明)
 
閑院宮別邸の櫨紅葉を眺め
 
閑院宮別邸

旧アジアセンターから旧城内高校までの広大な敷地を有してました。
こんな優美な洋館が天神山にあったなんて、今では想像もつかないです。
 
 
道のそばには野茨の赤い実が玉を綴ればからたちの黄色い実が刺の間に
まんまるく挟まってゐる。
 
火葬場の女松や枯櫟や通り過ぎると青い杉や小松の長い長いトンネルになる。
 

三の丸新堀土塁
 
ご存知の方はもう少ないでしょうが、旧アジアセンター(現在の三の丸新堀土塁)付近には火葬場がありました。
 

火葬場を過ぎて御鐘ノ台大堀切の脇道へ。
ここからが「からたちの花の小径」、
100年前に白秋が歩いていた当時から景観はほとんど変わっていません。

 
この小径はいつか東村と来た時に黒い矢車型のげんげの莢でいっぱいだった。
今は野菊に嫁菜、草もみぢ、秋のきりんさう。
 
(東村とは歌人の矢代東村のこと)

西堀前

からたちの花の小径は小田原城総構の御鐘ノ台堀切を歩く道でもあります。

というか、白秋童謡の散歩道はほとんど総構と被っているので、総構を見学しながら白秋の感性に思いを馳せるのも楽しいかと。
 
 


 

からたちの花の小径石碑と
御鐘ノ台の歴史的町名碑

奥は城南中学校のグラウンド。
 
鳥の◯ンついてた…
 


散歩道の所々にいろいろな歌詞看板があり、
道路には赤い鳥のタイルが埋め込まれています。
 
タイルは擦り切れて見えなくなってるので
そろそろ新しくしてほしいところ。
 

現在からたちは非常に少なくなっていて、新たに植栽もしてるそうです。

そもそもからたちとはどんな植物なのかわからなくて

からたちとは
ミカン科の低木で春に花が咲き秋に実がなる。
食用には向かず、棘があるので防犯目的で住宅の垣根や畑の境界に植えられることが多かった。
非常に棘が多く管理が厄介なので近年では栽培は減っている。


なるほど
小田原は蜜柑畑だらけなので、からたちがあっても「ミカンだ」としか思わずあまり気に留めていなかったのかもしれません。

今後は気をつけてからたち探してみよう。


御鐘ノ台の西端、水之尾口櫓台





櫓台から見下ろすこの段々畑の景色を白秋は野外劇場のようだと絶賛しました。
 
ちゃうど野外劇場式の後ろ高に蜜柑の段畑が円形にめぐっている。
その中ほどに私たちは立ってさうして耳を澄ます。
 

先週の撮影なのでまだ蜜柑は青いです。
9月中旬なのに恐ろしい酷暑日で、それでも元気に歩いてる人達がいてすごいなぁと。
(わたしは車…)

 
白秋たちは蜜柑畑で農家から蜜柑を買い求め食べながら歩きました。
徐々に日は暮れてゆきます。 
 
今度は上の畑を抜けて丘の頂上を通ってゐる水之尾道の方へ、
道もないので、蜜柑の間をがむしゃらに上ってゆかうとなる。
 
上の畑というのがどこだかわからないのですが、水之尾方面へ道なき畠道を抜けたようです。

 
道祖神がある。やっと抜けると水之尾道の高圧線の鉄塔の下に出る。
 
当時と同じ場所とは限りませんが、水之尾の道祖神はサンサンヒルズ小田原(小田原競輪の関連施設)を過ぎたあたりにいくつかあるので、結構遠くまで歩いてきちゃったみたいです。
伝肇寺からは2キロちょっとの距離ですが坂道や畑道が続くので疲れそうです。
 
なお、鉄塔は数が多いので特定は難しいです。
 
鉄塔の下手に見える2〜3軒の農家の様子を色彩も鮮やかに表現して、
すっかり日の落ちた道を引き返します。
 
 
ついさっきの檀(まゆみ)の下あたりに来る頃には、
麓の板橋から早川の漁村にかけて、灯がチカチカと輝き出す。
沖の鰤(ぶり)船にも灯が点る。かうして目が喜ぶ、目が喜ぶ。
 

閑院宮庭園から見る相模湾
アジアセンター建設視察時、昭和35年ごろ。


現在の展望

板橋や城山の住人にはお馴染みの景色。
昔は鰤漁の船も見えたんですね。

映画「プラン75」のラストで倍賞千恵子さんが見つめる風景がここです。


ところで海蔵寺の晩鐘が鳴る。
「お誂へ向き」過ぎるとは思っても、向こうの山で鳴る鐘をこちらの山できくのはいい。

板橋の向こうの山、石垣山から海蔵寺の晩鐘が聞こえてくる。

白秋の秀逸な感性が眩しくてクラクラします。



最後に
白秋の長男隆太郎さんが描いたみみづくの家と洋館の見取り図。
(「北原白秋 その小田原時代」の口絵)

みみづくの家と洋館の繋がり、白秋がポーズをとっていた書斎、星座を眺めるために作った(?)3階の様子など、時代に合わない(すみません)ポップな描き方でとてもわかりやすい。
こういう家だったんだーと瞬時に理解できました。
(でも玄関はどこなんだろう?)

複雑だけど白秋の好みが詰まった楽しそうな家です。
そういえば家を建てることは趣味の一つだと白秋は言ってます。



散策を終えて帰宅した白秋と前田夕暮を家族が迎え、来客の矢代東村も加わり、
賑やかな夕べになったようです。

竹林の方丈風書斎は客人の寝室として使われていたので、前田さんと矢代さんはきっとその部屋に泊まったのでしょう。




参考文献

「北原白秋 その小田原時代」野上飛雲
「一枚の古い写真」小田原図書館
「白秋全集」岩波書店


 
 
 

北原白秋と小田原と関東大震災 1

2024年09月13日 16時04分00秒 | 近代文学に見る小田原

小田原に縁のある文学者で最も有名な人はやはり北原白秋だと思います。

白秋が小田原に住んでいたのは1918年(大正7)~1926年(大正15)

33〜41歳までの8年間。意外と短いですよね。

それでも引越し魔の白秋にとって一つどころに8年間というのは故郷福岡での暮らしに継いで長く、住居を建築したのは小田原だけだったとのこと。

白秋は詩人として地位を確立しながらも貧しい生活が続いており、
小田原へ越す直前には門弟との決裂があり気持ちも荒んでいたようです。

小田原での暮らしの中でようやく経済的に安定し家庭に恵まれ執筆活動も旺盛となり。
白秋にとっても小田原市にとってもこの8年間は貴重な期間だったと言えましょう。
 

白秋の小田原での生活を振り返ります。
 
 
1918年、白秋は2番目の妻章子の療養目的で小田原の養生館に1ヶ月滞在しました。
(1番目の妻、敏子とは不倫関係で始まり、姦通罪による投獄を経て結婚したが1年余りで離婚)
 

養生館

正恩寺前の海岸、現在も総構の土塁跡がある場所です。
元は伊藤博文の別邸滄浪閣。
伊藤が大磯に移ったあとの1897年にリゾート旅館養生館としてオープン。
 
庭にかかる優美な橋や海を眺める展望櫓、なんとも大正浪漫チックな旅館です。

こんなところに1ヶ月もいられるなんて。
昔の著名人羨ましい。


白秋に限らず昔の文豪って貧乏でも旅館などに長期間滞在しますけど、支払いはどうしてたのか不思議です。
 


養生館の建物は関東大震災で倒壊し今は住宅地になってますが、
一部に伊藤博文の銅像や記念碑が残されています。
 
 
その後市内御花畑に6ヶ月ほど滞在。 
(小田原町詳細圖)
御花畑は養生館の少し西。
この地図は1929年のものなので既に養生館は閉業してますが路面電車の停車駅はまだ「養生館入口」となってます。
 
 

そして養生館に来てから7ヶ月後の1918年10月に天神山の伝肇寺本堂の横部屋に引越し。
 
翌年、境内に「みみづくの家」を建て本格的に居住を始めます。
 

茅葺屋根の小さな家
 
一時期住んでいた小笠原を思い南国風にした不思議発想。
入り口と両脇の小窓がみみづくの顔に見えることから「みみづくの家」と名づけました。
 
 
 木菟の家
お屋根は萱(かアや)で 壁は藁
小窓のお眼々が右ひだり
お鼻の入口 這入りやんせ
木菟ぽうぽう
内からぽうぽう
 

1920年、みみづくの家の隣に赤い屋根の洋館「白秋山荘」を建設
 
これは白秋が小田原を去って数年後(1929)家財整理のために訪れた際の知人との集合写真。
中央の椅子に白秋と2人の子どもと3番目の妻菊子。
 
2番目の妻章子とは白秋山荘の地鎮祭後に離婚、翌年に菊子と再婚。
昔の著名人はすぐに後釜を紹介されるので、離婚の翌年の再婚も特に非常識でもふしだらでもありません。
女手がないと日常生活いろいろ困りますし。
 
菊子は大変よくできた女性で、新婚当初から目の回るような多忙な生活に耐え白秋の創作活動を支えました。
白秋はこの再婚で2人の子宝にも恵まれ、ようやく安穏無事な家庭を得ることができました。
 
 

現在の伝肇寺。
みみづくの家や山荘があった場所はみみづく幼稚園となってます。


伝肇寺も別名みみづく寺と呼ばれている模様

近所だけど昔と違って入りづらい。



伝肇寺境内にある赤い鳥小鳥の歌碑


白秋童謡の散歩道

白秋は伝肇寺近隣を頻繁に散策し、景色や植物の様子を多く書き残しています。

上の地図は小田原市が制作した「白秋童謡の散歩道」

これは小田原駅西口をスタートして小田原文学館の白秋童謡館をゴールとしたウォーキングコース。
小田原駅北側は山なので坂道が続き、特に城山幼稚園脇から谷津への急な登り坂はかなりきついです。


全行程歩くのが無理そうなら(私は無理です)伝肇寺から水之尾への「からたちの花の小径」
だけでいいんじゃないかと思います。
実際に白秋がよく散策していたのはこの道なので。




小田原文学館 白秋童謡館

白秋の散歩道ゴールの白秋童謡館は小田原文学館敷地内にあります。
小田原文学館は明治の政治家田中光顕の別邸だった洋館。白秋童謡館として使われている日本家屋も田中光顕邸の別棟でどちらも国の有形文化財に登録されています。

白秋がここに住んでいたと、ここがみみづくの家だと勘違いされて訪れる方もいらっしゃるようで
確かにちょっと紛らわしいかもしれません。



小田原文学館正面




私もよく庭を散歩してます




関東大震災まで辿り着けなかったので次回に続きます。


 𓂃𓂃𓂃𓊝𓄹𓄺𓂃𓂃𓂃

参考文献

一枚の古い写真(小田原市図書館)
北原白秋 その小田原時代(野上飛雲)
 
 
 

近代文学に見る小田原 「停車場の少女」岡本綺堂

2024年08月26日 21時43分00秒 | 近代文学に見る小田原

明治〜昭和初期の小田原近隣が登場する近代文学を読むと、お堅い資料からは気づけない近代郷土史の生の息遣いを感じられて大変面白いです。

若い頃からけっこう読んだ気がするのですが内容を忘れてしまってるものが大半なので、
読み直したり、新たな作品を探したりして忘備録であるこのブログに残しておこうと思いつきました。
 
書評などではなく自分の取り留めもないメモや沸々とした感想で、しかも長文です。

𓂃𓂃𓂃𓊝𓄹𓄺𓂃𓂃𓂃

第一回目は岡本綺堂の「停車場の少女」
 
響きも懐かしい停車場とは国府津駅のこと。
短編ホラーですが展開が唐突なので怖さより摩訶不思議さが勝る作品。
 
 
ざっとあらすじ
 
主人公はMの奥さん、名前がないのでここではM子とします。
M子は女学生時代に友人の継子から湯河原旅行に誘われます。
日露戦争で負傷し湯河原で療養中の兄を見舞いたいから一緒に行こうというのです。
この兄は実は継子の従兄妹であり婚約者でした。
 
湯河原で兄に歓待されたM子と継子は温泉や街歩きをして二日間の滞在を楽しみます。
帰宅予定の日は朝から雨で、継子はもう一泊しようと提案しますが、
両親と約束した帰宅日を守りたいM子は
婚約者ともっと一緒にいたい継子の気持ちも慮り1人で帰ることにします。
 
東海道線に乗り継ぐ国府津駅の人混みの中で
M子は「継子さんは死にました」という声を聞きます。
振り返るとそこには15〜6歳の見知らぬ少女がいて、驚いて声をかけるのですがあっという間に雑踏に見失ってしまいます。
 
不安に慄いて湯河原に戻ったM子は
継子が宿で急死していた事実を知るのです。
 

 𓂃𓂃𓂃𓊝𓄹𓄺𓂃𓂃𓂃
 

作中のM子と継子の電車の旅を辿ります。
 
時は日露戦争(1904〜05年)が終わって間もない頃。
2人は午前の汽車で新橋を発ちます。
東海道線にはまだ東京駅はありませんでした。
国府津まではだいたい2時間30分ほど。
意外に早く感じます。


国府津駅


駅前広場

当時の東海道線はまだ丹那トンネルができておらず、国府津駅から御殿場方面に北上してしまうので、
湯河原、熱海方面へは国府津で下車して路面電車に乗り換えねばなりません。
 
国府津駅は路面電車の他にも人力車、乗合馬車が乗り入れとても賑わっていました。



酒匂橋を渡る路面電車(小田原電気鉄道)



路面電車は国府津ー湯本間往復。
湯河原へ行くには早川口の旧小田原駅で人車鉄道に乗り換えます。



豆相人車鉄道 小田原駅

現在の小田原駅ではなく国道1号線沿い、御厩小路入口にあった人車鉄道、軽便専用の小田原駅です。

国府津駅からここまで40分ほど。



現在の旧小田原駅跡の様子。
早野歯科の位置が駅でした。

向かいのヤオタメ付近に3〜4軒の待合所旅館があり、
特に入木亭という店の番頭が女装して客引きしており大人気だったそうです。



小田原駅跡を示す石標



人車鉄道とは人力で車両を押して進む鉄道のこと。
定員6名ほどの小さな車両が6両、
1両を車夫2〜3名が押します。

湯河原までは2〜3時間くらい。
脱線事故がつきものだったので時間は適当だったようです。



人車は当時もお世辞にも快適とは言えず、
晩年熱海で暮らしていた坪内逍遥は
「ウォーターシュートのように急勾配を疾走し、時には脱線して大怪我をしたという噂も聞く」
とその恐ろしさを語っています。



車夫の仕事は過酷だけど稼ぎは良く、勇ましいその姿は子どもたちから人気があったそうです。
芥川龍之介の「トロッコ」でも少年のトロッコ押したい!気持ちはちょっと異様ですし、
いつの時代も子どもは乗り物好きですよね。

人車鉄道は開業から10数年で蒸気の軽便鉄道に移行します。
安全面の問題もありましたが、車夫への給金の高さなどコスパが悪かったようです。



湯河原 門川駅
(写真は軽便に移行後) 

門川駅も温泉客や宿の送迎馬車や人力車で賑やかでした。

M子と継子が門川に着いたのは午後4時近く。
迎えの馬車で宿に向かいます。

新橋から乗り物に乗ってる時間は合計6時ちょっと。
乗り換えの待ち時間などを足すと7〜8時間ほどかかる長旅。
それでも女学生2人には山や海の景色に目を奪われっぱなしのあっという間の時間でした。



帰路はM子1人です。
2人だからこそ楽しかった人車鉄道も、1人だとつまらないし長く感じたことでしょう。

国府津で不思議な少女に会い、また路面電車と人車を乗り継いで湯河原に戻った道のりはさぞ不安で心潰れそうなつらいものだったと思います。


𓂃𓂃𓂃𓊝𓄹𓄺𓂃𓂃𓂃

さて、
国府津駅の雑踏で出会った少女、
そして継子の死について。

少女は15〜6歳の、色白で細面の、左の眼に白い曇あるような、目鼻立ちの整った、紡績飛白(かすり)の綿入れと紅いメレンスの帯、

一瞬しか見てないのにM子の記憶力は探偵並みです。

こういった妖しい少女は高貴なイメージになりがちですが、この子は着物からして庶民的な印象を受けます。座敷童の類でしょうか?

左の眼に白い曇り、
とは何か意味があるのかな?白内障かな。


継子の死因は心臓麻痺と診断されます。
宿で手紙を書いてる途中でテーブルにうつ伏せて動かなくなってるのを婚約者である兄が発見しました。

前年に脚気を患っているものの長旅ができるほど健康な様子から脚気が悪化していたとは考えられません。
なんといっても女学生という若さで心臓麻痺とは解せません。


そうなると、やはり誰かに一服盛られた線が強いのではと。

最も怪しいのは第一発見者の婚約者。
兄妹として育った継子との結婚は彼にとって無理があったのかもしれないし、
継子を消さねばならない事情なんて山ほど考えられます。


M子も怪しいです。
彼女はこの旅行を、婚約者に会いに行く継子のお供だと自虐しており、嫉妬心がないわけではなかったと告白しています。

表面上は仲が良くても胸の内は嫉妬が渦巻き、なんてのはよくあるし
旅行に誘われたのを幸いに計画を練ったのかもしれません。
継子に毒を盛り、効き目が出る頃には自分はもう人車に乗ってるとか。

M子と兄がグルである可能性も大きいです。


M子が国府津駅から引き返したのは、自分の犯行を後悔したのか、
まだ間に合うと心変わりしたのか、
はたまた犯人は現場に戻る的なものなのか、
理由はわからないものの、不思議な少女は戻るための口実、嘘だったと言えます。
嘘だからこそ少女の様子を後年まで詳細に語れるのです。

こういう虫の知らせのようなスピ話は
みんなけっこうコロっと信じちゃうものですよね。(わたしも)  
明治時代の人たちなら尚更です。


最後に

M子犯人説を熱く語ってしまいましたが、
「停車場の少女」は岡本綺堂の異妖の怪談集に収められているれっきとしたホラーであり、私の邪推のようなサスペンス要素はありません。たぶん。


後にこの時の体験をを語るM子は、継子の死より国府津駅の不思議な少女の方が心に引っ掛かり続けてるようです。

「あれはいったい何者でしょう?」

物語の主題はこの一文に尽きます。


ほんとうに

国府津駅で継子の不幸を知らせた少女はいっ何なのか?

不思議です。


𓂃𓂃𓂃𓊝𓄹𓄺𓂃𓂃𓂃

参考文献
「一枚の古い写真」小田原市立図書館
「小田原 古きよき頃」小暮次郎画文集