おだにゃら記

地元小田原市中心のフィールドワーク備忘録。
歴史、神社仏閣、あとはいろいろ。


桜観音の十一面観音像と新東名工事

2025年02月27日 20時20分00秒 | 
松田城関連です

松田城絵図の西に描かれている観音堂

元々は長谷山観音寺といい、奈良の長谷寺を総本山とする長谷観音信仰の寺でした。
鎌倉の長谷寺など全国には長谷寺がたくさんあります。
ご本尊はだいたい十一面観世音です。



観音堂は現在は桜観音という名称で親しまれています。
昭和初期に地元青年会が参道のR246沿いに桜を植えたことが評判になったとか。

1960年代にR246が拡張されて桜の木は減ってしまいましたが、咲くと赤いお堂との対比が可愛らしいらしく、
やはり桜の季節に来たいものです。





昔は地元の婦人たちがこのお堂に集まり観音講を行い
時代の流れで念仏講に変化し、やがてメンバーの高齢化により消滅してしまいました。



十一面観音菩薩立像は松田町の重要文化財。
4月第1土曜の例祭日だけ開帳されます。



2023年神奈川県立歴史博物館の特別展
「足柄の仏像」より

博物館の説明によると平安時代ではなく室町時代のもの。
行基作では時代が合わず(行基は奈良時代に亡くなってますので)
奈良や鎌倉の長谷寺の十一面観音像と同木というのも信仰の広がりの中で生まれた話だろうと。

奈良長谷寺や鎌倉長谷寺と同じ木から、という伝承は他の長谷寺でも見られ、行基の名も非常に多く出てきます。
木が海から流れてきたとか十一面観音像そのものが流れ着いたとかの話も多く
長谷寺のテンプレートみたいになってます。

海から、の説は仏教だけでなく神道にもよく見られ
日本人の好みなのでしょうねドンブラコ。



お堂まわりの石造物




左は堅牢地神、右は木食観正の碑

木食観正は文政年間に小田原に滞在していた遊行僧です。
木食とは穀物を断ち木の実や草だけを食べる修行のこと。この行を修めた人は木食〇〇などと称されることが多いです。

木食観正は小田原中心に近隣広くで崇拝されていましたが、
江戸大火での加持祈祷の科により捕縛され1829年に獄中で亡くなっています。
悲しいですね…





観音堂の脇から宝寿院の墓地に登れます。
高台から眺める赤色鮮やかな方形屋根。

昔は茅葺きで昭和30年にトタン葺きに改修されました。
お堂自体がその時建て直しされたのかどうかは不明。
昨年修繕工事がされたばかりなので屋根ピカピカですね。



現在観音堂の管理をしているのは隣の宝寿院。

新編相模国風土記稿には
「寶壽院 深澤山観音寺と號す」

あれ?
宝寿院の元の名称は観音寺なんですか?
観音堂の観音寺とは違うのですか?


調べてると
いまは観音堂を管理してるのは宝寿院です!
と、昔は関係なかった的空気を感じるのですけど。



モダンで清潔な雰囲気の本堂




ひっそりと咲く白梅がかわいらしい






帰りに山北町向原の新東名工事を見学。
ちょうど高松山登山口のところ。

ここも凄まじい光景。
早く完成するといいんだけど。


YouTubeで高松山登山の動画を見ると登山道が変更されてたり間近から工事を眺められたりと面白いです。
(登山しないのに登山の動画を見るのは好き)


✳︎参考文献✳︎
「特別展図録足柄の仏像」神奈川県立歴史博物館
「町指定文化財とその周辺」松田町
「松田城の魅力に迫る」桐生海正


松田城と松田氏と新九郎奔る

2025年02月22日 17時16分00秒 | 小田原のいろいろ
松田山の松田城跡へ


松田庶子の東名高速をくぐって松田山へ急坂をうねうねと登ったところにあります

少し登るだけでこんなに美しい富士山が見れます



酒匂川の眺めもよし



説明板前に2台ほどの駐車スペースあり



北条家の宿老松田憲秀の弟(松田新次郎康隆)の持城と書かれてますが他説もあり


松田城の史料は乏しいそうで

絵図だとこの2点しか残されていないそうです
(でも戦国期の山城なんて有名どころ以外はそんなものだと)


昭和60年の東名高速拡幅工事により発掘調査されたのですが
調査されたのは高速道路が通る南側部分だけ

ですから説明板にある図は2枚の絵図を元にした想定図です




城跡は農地になっており、
曲輪は高くなってるのでなんとなく形はわかりますが薮だらけで入ることはできません。





松田城址の標柱が立つ場所の土橋と堀だけは認識できます



本曲輪1
ここは入れます


富士山〜


松田町と大井町方面の眺め


想定図の最上部まで道は続いてそうですが
足元が怖くなってきたのでこの先で引き返しました。




標高165mくらい

城跡の雰囲気はあまり感じられず見るところは少ないのですが
富士山を眺めながらの初春の山畑散策は癒し効果高く楽しいです。



さて
北条氏の御由緒六家(京から共に下ってきた大道寺、山中ら六家)でもない松田氏が重臣になれたのはなぜか?

いくら足柄上郡の有力豪族だったとしても
小田原にやってきた伊勢新九郎(宗瑞)に家来にしてください協力しますっ
でスピード出世って不思議。


と思ってたら

ゆうきまさみ「新九郎、奔る!」17巻より

なんか、堀越御所(伊豆)に松田さんがいる…


新九郎が小鹿範満を破った後、堀越御所で松田弥次郎直秀という人に出逢ってるんですよ。
備前松田家の親戚で堀越公方の奉公衆として伊豆に下ってると。

小田原入りや伊豆平定の前にすでに新九郎は松田さんと知り合いだったんですね。
しかも故郷に近い備前のお人。



とても良い人らしい

この頃から松田氏縁戚と繋がりがあったのであれば、新九郎の小田原入りに強力な助けとなったのは間違いなく
やがては筆頭家老となるのもうなづけます。


ただ、松田直秀という名前は憲秀の次男以外で見当たらず、それだと時代が合わないので誰だかわからず。
また、当時の相模松田氏と備前松田氏の関係性もどうなのか気になるところですが、
それは今後ゆうき先生が明らかにしてくださると楽しみにしています。



最近は北条関連はゆうき先生に頼りっぱなし。



今年も瑞雲寺で梅見

2025年02月16日 21時08分00秒 | 小田原のいろいろ
曽我の里の梅たち
今年は開花が全体的に1週間くらい遅れたとか

それでも2月も半ばを過ぎてだいぶ咲き揃い
富士山が見えない曇りの日曜日でもまずまずの人出のようでした



瑞雲寺へ

梅まつり会場ではないのですが
人少ないし
じゅうぶんに梅綺麗だし
車止めやすいし(無料)

私はここが好きです







しだれ紅梅としだれ白梅はバッチリ見頃




白梅は5分咲きくらい











曽我兄弟ゆかりの力不動さんのお山に風林火山の幟旗が

上曽我瑞雲寺 梅の名勝に信玄の痕跡? 曽我五郎との関わり解く〈小田原市・箱根町・湯河原町・真鶴町〉

2月1日から始まった小田原梅まつり。しだれ梅の名所として親しまれる市内上曽我の瑞雲寺(大井道範住職)に今年、なぜか「風林火山」の旗が風に泳いでいる。戦国武将であ...

gooニュース

 
武田信玄は曽我五郎(弟のほう)の生まれ変わりだという説話があるそうで
住職がこのような旗を立てたそうです


なんだか華やかになりましたね


皇大神宮前のしだれ梅は見事です








墓地横の小川

小鳥さんいっぱい



いつもかっこいいなぁと眺めている境内下の建物とワイルドな梅の木


ゆいねんさん


水仙も毎年綺麗



パンダカモと松本剛吉さん宅と平成輔さん墓

2025年02月09日 22時06分00秒 | 小田原のいろいろ
昨年末から小田原城のお堀に
ミコアイサというパンダ柄の珍しいカモが飛来してるそうで

小田原城址公園にパンダ柄のカモ「ミコアイサ」 お堀に飛来し人気集める

小田原城址公園にパンダ柄のカモ「ミコアイサ」 お堀に飛来し人気集める

小田原城の堀に目の周りが黒くパンダを思わせる顔をしたカモの一種「ミコアイサ(巫女秋沙)が昨年12月下旬から飛来し、訪れる人の目を楽しませている。

小田原箱根経済新聞

 

ウォーキングついでに探してみたのですが見つからず








画像は カナロコ by 神奈川新聞 より
つがいのミコアイサ
手前のパンダ柄が雄

後で調べたら学橋の下にいることが多いらしいので
次回はそのあたり重点的に見てみます


今日はお天気で鳥たちも気持ちよさそう


カモとカワセミ


立派なカメラで撮影してる人の邪魔になるので近づけず
iPhoneのワタシはこれが精一杯











二の丸広場で自然・馬・人の会の乗馬体験イベントが催されてました

4頭の馬さんおとなしくてかわいい
小さいお子さんたちけっこう並んでました


日清亭でランチして
西海子小路へ


松本剛吉別邸
庭園工事中なので入れないと思ってたのですが門が開いてて

ウロウロしてたら母屋は見学できますと声をかけていただきました














記録を遡ったら8年ぶりの訪問でした

その時は茶室がオープンしたばかりで、母屋は荒れたままの物置?状態

こんなに綺麗に改修されていたなんて驚きです




庭園の工事もほぼ終了しており
2月20日から茶室と庭園の公開が再開されるそうです


続いて御花畑
報身寺方向へ


平成輔の墓

1331年の元弘の変で捕らえられこの地で処刑されました
鎌倉幕府滅亡の2年前のことですから
あともうちょっと逃げててくれればと残念です


昔の石祠が崩れてブルーシートがかけられてましたが
こんなにシンプル
いや
実にスッキリとした祠が新設されてました

周囲の住宅の様子もだいぶ変わってしまって
昔とは違う場所にいるようです






ちなみにこれは2016年ごろの様子



もっと古いのはこちら

荒久海岸から早川村を臨む
平成輔最後の地というタイトルの絵葉書

祠も何もなく立札があるだけなので墓ではなく処刑地と思われます
絵葉書の題材としては奇妙な感性

当時の墓は報身寺(もとは潮音寺)境内にあって大正時代に改葬されています



拡大すると
「つるや」看板の建物前で働く人々が見えます

この「つるや」とは宿なのか食堂なのか舟小屋なのか


私は荒久に住んでいたことがあるので
時代こそ違えど懐かしさを感じます

魚網がそこら中に干されてて
子どもが歩くの大変なんですよ
匂いもすごいし



報身寺のクロマツ

昔は平成輔の墓の横にも立派な松があったそうです