相模国の四宮であり式内社である前鳥神社。
相模国の一宮は寒川神社、二宮は川匂神社、三宮は比々多神社、四宮がここ前鳥神社になります。
二の鳥居
一の鳥居は諸事情で撮れなかったのでwikiから
普段は山の中の小さな神社に行くことが多いので
たまにこんな大きな神社に参拝すると緊張してしまうわたし。
二の鳥居から一の鳥居方向を見たところ。
長くて広い参道は歩いてて気持ちいいですね。
前鳥は「さきとり」と読みます。
前鳥とはなにか?どんな鳥さんなのか?
昔、相模川の下流には相模湾が深く入り込んでおり一面海でした。
https://nh.kanagawa-museum.jp/kikaku/ondanka/pdffile/wt_v101.pdf
6000年前の神奈川の大地 より
平塚、茅ケ崎は完全に海。
やがて土地の隆起や相模湾からの西南風により海岸の土砂が運ばれ、島のような砂丘地帯ができるように。
上の図を見ると寒川神社の周辺は6000年前からギリギリ陸地、
古相模湾を眼前に栄え地域の中心地となっていきました。
寒川の前の海中に島のような堤防のような陸地が形成されていき
現在の四宮あたりはその端だったので埼取、前取、
あるいは寒川の前にある島なので前島、そのうちになんと島が鳥に誤記されて前鳥に。
前鳥という名の由来はこのように諸説あってはっきりとしませんが
ひとつだけわかってるのは
生き物の鳥とはなんの関係もないということです。
鳥とは関係ないんだけど絵馬にはニワトリさん。
可愛いのでこれはこれで良しとしましょう。
鳥好きのわたしは大変ほっこりしました。
前鳥神社の祭神は
菟道稚郎子命、大山咋命、日本武尊 の三柱
このうち大山咋命は明治時代の合祀、日本武尊は昭和61年の合祀と新しい。
本来の祭神である菟道稚郎子命(うじのわきいらつこのみこと)は非常に珍しい神様で、
名前の由来である京都宇治の宇治神社と宇治上神社、栃木県の野木神社、そしてここ前鳥神社以外では見られません。
菟道稚郎子命は十五代応神天皇の皇太子。
百済から来朝した阿直岐、王仁に論語その他漢籍を学んだ当時最高の学識者でした。
ですから前鳥神社は学問にご利益があるとされてます。
菟道稚郎子命は皇太子でしたが、応神天皇崩御後は兄王に遠慮し即位せず。
兄王も皇太子は弟王だからと即位を固辞。
三年も空位が続き世が混乱してしまい、これ以上長く生きて世を煩わすことはできないと、
ついに菟道稚郎子命は自ら命を絶ってしまいました。
兄王は嘆き悲しみ、ようやく皇位につく決心をする。この兄王がのちの仁徳天皇。
昔はこの話が「謙譲の美徳」とされたのだけど
現代では何も死ぬことは・・・と思ってしまいます。
ですが菟道稚郎子命は一命を取りとめ東国に落ち延びたという説があり、
その地こそがここ平塚四宮なのです。
四宮周辺には古墳が多くあり、一番大きいものが前鳥神社から西に1500mのところにある真土大塚山古墳。
相模国最大の前方後円墳または前方後方墳とされ、中国魏時代の三角縁神獣鏡など
大和政権と深い繋がりがあったと想像できる副葬品が出土していることから菟道稚郎子命の墓ではないかという説があります。
平塚市博物館より 昭和35年当時の真土大塚山古墳(北の低湿地から南の砂丘を望む)
昭和46年発行の「相模の古社」では開発が進む大塚山古墳周辺の状況から、いつまで原形をとどめているかと著者が心配していますが
その心配通りに現在までに大塚山古墳は消滅しています。
しかも調査が不十分だったので古墳の詳細は永久にわからないまま。
境内社の神戸神社
こちらは奨学神社
祀られてるのは百済の阿直岐と王仁、菅原道真。
本殿の菟道稚郎子命と合わせて学問の超強力メンバー。
わたしも若き日にここにお参りしていれば・・・
奨学神社の内部にはダルマさんがびっしり。
豪華な唐破風のついた社務所
研修や講演会などにも使われるそうです。
帰りにそば処名古屋へ。
将軍そばを食べました。