おだにゃら記

地元小田原市中心のフィールドワーク備忘録。
歴史、神社仏閣、あとはいろいろ。


頼政神社 山北町神縄に暮らす子孫

2024年11月26日 22時03分00秒 | 神社

先日の三保ダム紅葉狩りの本来の目的は神縄地区の頼政神社参拝でした。

 

三保ダムのマップにも出てます頼政神社
 
県道76の神縄バス停前を左折、途中の別れ道を右に行くとダム広場駐車場
左に行くと頼政神社とひだまりの里(キャンプ場)
 
ひだまりの里スタッフさんによると、神社専用の駐車場はないので鳥居横に路駐していいそうです。
 
 
頼政神社
 
頼政とは源頼政のこと。
平安時代末期に活躍した摂津源氏の武士です。
 
保元の乱、平治の乱以降に平家政権に属しましたが、
やがて以仁王と共に平家打倒を謀り、宇治平等院での戦いに敗れて自害しました。
 

大河ドラマではわりとおなじみで
近年では
 
「平清盛」では宇梶剛士さん

「鎌倉殿の13人」では品川徹さん
が源頼政役を演じています。
 
(おもしろかったですよね。この2作品は…)
 
 
 
源氏なのに平家政権に与していたのはなぜかと不思議がられることも多い頼政。
 
一口に源氏と言っても源氏二十一流と呼ばれるほど系列が多く、
源氏を名乗ってるからと言って遠縁どころか全くの他人だったりするので、同族意識なんてないのです。
 

頼政の摂津源氏は源満仲の嫡子である頼光の子孫。あの英雄頼光の血筋です。
一族は京に住み天皇近くに仕え教養も高かったので、野蛮な東国武士の河内源氏とは家の格が違いました。
 
もしも以仁王と頼政の挙兵が成功していたら頼政こそが源氏の棟梁として歴史に名を刻まれたのでしょうが
天はなぜか伊豆で燻っていた河内源氏の源頼朝に運を与えたのですね。
 
 

そんな源頼政を祀る神社は全国でも珍しく、
 
茨城県古河市の頼政神社は
頼政の従者下河辺氏が自らの領地に主君の首を運び供養したのが由緒で、
その関連で竜ヶ崎市にも小祠が伝えられ、
群馬県高崎市には江戸時代になってから藩主大河内松平氏が先祖である頼政を祀る社を建てています。
愛知県豊橋市の豊城神社は明治以降の建立で、藩主大河内松平氏および頼政を祭神をとしています。
 
調べて出てくるこの4社くらい。
どれも頼政の家臣や子孫が建立してるので由緒も地域も理解できるのですが、
山北町神縄はポツンとこんな山奥に。
いったいなぜ?
 
何らかの事情で古河まで首を運べずにここに埋めたとか
実はこの地区には頼政の子孫が隠れ住んでいたとか。
 
 

扁額には頼政宮とあります。
 
新編相模国風土記稿では
「頼政社 村の鎮守、神体木造 長五寸、仲春李秋の望を祭期とす、
 覆殿に第六天、姥神の二社を置、村民持、下同」
程度の記述しかなく由緒は不明。
 
「神縄ではかつては麻をたくさん作っていたが、頼政が麻の先で眼を痛めたことから麻を作らなくなったという。
 また、地元の旧家の人は片目が細い。これは頼政の子孫だからだといっている。」
 

頼政が麻で眼を痛めた真偽は不明ですし、後天性の障害が子孫に伝わるはずはないのですが、
他に史料が見当たらないので今はこれを信じて納得したいと思います。

頼政の子孫の誰かがこの地に来て暮らし始めた、その一族は片目が細い人が多かったのでしょう。
 


境内にかながわの名木100選、県の天然記念物に指定されているトチノキがあります
 
最初はどこにあるのかわからなくて
 


社殿背後にありました。

説明板読みにくい。
 

樹高25メートル さすがの迫力
 
でも大掛かりな剪定をしたのか枝ぶりがちょっと寂しい
 


謎の大きな丸石
 
力石でも道祖神でもないですよね。
 





神縄地区も三保ダム建設の影響で昔とは大きく環境が変わり、住民も少なくなったそうです。

でも神社の周囲は木々が美しく、静寂に包まれ居心地よい空気感でした。



新東名高速道路の工事その後と三保ダムの紅葉

2024年11月19日 20時05分00秒 | お出かけ
今年のGWにはこんなだった
山北、河内川橋の新東名高速道路の工事
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GW中に新東名高速道路の橋の工事現場を見てきました。いつもは車内からチラリと眺めるだけなので一度そばでちゃんと見たいと思っていたのです。企業情報|高速道路・高速情報...

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11月現在はこんな感じです

繋がっとるね


なんか繋がると安心します

何が安心なのかよくわかりませんが








ここまで来たので三保ダムへ



もうこんなに真っ赤っか🍁
嬉しいなぁ







湖の周りを散策








遥か下方にダム広場が見てます

よく考えてみると
ダム広場に流木を貰いに来たことはあったけど(熱帯魚やメダカのため)
こちら側、湖の遊歩道を歩くのは初めてでした。

















丹沢湖記念館のほうまで続いてる道



丹沢湖記念館の裏


名号塔
唯念さんではないみたい

✳︎追記
こちらに情報がありました。
「丹沢湖」1978 神奈川新聞社 によると
かつては松ヶ山の古道にこの名号塔が建っていたそうです。
書体から私は唯念さんではないと思ったのですが、唯念さんだったようです ๑•́ㅿ•̀๑) ᔆᵒʳʳᵞ



馬頭観音

これらはダムに沈んだ村のものでしょうか



水神







丹沢湖記念館となりの三保の家

ダムに沈む前に世附村から移設したそうです


三保ダムが完成したのは昭和54年。
その頃はまだこんな茅葺の立派なお宅があったんですね。

私は子どもの頃、父に連れられて水が入る前の村の様子を見に来たことがあります。
ダム完成の2年くらい前だと思います。

建物や木々が全部なくなって
家の基礎や畑や道路の跡が剥き出しになってる
まるで空襲にでもあったような集落の最後の姿。


父がずいぶんと写真を撮っていたので
家捜ししたら出てくるかもしれません。


秦野戸川公園 怖くない吊り橋

2024年11月14日 15時12分00秒 | お出かけ
秦野市の戸川公園




水無川を挟む広大な公園

四季折々の花を楽しめ、子どもが遊べる広場やグラウンドがあり、夏には川で水遊びもできます。

秦野ビジターセンターがあり丹沢の登山口にもなってます。



お花キレイ〜
という話題はよく聞いていたけど
吊り橋渡らにゃいけないみたいなので避けてました。
(私は2年前の五竜の滝以来、吊り橋ぜったい渡らない決意表明をしてます。他に灯台、古い日本家屋の階段なども。)

でも先日の日曜日
秦野のチャイナガーデンでランチしてたら夫が行ってみたいと言い出しました。
こんな大きな公園にどうして今まで行かなかったのかと。


だから行きましたよ。腹ごなしに。


そしたら

なんと
この吊り橋はぜんぜん怖くない!

普通に車が通れるレベルの(通っちゃダメですけど)
頑丈で立派な吊り橋でした。



走っても平気〜 ヒャホッ
あぁ吊り橋ってたのしー





紅葉が始まってる園内は良い雰囲気
(やっぱり先週の葛山は早過ぎた)




夏に水遊びできるところ









あいにく花は少ない時期なのでちょっぴり寂しさも


自然観察の森のほうまで歩いたらけっこう汗かいて疲れてしまって
ランチ後の腹ごなしを軽く超えたカロリーを消費できちゃいました。
楽しかったです。

食わず嫌いならぬ行かず嫌いってやつだったみたい。


ちなみにこの日のランチは最近よく行く
「チャイナガーデン」

(公式より)

秦野246沿いにある
洋風庭園のような中国レストラン。
昔からあるのは知ってたけど、利用始めたのは最近なんです。
秦野方面行くことが増えたので。

お高く見えるけどとてもリーズナブル、優しい味つけがお気に入りです。



チャイナガーデンの向かいにはだのじばさんずというJAのマーケットがあり
峠の漬物買ってます



酒粕が
アルコール飲めない私には最初はツーンとするくらい衝撃でしたが
慣れてくるとクセになるお味です。


葛山城 キセキの中世城郭

2024年11月12日 21時22分00秒 | お出かけ

城が続きます。

先週、裾野市の葛山城に紅葉狩りに行ってきました。
 
 


 
大手口入ってすぐに楓が植栽された素敵な道があるんですけど


まだ早かったです
 
やっぱり11月に入ってからでしょうか。
何度か来てるのにまたもや失敗です。
 

色づいてる木もけっこうあってそれなりに楽しい城散策






葛山城は
鎌倉時代から戦国時代まで駿河郡で勢力を誇った葛山氏の本拠地です。
 
葛山氏は北条氏以前に小田原を支配した大森氏の一族。
大河ドラマ「光る君へ」をご覧の方にはお馴染みかもしれない藤原伊周の流れを汲んでると言われています。
 
 
新九郎、奔る!16巻より

今川の家臣なので最初は新九郎には協力的。
新九郎は葛山氏の娘を側室に迎えたり、葛山氏は新九郎の子(氏広)を養子に迎えたり、
もらったりあげたりで良好な姻戚関係。
当然これから作品での登場回数も増えることでしょう。
 
 
葛山氏墓所
 

墓所前の説明板
(現在墓所に立ち入れないので昔の写真探してきました)
 
 
葛山氏は河東一乱が続く過程で北条氏から離反、武田信玄が駿河に侵攻にすると今川を見限って武田氏に従います。
 
信玄は六男の信貞を葛山氏元の婿養子とし葛山の跡目を継がせます。当時どこの領主もやっていた婚姻による他家の乗っ取り、領地拡大です。
 
ここまではいいのですが、
信玄は武田の葛山支配を確固たるものにするため、氏元に謀叛ありとして、氏元以下5名の葛山一族を諏訪湖で処刑してしまいます。
 
武田や徳川の戦記では斬刑や磔と書かれてますが実際は諏訪湖で水死させられたそうです。むごいですね。
この時処刑された中には氏元の3人の息子も含まれ、年齢は上から24、18、13歳でした。
 
葛山当主となった信貞は天目山の戦いで兄勝頼が敗れた後甲斐善光寺で討死します。
これにより駿河葛山氏は完全に滅んでしまいました。
 
 
という悲劇的な最後を迎えた葛山氏。
しかし家臣や領民たちによって城跡、館跡含む葛山の土地は大切に守られ現在に至ります。
 
 

現地案内図
葛山にはこういうのたくさんあってとてもわかりやすい。親切!
 
中世の城郭(13〜16世紀)はだいたい詰めの城と領主が暮らす館がセットになってます。
詰めの城は山中にあるので遺構が残りやすいですが、館は田畑や宅地に開発されその姿を留めていないケースがほとんど。
 
ですが葛山城は詰めの城と館跡がしっかりと残っている極めてレアな城郭史跡です。

キセキ的に残ってるんです。
 
 



葛山館跡
北側の土塁
 
中世の館はだいたい100メートル四方の方形。
100メートルは昔の単位で一町、
面積10000㎡も一町と数えます。

 

これだけ良好に残る館跡は他に
福井県一乗谷の朝倉屋敷くらいしか思い浮かばないです。
あちらは残ったというよりは埋没していたんですけど。
 
あとは、少し違うけど八王子城とか。
 
 

館跡は平成4年に発掘調査されており、11〜16世紀までの陶磁片や柱跡、庭園跡などが確認されています。
 
ちなみに詰めの城のほうは一度も発掘調査はされてないそうです。
 

門跡の土塁
 


詰めの城(葛山城)と仙年寺と館跡の位置
 


館跡詳細
 
(1)葛山氏館 の隣に(2)半田氏屋敷(4)荻田氏屋敷(5)岡村氏屋敷
家臣の屋敷が並び複郭式の城郭を成しています。
普通は領主の館が単郭あるだけなので、これだけでも相当珍しいです。
 
 

道路から見る葛山氏館(奥の植え込み)と半田氏屋敷(赤い石塀)
 
半田氏の子孫の方が住まわれてるので撮影は塀だけ。

中世から規模の変わらない敷地に住居されてるってすごいことです。
 
  
大門跡に集められてる石造物
 
 

仙年寺への参道
 
背後の愛宕山に葛山城があります。
寺の前に堀を埋めた堀田という地名が残っており、かつては仙年寺に館があったと言われています。
 




とても綺麗な仙年寺
 



昨年の大雨の影響で寺裏から城への階段が通行止めになっており、
寺の駐車場右手の細道から大手門入り口まで行かなくてはなりません。
(私は寺の急階段が嫌なのでいつも大手門からです)
 
大手門までは徒歩7〜8分。
屋敷の名残や城跡の雰囲気を感じる自然豊かな道なので楽しいです。
 
というか
絶対歩いたほうがいいです。
 
 
正直、詰めの城はどうでもいいかな🙇 と感じてしまうほど
葛山は館跡や集落の存在に価値のあるところだと思ってます。

 

途中にある馬頭観音
 
 
好きな史跡なので長くなってしまいました。
でもぜんぜん足りないわ。
また紅葉狩りチャレンジしないといけないし。
 
 
✳︎ 参考文献✳︎
静岡県の城跡 中世城郭縄張図集成
裾野市史研究
裾野市史
葛山居館跡遺構確認調査概報
新九郎、奔る!
 
 
 

興国寺城 ファンタジーの北条早雲

2024年11月04日 22時56分00秒 | お出かけ


とつぜんの伊都さま

若き日の北条早雲を描く新九郎、奔る! 
では直近17巻でようやく、、
ええようやくですよ
龍王丸(今川氏親)が今川の家督をゲットし、
伊都(北川殿)が新九郎に富士下方十二郷および興国寺を与えました。


そのお祝いってわけではありませんが
先週興国寺城へ。
北条早雲旗上げの地として知られる城です。


沼津市根古屋
国道1号線から北へまっすぐ、とてもわかりやすい。










天気がいいので木の影で全然読めませんね。

興国寺城は国指定史跡。
平成29年には続100名城に登録されています。

私は9年ぶりの訪問。



本丸にある穂見神社


天守台の石垣




西櫓台から本丸を見下ろす

駿河湾、伊豆半島が見えます





大空堀



戦時中の防空壕が3つ残されてます。

中に入った強者もいるようで、検索すると内部の写真が見つかります。


清水曲輪のほうにもいくつか防空壕があるそうです。





空堀の西端

興国寺城で最も絵になるカッコいい場所だと思います。

でもこのへん歩きづらい。





北曲輪

大空堀から階段登って行けるんだけど通行止めになっててよくわからないのでいったん外の道路に出て坂道をぐるっと。

疲れました。



興国寺城前の道路に立ってる整備計画図
(Googleマップより)

これ、9年前にもありました。
発掘調査や整備が進んでるそうで、今回は見どころ増えてるのかな?と楽しみにしてたのですが特に変わらず。

駐車場がわかりにくいのも昔のままでした。


わからないとこ多いの。
小さい城跡なのに。



新九郎(北条早雲)の興国寺城での旗上げ話は江戸時代の軍記物に書かれているもので、
当時新九郎が興国寺城を居城としていた史実はありません。

興国寺城自体、史料に登場するのは新九郎没後の今川義元の時代になってからです。
今川義元が興国寺を移転させて、その土地に寺の名前を取った興国寺城を築城してます。
つまり新九郎が生きてた頃はまだ興国寺は城ではなかったのです。

新九郎が北川殿から貰った富士下方というのは現代の富士市一帯、興国寺も含まれますが、図を見てわかるとおり興国寺はかなり辺鄙なところ。
富士下方を支配するなら善徳寺のほうがふさわしいです。

また、新九郎が茶々丸を討伐したのは下剋上ではなく、室町将軍足利義澄及び今川家からの命なので旗上げなんかしません必要ありません。

そんなですから
北条早雲興国寺城で旗上げというのは、早雲が浪人だったとか牛に松明くっつけて大軍!的なお話同様ファンタジー なのです。



よく見えないけど
北条早雲と天野康景の石碑

天野康景は徳川時代の興国寺城城主。
領民殺害事件をめぐり本多正純と揉めて城を捨て出奔、改易され、
その後は南足柄市沼田の西念寺で晩年を過ごしました。

沼田近隣では天野さん慕われてたみたいです。



「新九郎、奔る!」での興国寺城の扱いはまだわかりませんが、
茶々丸討伐は中盤(?)のクライマックスなのでみっちり丁寧に描かれそうですよね。

となると小田原に到着するのはあと5巻くらいは必要か。


早く来てね。
寄栖庵も道寸も待ってるよ。


✳︎参考文献✳︎
「戦国北条五代」黒田基樹
「新九郎、奔る!」ゆうきまさみ
「興国寺城跡」沼津市教育委員会、沼津市文化財センター