おだにゃら記

地元小田原市中心のフィールドワーク備忘録。
歴史、神社仏閣、あとはいろいろ。


中村党を追ってみる 土屋一族

2023年10月12日 15時28分00秒 | 中村党を追ってみる

10月に入りようやく秋めいて歩くのが楽しい陽気になってきましたので

中村党を追ってみる の続きで平塚市土屋に行ってきました。

中村党の記事は5月以来、3つめとなります。


平安時代末期、中村宗平から始まり神奈川県西部に勢力を拡大していった中村党。

三男の三郎宗遠は土屋を領地とし土屋の姓を名乗りました。

全国の土屋さんの祖です。


突然脱線しますが宗遠(むねとお)のように最後に「とお」がつく名前ってカッコよくないですか?

安倍貞任とか拝一刀とか。




土屋は平塚市の西の端一帯。

秦野市、中井町、二宮町、大磯町に面し歴史と自然が残る静かな里山です。

中村党宗家のある中井町五所八幡宮からは直線距離で5キロメートルほど。近いですね。

狼煙上げるより走った方が早いかも。


上の地図は平塚市土屋ささりんどうクラブのもの。

ささりんどうクラブによる土屋郷土研究は驚くほど詳細で情報量が多く、他の資料がほとんど必要ないほどでとても助かってます。

読み物としても楽しいです。

(以下幾つかの画像をささりんどうクラブさんからお借りしてます)


データ詳細 - 平塚市図書館 

ささりんどうクラブの土屋郷土史は平塚市図書館のデジタルアーカイブでも閲覧できます。

これもありがたい。


今回は土屋氏に関わる大乗院、土屋城跡、土屋一族の墓、熊野神社

という狭い範囲の初秋プチフィールドワーク。








大乗院境内入口

平安時代に開かれ土屋宗遠が堂宇を再建したと伝わる寺。





大乗院は江戸時代までは末寺が25寺、境内にはいくつかの小院がありなかなかの規模だったようです。

図中の参道は現在でも住宅の間に残っています。














大乗院前の路地を南へ。
墓地をまわったこのあたりが土屋城址といわれてます。



道の分岐点に案内板が立ってます。

鎌倉時代の城は館と変わらない質素なものなので
土屋城と言うと少々大袈裟な感じがしますね。






城址の丁寧な説明と
金槐和歌集から土屋宗遠に関連すると思われる歌。



城址説明板を左手に。
このあたりは関東ふれあいの道「鷹取山・里のみち」の一部になってます。




土屋一族の墓の説明板その他。
全国の土屋さんの祖がこの土屋一族です。

墓はここからもう少し左手に下ります。



こちらにも実朝の歌


年老いた宗遠がたびたび鎌倉を訪問したことを歌ったといわれてます。

平成25年のまだ新しい石碑ですね。
地元の方々の歴史保存に対する熱意を感じます。


天皇陛下が皇太子時代にこの地を訪れた記念の植樹

陛下が植樹されたのはイチョウだそうですが、どれだかわからなかったです。今もあるのでしょうか?



素晴らしい内容。さすが土屋です。
私が追記すること何もありません。







土屋一族の墓

新編相模國風土記稿には
「古碑一基 土屋三郎宗遠の墓碑と云う」
とありますが五輪塔や板碑など20基以上見られます。

館跡と伝わるこの地、字大庭が昭和のはじめに開墾された際に散財していた五輪塔がここに集められたようです。

刻字が読めるものはないようですし、これらが土屋一族の墓であるという確証はありませんが。








墓の前に広がる館跡






館跡から一族の墓方向を見る



土屋城址の説明板に戻り、
牢屋敷などがあったと伝わる大乗院裏を通った先の木村植物園に寄りました。

ドッグランやカフェもある規模の大きいガーデンショップです。








庭に関することならなんでも揃ってて見てるだけで楽しいお店でした。







木村植物園を出て熊野神社のある通りへ



熊野神社

宗遠が平家追討の帰路に紀州熊野権現に詣で、御神体を蓑で包んで持ち帰り勧請。
守護役として現地の武士蓑島氏を土屋に招き、現在でも神社の周囲には蓑島姓が多いです。

蓑島氏が蓑で包んで持ち帰った
という早口言葉みたいな解釈でOKかな?



足場かかってて見えづらいですがここにも説明板









土屋氏は中村党の中では土肥氏と並んで吾妻鏡などの史料に記述が多く
その動向が比較的よく知られている一族です。

源頼朝の旗上げから鎌倉幕府成立に一族をあげて協力し、
和田合戦で養子義清が和田方について討たれたり、宗遠がとつぜん梶原家茂(梶原景時の孫)を◯してしまったり、
血の気が多くていろいろマズいこともありましたが幕府内で重要なポジションを保ち続けました。


鎌倉幕府滅亡後は明徳の乱や上杉禅秀の乱などで大きなダメージを受け、一族は土屋の地を追われます。
そのためこの地には土屋姓がほとんど残っていません。

土屋を追われた一族は甲斐や伊豆に逃れ、やがて全国に土屋姓が広がりました。
武田二十四将に子孫土屋昌続が名を連ねているのは有名です。



中村党を追ってみる 中村宗平の館跡と五所八幡宮

2023年05月30日 15時57分00秒 | 中村党を追ってみる
前回書いた土肥実平は中村党の祖、中村宗平の次男です。
前々から中村党ってなんとなくカッコいいな〜と思ってたので、
少し追ってみることにします。


中村荘司(現在の中井町)であった中村宗平は長男重平を跡取りとし、
次男以下を土肥(湯河原町)土屋(平塚市)二宮(二宮町)境(中井町)に分家させ、娘を有力豪族に嫁がせたりして勢力を拡大していきます。


(相模武士ー全系譜とその史蹟 湯山学 より)

こうして組織された中村氏の血縁武家集団が中村党。
平安末期の相模武蔵には他にもたくさんの党があり、
鎌倉幕府創建にあたって貢献したり敵対したりしていくのです。

中村党は三浦党と共に源義朝の代から頼朝の信頼厚く、伊豆での挙兵時から一族の多くが参戦しています。


中村宗平は老齢のため(佐々木のじいさんたちと同世代)戦には参加せず、
後継の重平は早世してしまったのでその子景平と盛平が参戦しています。
この頃には中村党のリーダーは本家から土肥実平に移っていたと思われます。


さて、土肥実平の館跡についてはすでに触れましたが
中村宗平の館はどこだったのか?



(相模武士 より)

土肥の館同様、遺構が残ってるわけではないので
地形や地名や言い伝えで想定するしかないのですが

上の図で
五所八幡宮(五所宮)の西側の「城ノ内」
五所八幡宮すぐ南側の「荘司屋敷」
そしてさらに南に1キロほどにある「鳥ノ久保(とんのくぼ)」
この3箇所が中村宗平の館跡ではないかと言われています。

特に「鳥ノ久保」は検知帳に「殿ノくぼ」という表記が見られること、
付近に五輪塔が散在してること、三方を山で囲まれ中村川に面していること、などなどから館跡である可能性が最も高いようです。



現在の鳥ノ久保(殿の窪)
畑の三方は山



説明板建ってます

こういう地形を東面馬蹄型っていうんですね。

この説明板から北に少し歩くと右に細い道があり


中村一族のものと伝わる五輪塔が集められている場所があります。
(画像はタウンニュースから。
 私は場所わからなかった)

あと、滝の前(館の前)の住宅地にも五輪塔が残されています。
(これも私はわからなかった)




中村宗平の崇拝した五所八幡宮

五所という名の由来は
宇佐八幡宮から数えて五番目に勧請された八幡神だからだそうで

1.宇佐八幡宮
2.岩清水八幡宮
3.鶴丘八幡宮
4.壷井八幡宮
5.五所八幡宮


この並び
俄かに信じ難いですが…
でもまぁいいや


ちなみに土肥実平のいる湯河原にも五所の名がつく五所神社がありますが、
それは天照大御神など五柱を祀ることから名付けられたので
こちらの五所とは意味が違います。







八幡宮の真ん前が荘司屋敷と呼ばれたところ



境内に中村宗平の墓と伝わる五輪塔があると聞いて探したんだけどわからなくて

もしかしたらこれかな
と思ったのが鳥居くぐって右の庭に。

でも何も書いてないから違うかも。



八幡宮の裏手の庚申塔
寛文8年(1668)

中井町の庚申塔は古いものが多いですね。


五所八幡宮の周辺には
馬場、矢馬、屋敷下、滝(館)ノ前など館の存在を匂わせる地名が多くあり
役所があったとされる久所(ぐぞ)という地区もあります。

地図を見る限り
どこに館があってもおかしくないんじゃない?あちこち越したんじゃない?
なんて思ってしまうわけですが
やっぱり地形的に殿の窪が一番なんでしょうな。

中村党を追ってみる 土肥氏館跡 城願寺

2023年05月21日 23時30分00秒 | 中村党を追ってみる
 
昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で阿南健治さんが演じた土肥実平。
 
実平は湯河原を本拠地とした土肥氏の祖であり、その館は現在の湯河原駅から城願寺周囲にあったといわれています。
 
 

湯河原駅前の土肥実平夫妻の像
 


阿南さんは昨年の武者パレードに実平役で参加されてたのですね。
湯河原町出身の船越英二さんが源頼朝役。
 

城願寺から伝土肥城の城山を抜けて、
頼朝が隠れたしとどの窟までは2時間弱のハイキングコース。

しとどの窟も城山もとても面白いのでオススメです。
(膝痛になってない頃歩いた)


源頼朝の鎌倉幕府成立に貢献したり争ったりした坂東武士たち。
土肥実平はその中の中村党、中村宗平の次男で
土肥、現在の湯河原を本領にして土肥姓を名乗ります。


城願寺は実平が持仏堂を建てた場所が始まりとか。

寺の周囲の地名は城堀といい、湯河原駅付近から城山までなかなか広範囲です。
実平の館の遺構は何も残っていませんが、やはりほぼ平地の湯河原駅あたりに居館があって、
城堀と呼ばれた館裏の山に持仏堂を建てたのかな
と想像します。



真新しい善導寺型灯籠が目を引きます。
ハートの猪目が可愛い。


そういえば昔、城願寺に行った時に
堀跡が残る場所があると聞いたのですが
どこだったのか、それとも聞き間違いだったのか、
なんでも忘れてしまうので不明です。





実平手植えと伝わる樹齢900年のビャクシン(柏槙)
国指定天然記念物













七騎堂

石橋山で敗れ、真鶴岩から漁船で房州に逃げた頼朝以下主従七騎。俗に言う頼朝七騎落ち。
昭和49年にその七人の像を納め建てられたお堂。

七騎とは
源頼朝、岡崎義実、安達盛長、新開忠氏、土屋宗遠、土肥実平、田代信綱

吾妻鏡の記述とはちょっと違います。


頼朝はあちこちに座る

実平さんも座る




伊能忠敬がお墓参りに来てくれたらしい


階段の上に土肥一族の墓


ここにも伊能さん記念碑

伊能さん来てくれたことはすごい名誉なのね





中央の大きめな五輪塔が実平や息子の墓でしょうか



たくさんあります


こちらは無縫塔が多いです。
珍しい形のもの、幼い子供の供養塔もあります。



実平の息子、遠平は早川庄(小田原)を本領としたことから小早川を名乗り
のちに実平と共に所領であった安芸国沼田庄に下り、その子孫はあの有名な戦国武将小早川一族となりました。


実平も遠平も安芸で亡くなっており、城願寺の墓は分骨されたものです。


なお、遠平の子維平は和田合戦で和田方につき、2人の息子は討死、維平は処刑されました。


維平たち親子が亡くなった和田合戦以降、
土肥一族の相模での勢力は失われてしまったようです。



墓地からの眺め

ちょっとだけ海が見えます