10月に入りようやく秋めいて歩くのが楽しい陽気になってきましたので
中村党を追ってみる の続きで平塚市土屋に行ってきました。
中村党の記事は5月以来、3つめとなります。
平安時代末期、中村宗平から始まり神奈川県西部に勢力を拡大していった中村党。
三男の三郎宗遠は土屋を領地とし土屋の姓を名乗りました。
全国の土屋さんの祖です。
突然脱線しますが宗遠(むねとお)のように最後に「とお」がつく名前ってカッコよくないですか?
安倍貞任とか拝一刀とか。
土屋は平塚市の西の端一帯。
秦野市、中井町、二宮町、大磯町に面し歴史と自然が残る静かな里山です。
中村党宗家のある中井町五所八幡宮からは直線距離で5キロメートルほど。近いですね。
狼煙上げるより走った方が早いかも。
上の地図は平塚市土屋ささりんどうクラブのもの。
ささりんどうクラブによる土屋郷土研究は驚くほど詳細で情報量が多く、他の資料がほとんど必要ないほどでとても助かってます。
読み物としても楽しいです。
(以下幾つかの画像をささりんどうクラブさんからお借りしてます)
ささりんどうクラブの土屋郷土史は平塚市図書館のデジタルアーカイブでも閲覧できます。
これもありがたい。
今回は土屋氏に関わる大乗院、土屋城跡、土屋一族の墓、熊野神社
という狭い範囲の初秋プチフィールドワーク。
大乗院境内入口
平安時代に開かれ土屋宗遠が堂宇を再建したと伝わる寺。
大乗院は江戸時代までは末寺が25寺、境内にはいくつかの小院がありなかなかの規模だったようです。
図中の参道は現在でも住宅の間に残っています。
大乗院前の路地を南へ。
墓地をまわったこのあたりが土屋城址といわれてます。
道の分岐点に案内板が立ってます。
鎌倉時代の城は館と変わらない質素なものなので
土屋城と言うと少々大袈裟な感じがしますね。
城址の丁寧な説明と
金槐和歌集から土屋宗遠に関連すると思われる歌。
城址説明板を左手に。
このあたりは関東ふれあいの道「鷹取山・里のみち」の一部になってます。
土屋一族の墓の説明板その他。
全国の土屋さんの祖がこの土屋一族です。
墓はここからもう少し左手に下ります。
こちらにも実朝の歌
年老いた宗遠がたびたび鎌倉を訪問したことを歌ったといわれてます。
平成25年のまだ新しい石碑ですね。
地元の方々の歴史保存に対する熱意を感じます。
天皇陛下が皇太子時代にこの地を訪れた記念の植樹
陛下が植樹されたのはイチョウだそうですが、どれだかわからなかったです。今もあるのでしょうか?
素晴らしい内容。さすが土屋です。
私が追記すること何もありません。
土屋一族の墓
新編相模國風土記稿には
「古碑一基 土屋三郎宗遠の墓碑と云う」
とありますが五輪塔や板碑など20基以上見られます。
館跡と伝わるこの地、字大庭が昭和のはじめに開墾された際に散財していた五輪塔がここに集められたようです。
刻字が読めるものはないようですし、これらが土屋一族の墓であるという確証はありませんが。
墓の前に広がる館跡
館跡から一族の墓方向を見る
土屋城址の説明板に戻り、
牢屋敷などがあったと伝わる大乗院裏を通った先の木村植物園に寄りました。
ドッグランやカフェもある規模の大きいガーデンショップです。
庭に関することならなんでも揃ってて見てるだけで楽しいお店でした。
木村植物園を出て熊野神社のある通りへ
熊野神社
宗遠が平家追討の帰路に紀州熊野権現に詣で、御神体を蓑で包んで持ち帰り勧請。
守護役として現地の武士蓑島氏を土屋に招き、現在でも神社の周囲には蓑島姓が多いです。
蓑島氏が蓑で包んで持ち帰った
という早口言葉みたいな解釈でOKかな?
足場かかってて見えづらいですがここにも説明板
土屋氏は中村党の中では土肥氏と並んで吾妻鏡などの史料に記述が多く
その動向が比較的よく知られている一族です。
源頼朝の旗上げから鎌倉幕府成立に一族をあげて協力し、
和田合戦で養子義清が和田方について討たれたり、宗遠がとつぜん梶原家茂(梶原景時の孫)を◯してしまったり、
血の気が多くていろいろマズいこともありましたが幕府内で重要なポジションを保ち続けました。
鎌倉幕府滅亡後は明徳の乱や上杉禅秀の乱などで大きなダメージを受け、一族は土屋の地を追われます。
そのためこの地には土屋姓がほとんど残っていません。
土屋を追われた一族は甲斐や伊豆に逃れ、やがて全国に土屋姓が広がりました。
武田二十四将に子孫土屋昌続が名を連ねているのは有名です。