絵じゃないかおじさん

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ピカ輪世代です。
(傘;傘;)←かさかさ、しわしわ、よれよれまーくです。

あ@えっせい「水取り」  五体投地について   099

2019-02-06 08:20:09 | つぶつぶ

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  * 五体投地について (099)

  「
     走りの行法の途中、


     五体投地(ごたいとうち)とは、

    「五体板(ごたいいた)」
     とよばれる板にむかい、
     体をなげつける、こと。
  」

    《 司馬遼太郎著 「街道をゆく 24」を参考にする 》

   
     身体を痛めつけて、
     何か意味があるの
     だろうか?
   
     今の時代、
     投げつけなくとも、
     十分ではないのでは、
     と思うことしきりである。


     イスラム教徒の
     巡礼などを、 
     時折テレビなどで
     拝見するが、
     延々と続いている、
     あの大地に、
     ベタっと、身をまかせるような、 
     五体投地も、
     迫力あるものである。


おわり


あ@えっせい「水取り」 過去帳の「聖母皇太后宮」② 098

2019-02-06 08:17:13 | つぶつぶ


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  * 過去帳の「聖母皇太后宮」②について  (098)



    過去帳読み上げ、No.2の
   「聖母皇太后宮」②は、
    清姫伝説で有名な道成寺と
    関係の深い女性とのことである。
 
  
    「聖母皇太后宮」②
      と、
    「光明皇后」③
      とは、
     藤原不比等の娘として、
     姉と妹の関係にもあたるようです。


    宮(子姫)の伝説が、
   「絵説き」として、道成寺には残って
    いるようです。


宮子は、
   「かみなが姫」と呼ばれる
    類稀れな美貌の持ち主であった。
    その美貌によって藤原不比等の
    養女となり、文武帝の夫人と
    なったのである。

   (梅原猛「海人と天皇」、行換え等、筆者)

  」


    宮(子)は文武帝の子を産み、
     過去帳で聖母とあるように、
     その子が聖武天皇である。

  「
    海人の娘が宮廷に入り、
    後に天皇の夫人となり、皇子を生む。

    そしてその皇子が皇太子となり、
    やがて天皇となる。

    海人の娘が一躍して国母となったのである。
    しかし宮中の暮らしになじめぬ宮子は、
    しきりに故郷を恋しがる。

    特に雨の日はやるせない。

    故郷に残した観音さまがどうして
    いらっしゃるか気がかりで仕方がない。
    それで彼女の憂愁を慰めるために一宇を
    建てたという。

    ・・・・・・・・
    彼女にも、もちろん、都の貴族への憧れは
    あったに違いない。そういう憧れもあって、
    彼女は勧められるままに、紀竈門娘の
    侍女として宮中に入った。

    やがて文武帝の夫人となり、その子を生んだ。
    ・・・・・・・・
    しかし、海人の娘・宮子は、この突然の環境の
    変化に戸惑うばかりであった。

    彼女を取り巻く環境は全く彼女にとって
    異邦人の世界であり、おそらく言葉も十分に
    通じなかったに違いない。

    そこで彼女が深い憂愁に沈み、我が子、
    首皇子を初めとするすべての外野との
    接触を断ったのも無理ないのである。
   」

      (梅原猛「海人と天皇」、行換え等、筆者)

    
-----------------------------------------------------------

・ ノート 「道成寺」について


  参考文献
   須藤一著「西国・新西国札所めぐり」(創元社)
   梅原猛著「海人と天皇・上」(朝日新聞社)
   「昭文社のレジャーガイド」(昭文社)
   道成寺パンフレット
   速水侑著「観音信仰」(塙書房)
   多川俊映著「唯識十章」(春秋社)
   ひろさちや著「仏教入門」(池田書店)
   花山勝友著「仏像のすべて」(PHP研究所)


道成寺は、不思議な物語を持つ寺である。本尊は、二体の千手観音であり、本堂内に北向きと南向けに設置されている。寺は、和歌山県の日高郡にある。国道42号線を白浜の方に向かって走り、紀勢本線沿いに御坊駅方面に左に曲がり、道成寺駅の手前を北に300mほど進んだ所である。


国道42号線からは、約4kmの距離である。白浜温泉は、約60km先にある。地名は、鐘巻(かねまき)、清姫が安珍の隠れた鐘を3巻きした所から来ていると言われている。この寺には、物語が多い。その中でも、有名な二つの話が観音信仰に対して、相矛盾しているのである。これは、一体どういう所から来ているのであろうか?


私は、40才を少し越えた平凡な会社員である。会社は、大阪にあり、住居は奈良県にある。通勤に要する時間は、往復で2時間半ぐらいだろうか。仕事は、繊維関係の会社で事務をとっている。趣味は、これと言って取り立てて言うべきものはない。会社も週休2日制が定着し、確実に土・日は休めるようになった。子供も中学生ともなれば、私に何処かに連れて行ってくれなどとは言わなくなってきた。


ということは、時間を持て余すことになる。私は、無目的に時間を過ごすのは、余り好きではない。かといって、四六時中、ある一つの目的を持って努力するなどという生活にも馴染めない。付かず離れず、アバウト人間の姿勢で刻と付き合っていると言えば、当たっているのだろう。こんな生活態度は不真面目でも、真面目でもない、と思っている。


ほどほどが、私には合っているのだろうしかし、これはあくまでも、私が私に下した結論である。妻には、そんな私でも凝り性に見えるようである。人間とは、わけのわからない生き物である。心は、己のものであると思ってはいるが、その己のものでさえも、心の中は十分には把握し得ないでいる。自分でもわからないものが、他人にわかろうはずがない。妻といえども同じことであるのあろう。


妻は、あまり物事に執着しないタイプである。そういうタイプの人間から見れば、私のような人間は執着人間の部類に入るようである。そう思われている本人自身が、自分はあっさり人間だと断定しているのだから、これはもう滑稽でさえあろう。しかし、それはそれでいいのではないかと思う。違いは違いとして、捉えていれば、十分であるのではないのだろうか。


私は、道成寺の清姫ような情熱的な生き方が好きである。私の理想の女性の一人だと思っている。


何故、清姫に興味を抱いたのかと言えば、現代のような女性の軽々しい生き方が、私を清姫に追い込んでいったというのが適切であろう。



妻も子供もある中年男が、現代の若い女性の生き方を見て、口を出す必要性などは皆無であろう。どう生きようが、好き勝手にやってくれと達観した境地に立てばいいのだろうが、そういうわけにもいかないのである。



女性が、男性を軽々しく扱い、男性も同様に、女性を渡り歩くような生き方をしている。己には、もう関係ないことなのだから、そ知らぬ顔して見過ごせば、いいのかもしれない。



しかし、黙って見過ごせば、そういう風潮を容認したことにもなる。


私にはそれが大いに不満なのである。


自己主張もしてみたい。



清姫に執着したと言ってもかまわないだろう。とにかく、清姫の生き方を考えてみたいと思うようになったのである。そういう事情から、暇な土曜日を、清姫のために使うことにしたのである。



 清姫のことを調べていて、道成寺が変わった寺であるということが、わかってきたのである。そうして、疑問は、疑問を呼んでいった。


 * 天音山 道成寺


道成寺には、天音山という山号がついている。

この山号というのは、仏教が、インドから北方ルートで中国に入った時につけられるようになったということである。山中に寺を建て、その山名が寺の上に冠せられているようである。


飛鳥時代創建の法隆寺には、山名をつけていない。山中に寺が盛んに作られるようになった平安時代頃から、つけられるようになり、その後は平地に建てられる寺にまでつけられるようになったそうである。


西国33ヵ所、第5番「紫雲山 葛井寺(ふじいでら)」、同第18番「紫雲山 頂法寺」などの例である。


道成寺の仁王門下の道路は狭い。普通車が対向しかねている。道路脇には、数軒の土産物屋があり名物の釣鐘饅頭などを売っている。比較的歩きやすい62段の石段を登ると、朱塗りの剥げかかった仁王門があり、門の左手には、文武天皇勅願所の石碑が立っている。


この寺は、新西国第5番となっている。新西国33ヵ所の選定は、昭和7年に三都新聞連合が提唱して委員会を設け、この委員会が決めたということである。


西国33ヵ所から漏れている観音さんの名刹を、近畿二府四県から選びだし、新巡礼コースとして設定したということである。


西国33ヵ所と言えば、第1番の「那智山 青岸渡寺」から、第2番の「紀三井山 金剛宝寺」までは、201kmもある。西国巡礼の順巡りでは、寺と寺との間の距離が一番離れているのである。


人が歩く距離は、現代風に直せば、1分間80m~100mが妥当な線であろう。1時間に約6km、1日10時間歩き続けて60kmである。


この道成寺を、第2番に持ってくれば、少しは巡り易かったのではないのだろうか? 道成寺は本尊が千手観音であり、文武天皇勅願の寺でもある。西国巡礼の寺に組み込まれても、十分おかしくない寺である。この寺がはずされた理由は、一体何だったのだろうか?

 
                        
    この項おわり

あ@えっせい「水取り」 の静かな情景、今いずこ   097

2019-02-06 08:15:09 | つぶつぶ


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  * 「水取り」 の静かな情景、今いずこ (097)


  「
    私が東大寺を訪ねたころは、
    世が荒れていて、
    修二会といっても、
    講中の信心ぶかい老人が
    堂内に入って格子のむこうの
    行法を拝観している程度だった。
    それでも、私どもをふくめて
    十余人ほどの野次馬がいた。
   」
    《 司馬遼太郎著 「街道をゆく 24」、行換え等筆者 》



     だったそうです。

昭和20年代らしいのですが、
     詳しい年が書かれてないので、
     残念ですが、
     そんな時代も、過去には、
     たびたびあったのでしょうか?

 
    《 司馬遼太郎著 「街道をゆく 24」、行換え等筆者 》

    

                       
       おわり


あ@えっせい「水取り」 過去帳に戒名は無い  096

2019-02-06 08:13:10 | つぶつぶ

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  * 過去帳に戒名は無い (096)


  「
    (過去帳では)
    俗人はすべて俗名である。
    これは、仏教本来のもので、
    まことにすがすがしい。

    戒名などというばかばかしいものは、
    聖武皇帝も多羅多房も頼朝も
    ついていないのである。
     
    死者に戒名をつけるなどという
    奇習がはじまったのはほんの
    近世になってからである。

    インド仏教にも中国仏教にも
    そんな形式も思想もない。
   
     ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

    
     戒名がさほどの歴史性もなく、
     仏教の教義にも関係がないというのは、
     わが国最古の過去帳をもつ
     修二会がそれを証明している。

    」
 
       
    《 司馬遼太郎著 「街道をゆく 24」、行換え等筆者 》


     司馬さんも、 
     戒名なるものを着せられて
     いるようですが・・・・・・・・


     過去帳の
     筆頭、
    「大伽藍本願聖武帝王」にも、
     法名なるものが、
     与えられているそうですが、
     歴史的には、
     どんな意味があったのでしょうか。
 


                          
    おわり



あ@えっせい「水取り」 過去帳の読み上げ  095

2019-02-06 08:11:11 | つぶつぶ

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           東大寺情報等より、
           編集、加工など。




  * 過去帳の読み上げ  (095)


    修二会十四間の内、5日目と12日目の
    それぞれの初夜の終りに、
    「過去帳」が読み上げられる。

     165万5071人(1988年ころ) 誦せられると
     あるが、

     手元にある、
     「東大寺修二会行事次第時刻表」によると、
     大導師作法(過去帳)としては、
     21時から22時までの
     2時間しかない。
 
 
     秒数にして、
     60秒x60分x2時間=7200秒
     である。


     どのようにして、
     165万5071人もの人を
     読みあげるのか、
     神ワザものであろう。


    「東大寺上院(じょういん) 修中(しゅちゅう) 過去帳」

    過去帳には、
    東大寺の創建、再建、運営その他において縁のふかかった
    ひとたちの名が記帳されており、その名の列は、
    天平のむかしにはじまり、現代にいたる。


    筆頭、
   「大伽藍本願聖武帝王」①
    次に、
   「聖母皇太后宮」②
    次、
   「光明皇后」③
    次、
   「行基菩薩」④
    次、
   「本願孝謙天皇」⑤

   

    修二会十四間の内、5日目と12日目。
    
     ①  3/ 1
     ②  3/ 2
     ③  3/ 3
     ④  3/ 4
     ⑤  3/ 5  過去帳の読み上げ    
    
     ⑥  3/ 6
     ⑦  3/ 7
     ⑧  3/ 8
     ⑨  3/ 9
     ⑩  3/10  

     ⑪  3/11
     ⑫  3/12  過去帳の読み上げ  
     ⑬  3/13
     ⑭  3/14


           《 司馬遼太郎著 「街道をゆく 24」を参考にして 》


                      
        おわり