その8からのつづき、長話ですみません。
いまから30年も前の話である。
ソニー系の制作部門に入社して1年が経った頃、
ようやく回ってきた制作物・第1回監督作品の
大協石油(現コスモ石油)の教育ビデオ
「ガソリンスタンドでのサービスマニュアル」により
若干23歳の社内評価は高まり、
私のもとには様々な制作物依頼が舞い込んだ。
勢いでできる仕事もあるが、自分の技量を超える仕事もある。
技量越え第1作目が立石電気(OMRON)の研究所紹介ビデオだった。
苦悩する私の姿を見かねたのか、はたまた売上に響くと考えたのか
営業部長が、同じソニー系の編集スタジオ「ソニーPCL」の
大阪営業所・副所長だった安達 弘太郎氏を紹介してくれた。
安達さんは、この部長から以前にも私の話を聞きおよび
興味を持っていてくれたらしく、立石電気(OMRON)の
研究所紹介ビデオの監督には、50歳位?の山崎 佑次氏と
47歳の牧 逸郎カメラマンをセットで紹介してくれた。
実は牧カメラマンとは始めての出会いではなかった。
牧さんは、記録映画の老舗「日本映画新社」でカメラを回す一方で、
1979年、先輩の福島 洋カメラマンのセカンドとして
劇団日本維新派の舞台「足の裏から冥王まで」の記録映像を
井筒 和幸監督で撮影した。
座長の松本 雄吉氏がイメージした世界は超難解で、牧さんによると
「福島さんはノイローゼになるくらい悩んでしまい
牧ちゃん、撮影は任せた」と撮影途中で放り投げたらしい。
これが縁で、牧さんは井筒監督と結託し、
維新派座員の池内 琢磨さんや高橋 章代さんを使って
『暴行魔真珠責め』(1979)を撮り、立て続けに
『ガキ帝国』(1981)『ガキ帝国悪たれ戦争』(1981)を撮った。
大学生の頃、今では我が社の社員である同級生の妹尾の頼みで、
「高校の同級生の田沢に頼まれた」と舞台『足の裏から冥王まで』の
裏方の手伝いをするよう頼まれた。
早速向った天王寺の野外音楽堂では、発砲スチロールを削って雪を作ったり、
滝と称して、一升瓶から水をガブ飲みして一気に吐き出す
パフォーマンスに明け暮れていた。
舞台が終わるとメインスタッフと私たちはマイクロバスに乗って
大阪中のストリップ劇場を回った。
松本氏と高橋 章代さんのストリップショーでお金を稼いでは、
野外音楽堂での夢の舞台につぎ込むという自転車操業だった。
そんな関係で牧さんとは天王寺野外音楽堂で
お互い仁義を切ることもなく、同じ時を持ち、
松本氏の難解さに毎夜、頭を痛めた仲だったのだ。
さてOMRON研究所紹介ビデオであるが、
山崎 佑次監督は、20歳以上年下の私にとって
その年齢ギャップはいうまでもなく、
経験を積み上げた思考は未熟な私にとって難解だった。
何よりも人相からして怖かった。
また牧カメラマンは、恐怖の谷岡さん同様の丸刈りに近い短髪で、
恐怖の谷岡さん以上に酒が強く、発言は過激であった。
「ガキ帝国」では、出演者の北野 誠氏の態度に対し怒った牧さんが
ビール瓶を持って追いかけ回しシバキ倒したと、伝説になっていた。
その牧さんのカメラワークだが、未熟な私には、
うまいのか下手なのか、全くわからなかった。
少なくともパンとズームはぎこちなく
山崎監督は「それが牧の味やな」と言っていた。
その意味がわかったのは、それから10年以上も経ってからだった。
その牧さんが研究所の外観撮影には苦労していた。
「まだか?牧ちゃん」と急かす山崎監督をしり目に、
牧さんはポジション取りに時間をかけた。
後日、牧さんと飲み、この時の事を話したが、
「OMRONの社員の誰も見た事のないような建物のカットを撮りたいんや。
『俺の会社、こんなカッコよかったんか』って驚かせたいんや」
と、47歳のオッサンが熱く語るのである。
「アカン、完全に知恵熱や。子供やんけ」と思っても
若干23歳の私には言えなかった。
この現場にはもう一人、
知恵熱にうなされるオッちゃんがスタッフに加わっていた。
照明技師の高田さんである。バス運転手を経て、杉山照明に入り、
苦労して照明技師になったという経歴の持ち主で、
牧さんのお気に入りである。
その高田さん。
研究所のクリーンルームでは、入室者は防塵服に着替え、
持ち物はナシ。最後にエアシャワーを浴びて
ホコリを取り除き、入室するのが掟である。
ホコリが入るとクリーンルーム内で作る半導体が売り物にならない。
メモ用紙や鉛筆もクリーンルーム用のホコリの出ない特製を使う。
それほどホコリに対してデリケートな場所なのだ。
「入室者は最小限に!」という技術責任者の注意で
牧さんとVEの2名が入ることに。
撮影機材も入念に拭いてホコリを取った。
しかし、なぜか高田さんも防塵服に着替えている。
ライトは持ち込めないので入室してもしかたないし、
入室者は「2人」と申告してOKをもらっている。
なのに…すでに着替えて、スルリとエアシャワーを浴び入室している。
ガラス窓越しにクリーンルーム内での撮影をスタッフは凝視する。
と、高田さん。
胸のチャックを降ろして、小さな銀レフを取り出すではないか。
どうやら半導体のチップにレフのテカリを入れているようなのだ。
「ありえない」
あれほどホコリは厳禁と言われていたのに、使いこんで傷だらけのレフを
カメラの対面からホコリをまきちらしながら?ライティングしている。
「ありえない」
高田さんは、外観の撮影でも牧さんに横にくっついている。
ライトが必要なくても、牧さんの突然のオーダーにこたえられるよう、
ロケ中はいつも横にくっついている。
休憩時も牧さんの横にいる。昼食時も横にいて耳をそばだてている。
だが仕事が終われば、翌日のロケに備えてトットと帰る。
たいした方である。
山崎監督は、その厳つい顔に似合わず、ミニチュアのロボットや
積み木を使って、研究のプロセスを見事に表現した。
OMRONからも高い評価を得て、追加費用もチャンと支払ってくれた。
制作費は500万円を超えたが、利益もしっかり上げる事ができ、
山崎監督や牧カメラマンにも十分なギャラが支払え、
私は、「若いがなかなかやるプロデューサー」として評価された。
仕事がしやすいよう環境を整理するのがプロデューサーの仕事であるが
スタッフの評価は、概して最後に行なう支払額(ギャラ)と支払い方で
ガラリと変わる。
また、昼飯のタイミングや夜のお疲れ会などで気分良く盛り上がれば、
ロケ現場の多少の不手際は、オシッコと一緒にトイレに流して、
また次の依頼を楽しみに待ってくれる。
山崎監督も映画渡世人としての仁義で、
「お礼」にと、PLの花火見物に誘ってくれた。
PL関係者をどう丸めこんだのかわからないが、芝生に寝転んで、
目に降りかかるような花火を見た。
後にも先にも、こんな迫力のある花火は見たことがない。
ビールを飲みながらの花火見物にご満悦の山崎監督。
この人もいまだ知恵熱にうかされている。
花火見物の後、ミナミからキタへと「市中引き回しの刑」が
山崎監督から私に宣告されたのは言うまでもない。
業界人とはそういうものなのだ。
いまから30年も前の話である。
ソニー系の制作部門に入社して1年が経った頃、
ようやく回ってきた制作物・第1回監督作品の
大協石油(現コスモ石油)の教育ビデオ
「ガソリンスタンドでのサービスマニュアル」により
若干23歳の社内評価は高まり、
私のもとには様々な制作物依頼が舞い込んだ。
勢いでできる仕事もあるが、自分の技量を超える仕事もある。
技量越え第1作目が立石電気(OMRON)の研究所紹介ビデオだった。
苦悩する私の姿を見かねたのか、はたまた売上に響くと考えたのか
営業部長が、同じソニー系の編集スタジオ「ソニーPCL」の
大阪営業所・副所長だった安達 弘太郎氏を紹介してくれた。
安達さんは、この部長から以前にも私の話を聞きおよび
興味を持っていてくれたらしく、立石電気(OMRON)の
研究所紹介ビデオの監督には、50歳位?の山崎 佑次氏と
47歳の牧 逸郎カメラマンをセットで紹介してくれた。
実は牧カメラマンとは始めての出会いではなかった。
牧さんは、記録映画の老舗「日本映画新社」でカメラを回す一方で、
1979年、先輩の福島 洋カメラマンのセカンドとして
劇団日本維新派の舞台「足の裏から冥王まで」の記録映像を
井筒 和幸監督で撮影した。
座長の松本 雄吉氏がイメージした世界は超難解で、牧さんによると
「福島さんはノイローゼになるくらい悩んでしまい
牧ちゃん、撮影は任せた」と撮影途中で放り投げたらしい。
これが縁で、牧さんは井筒監督と結託し、
維新派座員の池内 琢磨さんや高橋 章代さんを使って
『暴行魔真珠責め』(1979)を撮り、立て続けに
『ガキ帝国』(1981)『ガキ帝国悪たれ戦争』(1981)を撮った。
大学生の頃、今では我が社の社員である同級生の妹尾の頼みで、
「高校の同級生の田沢に頼まれた」と舞台『足の裏から冥王まで』の
裏方の手伝いをするよう頼まれた。
早速向った天王寺の野外音楽堂では、発砲スチロールを削って雪を作ったり、
滝と称して、一升瓶から水をガブ飲みして一気に吐き出す
パフォーマンスに明け暮れていた。
舞台が終わるとメインスタッフと私たちはマイクロバスに乗って
大阪中のストリップ劇場を回った。
松本氏と高橋 章代さんのストリップショーでお金を稼いでは、
野外音楽堂での夢の舞台につぎ込むという自転車操業だった。
そんな関係で牧さんとは天王寺野外音楽堂で
お互い仁義を切ることもなく、同じ時を持ち、
松本氏の難解さに毎夜、頭を痛めた仲だったのだ。
さてOMRON研究所紹介ビデオであるが、
山崎 佑次監督は、20歳以上年下の私にとって
その年齢ギャップはいうまでもなく、
経験を積み上げた思考は未熟な私にとって難解だった。
何よりも人相からして怖かった。
また牧カメラマンは、恐怖の谷岡さん同様の丸刈りに近い短髪で、
恐怖の谷岡さん以上に酒が強く、発言は過激であった。
「ガキ帝国」では、出演者の北野 誠氏の態度に対し怒った牧さんが
ビール瓶を持って追いかけ回しシバキ倒したと、伝説になっていた。
その牧さんのカメラワークだが、未熟な私には、
うまいのか下手なのか、全くわからなかった。
少なくともパンとズームはぎこちなく
山崎監督は「それが牧の味やな」と言っていた。
その意味がわかったのは、それから10年以上も経ってからだった。
その牧さんが研究所の外観撮影には苦労していた。
「まだか?牧ちゃん」と急かす山崎監督をしり目に、
牧さんはポジション取りに時間をかけた。
後日、牧さんと飲み、この時の事を話したが、
「OMRONの社員の誰も見た事のないような建物のカットを撮りたいんや。
『俺の会社、こんなカッコよかったんか』って驚かせたいんや」
と、47歳のオッサンが熱く語るのである。
「アカン、完全に知恵熱や。子供やんけ」と思っても
若干23歳の私には言えなかった。
この現場にはもう一人、
知恵熱にうなされるオッちゃんがスタッフに加わっていた。
照明技師の高田さんである。バス運転手を経て、杉山照明に入り、
苦労して照明技師になったという経歴の持ち主で、
牧さんのお気に入りである。
その高田さん。
研究所のクリーンルームでは、入室者は防塵服に着替え、
持ち物はナシ。最後にエアシャワーを浴びて
ホコリを取り除き、入室するのが掟である。
ホコリが入るとクリーンルーム内で作る半導体が売り物にならない。
メモ用紙や鉛筆もクリーンルーム用のホコリの出ない特製を使う。
それほどホコリに対してデリケートな場所なのだ。
「入室者は最小限に!」という技術責任者の注意で
牧さんとVEの2名が入ることに。
撮影機材も入念に拭いてホコリを取った。
しかし、なぜか高田さんも防塵服に着替えている。
ライトは持ち込めないので入室してもしかたないし、
入室者は「2人」と申告してOKをもらっている。
なのに…すでに着替えて、スルリとエアシャワーを浴び入室している。
ガラス窓越しにクリーンルーム内での撮影をスタッフは凝視する。
と、高田さん。
胸のチャックを降ろして、小さな銀レフを取り出すではないか。
どうやら半導体のチップにレフのテカリを入れているようなのだ。
「ありえない」
あれほどホコリは厳禁と言われていたのに、使いこんで傷だらけのレフを
カメラの対面からホコリをまきちらしながら?ライティングしている。
「ありえない」
高田さんは、外観の撮影でも牧さんに横にくっついている。
ライトが必要なくても、牧さんの突然のオーダーにこたえられるよう、
ロケ中はいつも横にくっついている。
休憩時も牧さんの横にいる。昼食時も横にいて耳をそばだてている。
だが仕事が終われば、翌日のロケに備えてトットと帰る。
たいした方である。
山崎監督は、その厳つい顔に似合わず、ミニチュアのロボットや
積み木を使って、研究のプロセスを見事に表現した。
OMRONからも高い評価を得て、追加費用もチャンと支払ってくれた。
制作費は500万円を超えたが、利益もしっかり上げる事ができ、
山崎監督や牧カメラマンにも十分なギャラが支払え、
私は、「若いがなかなかやるプロデューサー」として評価された。
仕事がしやすいよう環境を整理するのがプロデューサーの仕事であるが
スタッフの評価は、概して最後に行なう支払額(ギャラ)と支払い方で
ガラリと変わる。
また、昼飯のタイミングや夜のお疲れ会などで気分良く盛り上がれば、
ロケ現場の多少の不手際は、オシッコと一緒にトイレに流して、
また次の依頼を楽しみに待ってくれる。
山崎監督も映画渡世人としての仁義で、
「お礼」にと、PLの花火見物に誘ってくれた。
PL関係者をどう丸めこんだのかわからないが、芝生に寝転んで、
目に降りかかるような花火を見た。
後にも先にも、こんな迫力のある花火は見たことがない。
ビールを飲みながらの花火見物にご満悦の山崎監督。
この人もいまだ知恵熱にうかされている。
花火見物の後、ミナミからキタへと「市中引き回しの刑」が
山崎監督から私に宣告されたのは言うまでもない。
業界人とはそういうものなのだ。
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