子どものころに思っていた「大人」というものは、確固たる地位があり、絶対的なものであり、頼りになるものであり、強いものであると思っていた。
いざ自分が「大人」と呼ばれる年齢になったら、そんな思いはどっか行ってしまった。
確固たる地位もなければ、絶対的なものでもないし、頼りにはならないし、強くもない。
一体なんだったんだろうな。
子どものころに思っていた「大人」というものは。
「大人」と呼ばれる年齢になってからも、わからねえことだらけだ。
毎日追われてるような気がしているが、ちゃんと生きてるような気もする。
今の自分には、何のために生きているのか、明確な理由はない。
ただ存在するのは、自由に動かせる肢体と、この脳だ。
何かに必死になって生きている人には、明確な理由、或いは目標があるんだろうな。
夢を持っている子どもたちは、何の疑いもなく、それが叶うと思っていて、そんな毎日が楽しいのだろうな。
大人になって、ある程度世の中のことを知り、現実を目の当たりにして、夢がどれほど稚拙であったのかを知った。
子どもが思い描く夢だから、稚拙で当たり前なんだが。
大人になって、あきらめることが多くなったような気がする。
大小様々。
まあ、それでも、やれることはやっとかないとね。
今はそう思ってる。
「今の自分が誰かに必要とされているのか?」
とか考えると、苦しくなりそうだけど、そのへんは妙に冷めた答えが出てくる。
「誰かに必要とされていなくても、ここに生きてる。」
冷めた答えだけど、実際、ここに、今、生きてるから。
誰かのために生きてた時もあったけど、今は違うな。
多分、自分のために生きてるんだな。
一生をかけてやれることがあるとすれば、まずは一生かけて生きてやろう。
それが今できる最大限の努力だ。
そして、亡くなったものへの最大限の手向けだ。
またこの胸を震わせるような出来事があったら、そんときは喜ぼう。
どうしても許せない出来事があったら、そんときは怒ろう。
涙も出ないくらいの悲しい出来事があったら、そんときは哀しもう。
仕事精一杯頑張って、週末に友人らと飲む機会があったら、そんときは楽しもう。
どこまでも響けよ、この命よ。