ちょっと哲学者の本などを読んでいると、
「幸福とは、ないものねだりか。」
と思った。
人生をうまくいっている人を見て、
「いいなぁ」
と思うけど、実はその人も人生うまくいってなかったりする。
小学生の時に、お小遣いで1000円もらうと、とんでもなくハッピーだった。
中学、高校、大学となってから、1000円もらっても、あんなに喜ぶことはない。
仮に、今、1億円持っていたら、仕事辞めて、退屈しのぎを必死に探して、それをほとんどやってしまって、精神的に枯渇するだろう。
もしくはさらに増やそうとして、失敗して、逆にマイナスになっていたりして…。
「物で栄えて心で滅ぶ」
あと◯◯kg痩せたいと思っていても、実際その体重になったら、それを維持する努力をするだろうか。
人間ドックで、「異常なし!」と結果が出ても、今度はそれ以降、異常が出るのが不安になるだろう。
どんなに人生真面目に生きていても、ある日突然、事故や病気に遭遇することもある。
とどのつまり、生きていたら、どんな状態であれ、不安と欲に襲われ、完璧な安心安全というものは得られないということなんだろうな。
逆をいえば、それらを得られるように、日々過ごしているのかもしれない。
よく考えた「生死」の問題も、生きているということは、死んでいないというだけで、深く考えたところで、そのロジックからは抜け出せなくなる。
「今、生きているなら、それはまだ死ぬ時じゃないんだな」
ということなんだろう。
京都の龍安寺に行った時に、つくばいがあったのを思い出した。
つくばいとは、縁側近くの庭に備えてある手水鉢(ちょうずばち)である。
そこにはこう記されてあった。
吾唯足知
(※行った時の写真)
吾唯足るを知る。(われ、ただ、たるを、しる)
「だれもが自らの内に全てを持っていることを知るべきだ」
なんか似たような教えが出てきた。
禅の教えらしいです。
哲学者のショーペンハウアーさんはこう記してします。
「富は海の水に似ている。飲めば飲むほど、喉が渇く」
つまり、欲はキリがない。
今日は仕事疲れたなぁと思いつつも、仕事をして、暮らせるお給料もらって、たまに友人らと飲んで、ストレス発散して、また月曜日には仕事へ行く。
このサイクルは、うまくできているのではないのかなと思いました。
生きていく中でいろんな問題に直面する。
私は今39歳で寡夫で独身なわけですが、Facebookなどで旧友、大学友人らを見ると、子どもがもう中学生とかで、
「あぁ、みんな幸せなんだなぁ。俺にもそういうことがあったのかもなぁ。」
とか思ってみることが多々あるんですが、じゃあ今の自分が不幸かと思うと、結構自由で、その自由を満喫している自分もいる。
ないものねだり。
結婚していれば…子どもがいれば…
それもひとつの幸せの形なのだろう。
でも、雲のように、自由きままで生きている自分も、ひとつの幸せなんじゃないかなぁと思ってみたりするわけです。
ブッダの言葉に、
「孤独に歩め 悪を成さず 求めるところは少なく 林の中の象のように」
という言葉があります。以下にわかりやすい解説があるので、引用します。
教えてgooより以下引用
言葉の前には
「もしも思慮深く聡明でまじめな生活をしている人を伴侶として共に歩むことができるならば、ともに歩め」
「それができないならば、愚かな者を道伴れとはするな。国を捨てた国王のように、また林の中の象のように、ひとり歩め」
という文があります。
これを意訳すると
「お互いに助け合ったり、切磋琢磨できる人物がそばにいるならその人と一緒に高みを目指せばいい」
「だが、そうでない人と付き合うことは自分を堕落させることになる。だからもし、よき伴侶がそばにいないならば、国を捨てた国王のように、地位や財産や名誉など余計なものを全て捨ててしまえ。林の中に静かにたたずむ象のように、ひっそり気高く生きていけ」
ということです。
つまり「林」=世間から離れた場所の象徴であり、「象」はそこで一人で静かに生きる、つまり孤高の生き様を選んだ人の象徴的なイメージと考えるといいでしょう。
ですのでわかりやすく言うなら、
「周りの人が欲望のままに生きているからといって、あなたもそれに同調してはいけない。たとえ孤独になるとしても高潔な生き方をしなさい」
ということになります。
私にはそんな高尚さはありませんが、ある意味、テキトーで適当に生きているわけです、はい。