フィリピンりぱぶりっく狂笑国

フィリピンらしく
フィリピンでも
フィリピンだから

一滴の涙

2005-12-27 | フィリピン
芸能人証明

 フィリピンの芸能人であることを証明してきたものは非常に歴史が古い。旧称例4-1-9時代からあった。ブルーカード、イエローカード、全く日の目を見なかったホワイトカード、2005年3月15日省令まで削除されたARB平成7年1月、この制度がスタートした。この制度が始まった当初は23歳以下は不可、しかし過去に興行経験が2年以上あるものについてはその限りではないとした制度で、尚且つ海外雇用庁が認可したトレーニングセンター(ローカルプロモ)での一定期間のトレーニングが義務付けられた。技能と一般教養の2種目であった。どういう訳か、日本で最高峰の山は何処か?などの一般教養問題もあった。
 ブルーカード、イエローカードは、フィリピン芸能人の規制とも言われたようだ。しかし、この当事はARB制度と比較、両国間がしっかりした連係を取り合っていたようにも思われる。フィリピン芸能人が、POEAへ芸能人の資格申請を行い、発行されたカード番号が日本入国管理局にある台帳に記載が無ければ申請ができなかった。この頃には変な規制もあった。日本入国管理局は、芸能人で入国し、帰国した場合、帰国後6ヶ月を経過しなければ入国できなかった。
芸能人資格も無く、単なる出演証明書で入国していた頃のフィリピン、殆ど旅券偽装も無かった。当然、耳コピーでこれまで出来るのかとも思える技術力のあるミュージシャンが多かった。
年々増加するフィリピン芸能人が日本各地で見受けられるようになった頃、ブルーカードが。しかし当初は茶色表紙のブック式でその後名刺サイズに変更された。このカードが出回り始めた頃から、フィリピーノ芸能人終焉ストリーが始まったのかもしれない。
 この当事の招聘者は、とにかく多忙であった。現在のような1名10名との制限は全く無く常勤社員5名以上で有れば何人でも招聘できた。叉、外国人芸能人の在留資格は60間であり最長180日間であった。60日ごとに在留期間更新許可申請を行い、180日間滞在した。つまり、180日間滞在に当たり、2回の期間更新をした。その間に、招聘者はこぞってフィリピンへ芸能人募集、帰国早々期間更新、芸能人送迎等寝る時間も無いほど多忙な職業であった。
しかし、この時期から、証明の不正行為が始まった。即ち、外国人芸能人が帰国後6ヶ月間入国できない日本の入管法にたいしての対策がはじめられた。その手口は現在も行われている手段。即ち成りすまし本人である。中には「日本人のため」と称し、途轍もない高額を徴収した偽善偽装カードブローカーも出現した。当然、イエローカードになってもこのような手口はエスカレートした。言える事はこのような偽装を必ずしも日本人が関与率先したいた事は事実である。中にはフィリピンが首謀し偽装をしてきたような事も書かれている、そのような環境を作ったのは日本人かもしれない。ブルーカード、イエローカード時には未だフィリピンの芸能人代理店やローカルは会食にせよ殆ど日本人が負担、挙句の果てにかかってくる電話は全てコレクトコール等が常等手段で行われた頃である。この当事から、派遣先が多くとも芸能人が少なく、需要と供給が合わず猫の手でも必要な時期の事である。このカードに係わる様々な事には一種何が起因してそのようなことをしなくてはいけないのかと思われる日本人の散財契約傾向が見受けられた。たった300円程度の必要経費に10万円もの大金を。即ち、偽装カードや成りすましカード作成料である。
 平成平成7年ARB(Artist Record Book)即ち、2005年省令削除になった第2基準の適合性第1号 イの(1) 外国の国若しくは地方公共団体又はこれらに準ずる公私の機関が認定した資格を有すること。 の基準に準拠したカード申請が行われるようになった。当然、在留資格興行が施行された平成2年以降は更新頻度も30日から3ヶ月もしくは6ヶ月に改定された。

コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 一滴の涙 | トップ | 一滴の涙 »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

フィリピン」カテゴリの最新記事