
AAC カード ARTIST’S ACCREDITATION CERTIFICATE
出演証明書と同時に日本入管へはAACカードも一緒に提出されるようになった。しかし、余りにも偽物とわかる出演証明書が大量に流出し始めたフィリピン。中には出演証明書を発行しているフィリピン国内のクラブ代表者が支配人の悪態に、日本大使館へその出演証明書は偽物で一切関係ない。との申し立てをしたクラブもある。誰が考えても、フィリピンの首都圏にあるあの小さなクラブに300名もの芸能人が出演するだろうか。さすがフィリピン。しかし、このような耀ざまに虚偽と分かりきっていることを許可していた日本入管も変な役所である。
余りの虚偽に、重い腰を上げたのが在マニラ日本領事館である。竹田領事。この時期はとにかく査証が尽く保留処分になり不交付も続出した。当然、不交付理由は日本の官庁独特で好評はしてもらえなかった。しかし、ここはフィリピン。例え日本領事館であれ、雇用されている現地スタッフは腐るほどいる。目先に金銭がぶら下がっていればなんて事は無い。其の不交付理由くらいはいとも簡単に聞き出せてしまう。出演店証明書に信憑性が無い。これで不交付。その数は相当数であった。鬼の竹田領事といわれるほど、業界は震え上がった。時平成2年この業界がフィリピンで震え上がった時期である。
このAACカードは、今までにフィリピンが発行した芸能人証明書中一番試験が厳しいカードであったことは間違いない。
この頃は、正直フィリピン人芸能人には美人は余りいなかったようにも。但し、舞踊等の公演能力は相当のレベルであったことは間違いない。現地では、早朝から夜半遅くまであの猛烈に暑いスタジオと称する場所で、罵声を浴びながら食うものも食わずレッスン、レッスンに明け暮れていた。其のレッスン期間もかなりの長期にわたり行われ、技能力が認められ始めて試験に臨んだ。
レッスン内容はとにかく凄まじい内容で、彼女達は装ったTシャツ、ショートパンツ共全てが汗でずぶ濡れと言う表現が正しいほどビッショリと濡れ、猛烈な体臭と汗の臭いに吐き気をもよおすほど。天井や壁に申し訳程度の扇風機だけ。灼熱の太陽が照らされるフィリピンならではの暑さ。レッスンに耐え切れず夜逃げし田舎へ帰る者も続出。当然、栄養障害ともいえる食事内容で大病をしたりする者、まるで地獄絵巻を見ているようでもあった。上達が遅く周りについていけない者に対しては、コリオグラファーの罵声、暴力は当たり前。且つ上達が遅れれば、その所属先の代表者から「お前に係った経費たった今全て支払ってさっさと消えうせろ。金が無いのであれば、親呼べ。それでも払えないなら身体売って金工面しろ」このような言葉は日常茶飯事、人前であろうが容赦なく。
殆どの訓練生みたいな彼女達。住んでいる家は決して恵まれていない。タレントハウスと称した安い住宅。一部屋に20人以上、木で作った手作りの簡易2段ベットのある部屋、即ちタコ部屋である。食えば太る。したがって、朝はコーヒーもしくは水、昼は鯵をガリガリにココナッツオイルで揚げた物もしくはトヨと呼ばれるクサヤの干物みたいな乾燥魚を焼くか油で揚げたものとご飯。夜も同じような物もしくはチャプスイと言う野菜炒め程度。この当事濾過水などは与えられず、水道水に近所で売っている氷を割っていれ冷やした水程度。1日に要する費用、1名20円くらいかも。しかし、彼女達には笑顔があった、日本ドリームの夢からか・・・・・
晴れて、レッスン内容が認められ本試験に挑む。早朝から水浴、化粧をして髪を結い試験会場へ。どの顔にも猛レッスンに耐え、本試験を迎えた自信と大きな期待を胸に秘めた誇らしげな顔が。
試験場内の控室には、各代理店スタッフ、そのレッスンを指導してきたコリオグラファー等の関係者が公演内容に合わせた衣装を準備、着替えのたびに全身に汗し手助けをしながら試験に臨んでいた。
試験が終わりその試験結果が発表される。合格した瞬間、抱き合い涙し喜び合っている姿は、この頃だけだったかもしれない。当然、不合格者は、鬼のような顔つきの関係者に罵声を浴びせられ大粒の涙を流し、空を見上げていた。一つの物語がフィリピンにはあった。
しかし、執拗にも行われた現地フィリピン出演店の調査にもめげず悪態をする者が後を絶たないのはフィリピンである。AACカードの偽造が始まった。この頃の最も得意とする偽造行為。即ち、写真の入れ替えである。とある者は日本から薬剤を購入、偽造を始めた。この時期、フィリピンの代理店は今のような景気は無く、細々とした営業をしていたが、この偽造カードに目を付けた首都圏の招聘者はこぞって、偽造費を支払い、SMや首都圏マニラのモール、カラオケ、ディスコの踊り子をスカートし始め、偽造カードで本人に成りすまし日本へ入国させ始めた。
この頃のフィリピン。パスポートはフィリピンの政府とコネクションがあれば30分も有れば簡単に作れた。当然、金次第であった。フィリピンでのオーディション。100名ほど集まる程度のオーディション。本来であれば、資格所持者のみがその会場で日本人のオーディションを受けるのが当たり前。しかし、この頃からフィリピンの代理店はオーディション用募集用紙にON GOINNG と記載された未保持者が会場へ参加させはじめ、しかも、オーディションとは別に日本の招聘者と個人面談するケースが多く見受けられるようになった。しかも、そのような芸能人は全く芸歴のない美人が多く見受けられた。契約金も平成初期はダンサーで500ドル程度。しかし、このような美人偽者ダンサーは1000ドルなどの高額契約をするようになった。この頃から、首都圏東京の業者はこぞってAACカードを、高額金額を支払い偽造させ、偽者芸能人を入国させるようになった。即ち、専ら接待行為を目的に入国させ始めた時期で、オーディション会場で選ばれた女性(この頃から芸能人と言う言葉はふさわしくなくなった。)にたいし、個別面接を行い、同伴に対する報奨金、指名、ドリンクバックの報奨金、売上の悪い場合には罰則等、全く芸能人とは掛け離れた契約が堂々と行われるようになってきた。しかし、中には、しっかりとした公演のみを行う招聘者も僅かながらいた。
出演証明書と同時に日本入管へはAACカードも一緒に提出されるようになった。しかし、余りにも偽物とわかる出演証明書が大量に流出し始めたフィリピン。中には出演証明書を発行しているフィリピン国内のクラブ代表者が支配人の悪態に、日本大使館へその出演証明書は偽物で一切関係ない。との申し立てをしたクラブもある。誰が考えても、フィリピンの首都圏にあるあの小さなクラブに300名もの芸能人が出演するだろうか。さすがフィリピン。しかし、このような耀ざまに虚偽と分かりきっていることを許可していた日本入管も変な役所である。
余りの虚偽に、重い腰を上げたのが在マニラ日本領事館である。竹田領事。この時期はとにかく査証が尽く保留処分になり不交付も続出した。当然、不交付理由は日本の官庁独特で好評はしてもらえなかった。しかし、ここはフィリピン。例え日本領事館であれ、雇用されている現地スタッフは腐るほどいる。目先に金銭がぶら下がっていればなんて事は無い。其の不交付理由くらいはいとも簡単に聞き出せてしまう。出演店証明書に信憑性が無い。これで不交付。その数は相当数であった。鬼の竹田領事といわれるほど、業界は震え上がった。時平成2年この業界がフィリピンで震え上がった時期である。
このAACカードは、今までにフィリピンが発行した芸能人証明書中一番試験が厳しいカードであったことは間違いない。
この頃は、正直フィリピン人芸能人には美人は余りいなかったようにも。但し、舞踊等の公演能力は相当のレベルであったことは間違いない。現地では、早朝から夜半遅くまであの猛烈に暑いスタジオと称する場所で、罵声を浴びながら食うものも食わずレッスン、レッスンに明け暮れていた。其のレッスン期間もかなりの長期にわたり行われ、技能力が認められ始めて試験に臨んだ。
レッスン内容はとにかく凄まじい内容で、彼女達は装ったTシャツ、ショートパンツ共全てが汗でずぶ濡れと言う表現が正しいほどビッショリと濡れ、猛烈な体臭と汗の臭いに吐き気をもよおすほど。天井や壁に申し訳程度の扇風機だけ。灼熱の太陽が照らされるフィリピンならではの暑さ。レッスンに耐え切れず夜逃げし田舎へ帰る者も続出。当然、栄養障害ともいえる食事内容で大病をしたりする者、まるで地獄絵巻を見ているようでもあった。上達が遅く周りについていけない者に対しては、コリオグラファーの罵声、暴力は当たり前。且つ上達が遅れれば、その所属先の代表者から「お前に係った経費たった今全て支払ってさっさと消えうせろ。金が無いのであれば、親呼べ。それでも払えないなら身体売って金工面しろ」このような言葉は日常茶飯事、人前であろうが容赦なく。
殆どの訓練生みたいな彼女達。住んでいる家は決して恵まれていない。タレントハウスと称した安い住宅。一部屋に20人以上、木で作った手作りの簡易2段ベットのある部屋、即ちタコ部屋である。食えば太る。したがって、朝はコーヒーもしくは水、昼は鯵をガリガリにココナッツオイルで揚げた物もしくはトヨと呼ばれるクサヤの干物みたいな乾燥魚を焼くか油で揚げたものとご飯。夜も同じような物もしくはチャプスイと言う野菜炒め程度。この当事濾過水などは与えられず、水道水に近所で売っている氷を割っていれ冷やした水程度。1日に要する費用、1名20円くらいかも。しかし、彼女達には笑顔があった、日本ドリームの夢からか・・・・・
晴れて、レッスン内容が認められ本試験に挑む。早朝から水浴、化粧をして髪を結い試験会場へ。どの顔にも猛レッスンに耐え、本試験を迎えた自信と大きな期待を胸に秘めた誇らしげな顔が。
試験場内の控室には、各代理店スタッフ、そのレッスンを指導してきたコリオグラファー等の関係者が公演内容に合わせた衣装を準備、着替えのたびに全身に汗し手助けをしながら試験に臨んでいた。
試験が終わりその試験結果が発表される。合格した瞬間、抱き合い涙し喜び合っている姿は、この頃だけだったかもしれない。当然、不合格者は、鬼のような顔つきの関係者に罵声を浴びせられ大粒の涙を流し、空を見上げていた。一つの物語がフィリピンにはあった。
しかし、執拗にも行われた現地フィリピン出演店の調査にもめげず悪態をする者が後を絶たないのはフィリピンである。AACカードの偽造が始まった。この頃の最も得意とする偽造行為。即ち、写真の入れ替えである。とある者は日本から薬剤を購入、偽造を始めた。この時期、フィリピンの代理店は今のような景気は無く、細々とした営業をしていたが、この偽造カードに目を付けた首都圏の招聘者はこぞって、偽造費を支払い、SMや首都圏マニラのモール、カラオケ、ディスコの踊り子をスカートし始め、偽造カードで本人に成りすまし日本へ入国させ始めた。
この頃のフィリピン。パスポートはフィリピンの政府とコネクションがあれば30分も有れば簡単に作れた。当然、金次第であった。フィリピンでのオーディション。100名ほど集まる程度のオーディション。本来であれば、資格所持者のみがその会場で日本人のオーディションを受けるのが当たり前。しかし、この頃からフィリピンの代理店はオーディション用募集用紙にON GOINNG と記載された未保持者が会場へ参加させはじめ、しかも、オーディションとは別に日本の招聘者と個人面談するケースが多く見受けられるようになった。しかも、そのような芸能人は全く芸歴のない美人が多く見受けられた。契約金も平成初期はダンサーで500ドル程度。しかし、このような美人偽者ダンサーは1000ドルなどの高額契約をするようになった。この頃から、首都圏東京の業者はこぞってAACカードを、高額金額を支払い偽造させ、偽者芸能人を入国させるようになった。即ち、専ら接待行為を目的に入国させ始めた時期で、オーディション会場で選ばれた女性(この頃から芸能人と言う言葉はふさわしくなくなった。)にたいし、個別面接を行い、同伴に対する報奨金、指名、ドリンクバックの報奨金、売上の悪い場合には罰則等、全く芸能人とは掛け離れた契約が堂々と行われるようになってきた。しかし、中には、しっかりとした公演のみを行う招聘者も僅かながらいた。
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