一万年も続いたとされています。そもそも”縄文”とは、土器表面
に縄目の文様が使えられているために、そう呼ばれています。日本
各地の千キロ以上も離れた地域でありながら、土器に同様の文様が
付けられていたのが不思議ですよね。これは、同じ文化圏に属して
いたとしか思えません。形こそは地方ごとに独特の変異があリます
が、それでもバリエーション的な範囲での相違点だと思いますね。
交通機関もない時代に、数千キロも離れていたのに、どのように
交流したのでしょうかねぇ。ことばに違いはなかったのかな?
当時の装飾品としては、各地で翡翠の飾り物も出土しています。
これらは、日本海側の糸魚川周辺の海岸で摂れるものです。また、
刃物として用いられてた黒曜石は、その辺の裏山で取れるものでは
ありません。やはり、交易により広がったのでしょうね。
国内で有名な佐賀県の吉野ヶ里遺跡や、青森県の三内丸山遺跡の
両方共見てきましたが、集落や家の構造などに大きな違いは見られ
ませんでした。
これらの遺跡が長い間集落として利用されていたのは、安定した
社会が営まれていたものと思います。しかも、一万年もの間にです
よ。 100世紀の長きに渡って栄えていたのです。文字が使用されて
いなかったために、今の世にその様子が文章で残されていないのが
残念ですよね。
氷河期が終わりつつある時期ですから、海水面の上昇によって、
大陸からの新た場部族の侵略がなかったからなのでしょうか。それ
とも、高度な文明社会だったせいなのでしょうか。いずれにしろ、
長く平和な時代が過ぎていったのしょうね。
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