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シリーズ平成の本音―「主権回復の日」記念式典で失われたもの (再掲)

2013-07-08 | Weblog
シリーズ平成の本音―「主権回復の日」記念式典で失われたもの (再掲)
 4月28日、政府はサンフランシスコ講和条約が発効(1952年)し、主権が回復されたことを記念して、記念式典を憲政記念館で開催した。同記念式典には、天皇皇后両陛下も出席されたが、生活、共産、社民の3党とみどりの風や沖縄県知事が欠席した。
 日本は、1945年8月15日の終戦の後、米、英などの戦勝国である連合国の占領下に置かれ、主権を大きく制限されたが、サンフランシスコ講和条約の発効をもって主権が回復されたとされている。
1、現行の日本憲法は否定されるのか?
確かに日本は、講和条約の発効をもって主権を回復し、国際社会に復帰した。それでは、戦後講和条約の発効までの間は、主権が認められなかったということになるが、1947年5月3日に施行された憲法は、主権が奪われた占領下で成立したもので、自分たちの意志ではなかったと言っているに他ならない。
 自・公連立政権が、講和条約発効後61年も経ってこの式典を挙行したことは、現行憲法は日本の意志で作成されたものではない、従って抜本改正するということを内外に宣明したことになる。
 しかし現行の民主憲法は、帝国議会で審議、採択され、46年11月3日に公布され、施行後66年を経て多くの国民に浸透している。特に戦後世代は成立の経緯は別として、この憲法を学び、広く受け入れられているのも事実である。
 政府は、憲法などを連合国の占領下で押し付けられた借り物として否定し、日本を何処に導こうとしているのだろうか。現在も健在な元首相が、首相時代に日本は“天皇を中心とする神の国”と表現して不適切とされたが、天皇制を強化し、国軍を保持するなど、戦前のような制度に戻ろうとしているのだろうか。2012年12月の衆議院議員選挙で、“日本を取り戻す”と繰り返していたが、そのような公約は耳にしていない。
 2、影を落とした“国民統合の象徴”である天皇
 式典には天皇、皇后両陛下が出席された。内閣からの要請であるので出席されたのであろう。しかし、講和条約の下では奄美や小笠原と共に米国の施政権下に留まった沖縄県は、この日を“屈辱の日”とし、知事の出席は行わなかった。生活、共産、社民の3党とみどりの風も出席しなかった。沖縄や奄美では抗議集会が開催された。
 参加しなかったのはいずれも数の上では少数派であり、仕方がないと言えないこともないが、“国民統合の象徴”である天皇陛下が出席されたことは、これら少数派の意見を共有しないということであるので、“国民統合の象徴”としての役割に影を落とす形となった。
 式典の進行についても、両陛下を中央に戴き、両陛下に奏上するかのような形で行われた。天皇の機能を強化し、その下で政権の地位を固め、これに天皇が君臨するという戦前の政体を思い起こさせる。“国民統合の象徴”ではなく、特定の保守政党に支えられ、国民に君臨する天皇という印象を与えている。
 それを国民が望むのであろうか。主権を回復し、占領時代以前の天皇制に戻るような憲法を作るのか。天皇制のあり方を考え直してみる機会なのかもしれない。
 3、占領下の「東京裁判」も否定される!?
 連合国は、1946年に極東国際軍事裁判所(通称東京裁判)を設置し、大東亜戦争から太平洋戦争に至る軍人中枢の他、首相、大臣等を戦争犯罪人として裁判した。
 東京裁判は、昭和天皇の誕生日である同年4月29日に開始され、東郷英機首相(当時、軍人出身)はじめ25名の主要責任者が1948年11月に死刑(A級戦犯)或いは終身刑等として判決され、同年12月23日(現天皇誕生日、皇太子殿下当時)に処刑された。今回、講和条約の発行をもって日本の主権が回復したことを表明したことは、占領下で行われた東京裁判も押しつけであり、日本の意思ではないことを意味するのだろう。従って、大東亜戦争や太平洋戦争を主導した“A級戦犯”なども戦犯として処刑されるべきではなかったとの意見が出ることになろう。戦犯の復権であり、保守リビジョにスト(保守修正主義)の台頭となる。
 4月に麻生副首相兼財務相、古屋国家公安委員長兼拉致問題担当相他2閣僚が、また高市自民党政調会長など与党を中心とする168議員が、東郷英機などA級戦犯を多くの旧帝国軍人などと共に合祀している靖国神社を参拝した。国のために命を落とした方々の慰霊をお参りするのは当然のことであり、個人の自由というのが理由である。確かに個人として参拝するのは自由である。しかし靖国神社は、日本を戦争に導いた責任者(A級戦犯)が合祀されている。その上、戦争終盤には燃料不足のため片道だけの燃料を積んで米国艦船に突っ込んで行った戦闘機(通称神風特攻隊)などの武器が展示されてある戦争博物館(遊就館)があり、一般の神社とは異なるので、公人としての立場がある者が参拝することは、旧帝国軍隊による戦争やその責任者を容認、擁護するとの意味合いを持つので、私人の参拝とは異なる。韓国や中国が靖国参拝に反発しているのもそのような意味合いがあるからだろう。もっとも中、韓両国にも、信条、信仰の自由は民主主義社会では国際的に広く確立している基本的な自由であることを理解するよう期待したい。
 東京裁判の裁判官や検察官は連合国側から派遣されたものであり、裁判は公平ではなかったとして、東京裁判の判決を尊重しないとすると、太平洋戦争の責任は誰にあったのか。
 東京裁判を否定するのであれば、日本人自身が太平洋戦争の責任をきちんと総括し、判断を下すべきであろう。連合国が被った被害は東京裁判で裁かれたが、日本側にも大きな被害があった。日本人は、太平洋戦争において、この地域の戦地で兵士など約240万人死亡していると言われている。更に本土でも、沖縄では民間人を含め18万人前後、東京の空爆により10万人内外、そして広島、長崎の原爆による15万~20万人など、民間人を中心として約70万人が死亡したと言われ、東京や広島、長崎などを焦土とした。対外的な被害は被害として真摯に受け止めるべきであろうが、自国民にこれだけの被害を強いる結果となったので、このような惨劇を繰り返さないためにも責任を精査する必要があろう。
 また連合国側も、沖縄や東京等の多数の民間人や民間施設等に甚大な犠牲や被害を与えており、民間人(シビリアン)など非戦闘員を保護するという陸戦法規(1899年ハーグ陸戦条約など)の趣旨に反するところであり、また広島、長崎両市への原爆という大量破壊兵器での大量殺戮(ジェノサイド)は戦争法規の趣旨や人道上の観点から、本来的には適否を問われても良いのであろう。それは今後の世界において、軍事戦略や戦術の論理だけでなく、軍事活動のシビリアン・コントロールやシビリアンの保護、人道の観点からも考え、戦争法規のあり方や核兵器や化学兵器など民間人や民間施設をターゲットとする無差別攻撃の抑止などを考える上でも必要であろう。
 歴史に“もし”ということはないのだが、戦後もし世界が広島、長崎の一般人、施設等の大量殺戮や大量破壊を原子爆弾による大量殺戮(ジェノサイド)として責任を問い、国際的な処罰をしていれば、現在の核兵器国の核保有や北朝鮮など一部諸国による核兵器開発などは禁止されていたのであろう。
 歴史は後ろには戻せないが、占領下の連合国による東京裁判や戦争犯罪人の処罰を否定するのであれば、戦勝国、敗戦国双方につき戦争の責任を問い直すことは出来るのであろう。
(2013.4.28.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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シリーズ平成の本音―「主権回復の日」記念式典で失われたもの (再掲)

2013-07-08 | Weblog
シリーズ平成の本音―「主権回復の日」記念式典で失われたもの (再掲)
 4月28日、政府はサンフランシスコ講和条約が発効(1952年)し、主権が回復されたことを記念して、記念式典を憲政記念館で開催した。同記念式典には、天皇皇后両陛下も出席されたが、生活、共産、社民の3党とみどりの風や沖縄県知事が欠席した。
 日本は、1945年8月15日の終戦の後、米、英などの戦勝国である連合国の占領下に置かれ、主権を大きく制限されたが、サンフランシスコ講和条約の発効をもって主権が回復されたとされている。
1、現行の日本憲法は否定されるのか?
確かに日本は、講和条約の発効をもって主権を回復し、国際社会に復帰した。それでは、戦後講和条約の発効までの間は、主権が認められなかったということになるが、1947年5月3日に施行された憲法は、主権が奪われた占領下で成立したもので、自分たちの意志ではなかったと言っているに他ならない。
 自・公連立政権が、講和条約発効後61年も経ってこの式典を挙行したことは、現行憲法は日本の意志で作成されたものではない、従って抜本改正するということを内外に宣明したことになる。
 しかし現行の民主憲法は、帝国議会で審議、採択され、46年11月3日に公布され、施行後66年を経て多くの国民に浸透している。特に戦後世代は成立の経緯は別として、この憲法を学び、広く受け入れられているのも事実である。
 政府は、憲法などを連合国の占領下で押し付けられた借り物として否定し、日本を何処に導こうとしているのだろうか。現在も健在な元首相が、首相時代に日本は“天皇を中心とする神の国”と表現して不適切とされたが、天皇制を強化し、国軍を保持するなど、戦前のような制度に戻ろうとしているのだろうか。2012年12月の衆議院議員選挙で、“日本を取り戻す”と繰り返していたが、そのような公約は耳にしていない。
 2、影を落とした“国民統合の象徴”である天皇
 式典には天皇、皇后両陛下が出席された。内閣からの要請であるので出席されたのであろう。しかし、講和条約の下では奄美や小笠原と共に米国の施政権下に留まった沖縄県は、この日を“屈辱の日”とし、知事の出席は行わなかった。生活、共産、社民の3党とみどりの風も出席しなかった。沖縄や奄美では抗議集会が開催された。
 参加しなかったのはいずれも数の上では少数派であり、仕方がないと言えないこともないが、“国民統合の象徴”である天皇陛下が出席されたことは、これら少数派の意見を共有しないということであるので、“国民統合の象徴”としての役割に影を落とす形となった。
 式典の進行についても、両陛下を中央に戴き、両陛下に奏上するかのような形で行われた。天皇の機能を強化し、その下で政権の地位を固め、これに天皇が君臨するという戦前の政体を思い起こさせる。“国民統合の象徴”ではなく、特定の保守政党に支えられ、国民に君臨する天皇という印象を与えている。
 それを国民が望むのであろうか。主権を回復し、占領時代以前の天皇制に戻るような憲法を作るのか。天皇制のあり方を考え直してみる機会なのかもしれない。
 3、占領下の「東京裁判」も否定される!?
 連合国は、1946年に極東国際軍事裁判所(通称東京裁判)を設置し、大東亜戦争から太平洋戦争に至る軍人中枢の他、首相、大臣等を戦争犯罪人として裁判した。
 東京裁判は、昭和天皇の誕生日である同年4月29日に開始され、東郷英機首相(当時、軍人出身)はじめ25名の主要責任者が1948年11月に死刑(A級戦犯)或いは終身刑等として判決され、同年12月23日(現天皇誕生日、皇太子殿下当時)に処刑された。今回、講和条約の発行をもって日本の主権が回復したことを表明したことは、占領下で行われた東京裁判も押しつけであり、日本の意思ではないことを意味するのだろう。従って、大東亜戦争や太平洋戦争を主導した“A級戦犯”なども戦犯として処刑されるべきではなかったとの意見が出ることになろう。戦犯の復権であり、保守リビジョにスト(保守修正主義)の台頭となる。
 4月に麻生副首相兼財務相、古屋国家公安委員長兼拉致問題担当相他2閣僚が、また高市自民党政調会長など与党を中心とする168議員が、東郷英機などA級戦犯を多くの旧帝国軍人などと共に合祀している靖国神社を参拝した。国のために命を落とした方々の慰霊をお参りするのは当然のことであり、個人の自由というのが理由である。確かに個人として参拝するのは自由である。しかし靖国神社は、日本を戦争に導いた責任者(A級戦犯)が合祀されている。その上、戦争終盤には燃料不足のため片道だけの燃料を積んで米国艦船に突っ込んで行った戦闘機(通称神風特攻隊)などの武器が展示されてある戦争博物館(遊就館)があり、一般の神社とは異なるので、公人としての立場がある者が参拝することは、旧帝国軍隊による戦争やその責任者を容認、擁護するとの意味合いを持つので、私人の参拝とは異なる。韓国や中国が靖国参拝に反発しているのもそのような意味合いがあるからだろう。もっとも中、韓両国にも、信条、信仰の自由は民主主義社会では国際的に広く確立している基本的な自由であることを理解するよう期待したい。
 東京裁判の裁判官や検察官は連合国側から派遣されたものであり、裁判は公平ではなかったとして、東京裁判の判決を尊重しないとすると、太平洋戦争の責任は誰にあったのか。
 東京裁判を否定するのであれば、日本人自身が太平洋戦争の責任をきちんと総括し、判断を下すべきであろう。連合国が被った被害は東京裁判で裁かれたが、日本側にも大きな被害があった。日本人は、太平洋戦争において、この地域の戦地で兵士など約240万人死亡していると言われている。更に本土でも、沖縄では民間人を含め18万人前後、東京の空爆により10万人内外、そして広島、長崎の原爆による15万~20万人など、民間人を中心として約70万人が死亡したと言われ、東京や広島、長崎などを焦土とした。対外的な被害は被害として真摯に受け止めるべきであろうが、自国民にこれだけの被害を強いる結果となったので、このような惨劇を繰り返さないためにも責任を精査する必要があろう。
 また連合国側も、沖縄や東京等の多数の民間人や民間施設等に甚大な犠牲や被害を与えており、民間人(シビリアン)など非戦闘員を保護するという陸戦法規(1899年ハーグ陸戦条約など)の趣旨に反するところであり、また広島、長崎両市への原爆という大量破壊兵器での大量殺戮(ジェノサイド)は戦争法規の趣旨や人道上の観点から、本来的には適否を問われても良いのであろう。それは今後の世界において、軍事戦略や戦術の論理だけでなく、軍事活動のシビリアン・コントロールやシビリアンの保護、人道の観点からも考え、戦争法規のあり方や核兵器や化学兵器など民間人や民間施設をターゲットとする無差別攻撃の抑止などを考える上でも必要であろう。
 歴史に“もし”ということはないのだが、戦後もし世界が広島、長崎の一般人、施設等の大量殺戮や大量破壊を原子爆弾による大量殺戮(ジェノサイド)として責任を問い、国際的な処罰をしていれば、現在の核兵器国の核保有や北朝鮮など一部諸国による核兵器開発などは禁止されていたのであろう。
 歴史は後ろには戻せないが、占領下の連合国による東京裁判や戦争犯罪人の処罰を否定するのであれば、戦勝国、敗戦国双方につき戦争の責任を問い直すことは出来るのであろう。
(2013.4.28.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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シリーズ平成の本音―自民党憲法改正草案、これでは国はまとまらない! (全編)

2013-07-08 | Weblog
シリーズ平成の本音―自民党憲法改正草案、これでは国はまとまらない! (全編)
 自民党は、憲法改正草案を公表し、7月に予定されている参議院議員選挙において憲法改正を公約として訴えるとしている。
 自・公政権は、61年前の4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効(1952
年)し、主権が回復されたことを記念して、天皇皇后両陛下ご出席の下で記念式典を開催した。議事次第には載せていなかったが、閉会に際し“天皇陛下、万歳”を唱えた。これは、1947年5月3日に施行された憲法は、主権が奪われていた占領下で成立したもので、自分たちの意志ではなかったと言っているに他ならない。今回公表された同党憲法改正草案は、時計を戦前の帝国憲法に戻すような復古調が強く、保守政権の改正案とはなっても、これではとてもとても国論を纏められそうにない。
 現行憲法は、成立の経緯は別として、戦争の惨禍を経験した熟年層はもとより、戦後教育を受けた若年層から中堅層まで広く定着して来ているが、ここでは特に、現行憲法から乖離が著しい下記の3点について論点を提供したい。自民党憲法草案は、民主党政権時代の野党であった頃に、全自民党議員の参加の下で3年半を掛けて纏めたと言われており、国家のあり方や、基本的な国民の権利義務、統治機構などについて同党の本質、本音を文字化したものと言えるので、国民が慎重に判断し、選択することが必要のようだ。
 1、天皇の元首としての明文化は世襲元首の恒久化
 天皇を元首と明記しているが、これにより天皇家が世襲により国家元首となり、固定化され、天皇制を信奉する自民党を中心とする保守政党の長期独裁を可能にする。自民党とすれば、国家元首である天皇を擁護、支持する本流であるとして政権を維持し易くなる一方、これに反対する勢力や考え方に対しては憲法に違反するとして厳しい措置も可能になる。政権維持に天皇を利用する結果となり、「国民統合の象徴」が保守政権の守護神となり、天皇制の意味合いが帝国憲法時代に近くなり変容する。
 自民党が2012年12月の総選挙で、”日本を取り戻す”をスローガンとしていたが、そういう意図があったのだろう。また4月28日の“主権が回復の日”も、占領下時代に交付された現行憲法を見直すことを正当化するものでもあったのだろう。
 自民党改正草案では、天皇の地位は“主権が存する国民の総意に基づく”と規定しているが、“総意”ということは国民全体の総意(コンセンサス)を意味するので、国民のほとんどが、少なくても9割以上が支持する状態であることが望ましく、象徴天皇は政治的には中立であることが期待される。それを過半数で明文化するのはいささか乱暴であると共に、憲法改正を口実に保守政権を固定化する意図があるとみられよう。
 国歌を君が代とし、国家、国旗を尊重する義務なども規定されているが(3条)、一種の偶像崇拝的な規定であり、保守政権の固定化を狙ったものであろう。  
 なお、“君が代”の“君”は、“国民であるあなた達”であるなどと旧自民党政権は答えていたが、本来的には“我が君”、“君主様”を意味するものであり、国歌自体も時代錯誤的なものになっている。しかし天皇を元首と明記することにより、本来の“我が君”として使えることになる。
 他方、国家元首が世襲となることは、皇室が特別な階級、階層となり、平等性を損なう他、主権在民、国民主権に反するので、国民が元首として選ぶ大統領制や首相公選制を望む声が強くなろう。
 現在天皇は、憲法で、「国民統合の象徴」として「内閣の助言と承認」に基づき一定の儀礼的行為や儀式をするとして、10項目が定められている。そして外国使節である大使、公使を接受することとなっていることから、外国元首等の日本訪問に際しては、天皇の接見や皇居での晩餐会などが行われることが寒冷となっており、元首級の扱いとなっている。しかし天皇には定年制はないことから、高年齢となると健康上の問題もあり、公務が負担になっており、それが国・公賓招待や外国訪問その他の行事の妨げになっている面がある。その一例が、2009年12月に中国の習近平主席が副首相時代に訪日した際、次期主席と予想されていたことから中国側が天皇拝謁を希望し、実現したものの、当時の宮内庁長官が陛下の健康を気遣い、天皇拝謁等については1ヶ月以上の事前の要請がなければならないとして、記者団の前で苦言を呈したが、それは習近平氏の耳にも届いていたと見られ、折角接見していながら後味の悪い結果となった。習近平氏は、本年に国家主席となっているが、宮内庁側の健康を気遣う気持ちは十分分かるが、外交上は配慮に欠けたと言えるであろう。
 日本は今後世界にもっと積極的に首脳外交を展開することが期待されるが、国民が選ぶ大統領制や首相公選制にして、天皇は諸外国の王室との交流や文化分野等での活動に専心戴き、負担を軽減することを検討しても良いのかもしれない。それは国民が選ぶべきであろうが、過半数で天皇を元首と明文化し、国民の判断を縛るのは乱暴過ぎるし、そのような形で天皇を政治利用することはお気の毒であろう。
 2、9条改正で自衛権と共に、軍の治安出動、国民の生命・自由の制限可能に
“国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない”ことを9条第1項で明記し、武力侵略や積極的、攻撃的な武力の行使等を行わないことを維持していることは評価出来る。
 その上で、“自衛権の発動を妨げない”とし、“国防軍”を保持するとしており(同条の二)、名称は別として、自衛権の明確化と、自衛力の保持を明確にしていることも、現実の自衛隊の実体を明確にするものであるので、理解出来る。
 しかし、“総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃や地震等による大規模な自然災害”の他、”内乱等による社会秩序の混乱その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発する”としている。政府や国の体制に反対する国民が大規模なデモや集会などをの抗議活動を行った場合、緊急事態を発し、国防軍が治安出動などを行えるようになっており、自民党や防衛省は否定するであろうが、極限状態においては、軍がこうした国民に銃を向けることも可能となる。例えば、元首である天皇制に反対し、大統領制や首相公選制を要求し大規模且つ激しいデモ、集会等が行われるようなことがあると、憲法違反行為、国益を損なうなどとして軍を出動させて鎮圧することも可能となる。
 このような重要な規定を国会の過半数で通してしまえば、保守政権は安泰であろうが、民主主義を否定する恐れがある。
更に、”主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない”(9条の3)とし、また、”生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り”、最大限に尊重(13条)としていることから、徴兵制の導入や、公益や公の秩序に反した場合には、国民の生命、自由及び幸福追求の権利を制限することも可能になる。 
 全体として、天皇を元首とし、国防軍を有し、防衛と共に国内の治安出動を可能にし、国民の生命、自由及び幸福追求の権利を制限することも可能にするなど、実体的に旧帝国憲法の下での専制国家を意図した憲法草案となっている。
なお改正草案では、”国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合”のため、”国防軍に審判所を置く”としている。制服組及び背広組双方に、通常の裁判制度の外に軍事裁判所が置かれることになるが、これも軍が独自の審判所を持ち、内局の公務員も対象とし、睨みを利かすことにより、シビリアン・コントロールにも暗黙の影響を与えることとなろう。
 3、国民の自由、権利を制限する“公益”、“公の秩序”とは何か?
 現行憲法では、国民は”個人”として尊重され、諸権利はこれを濫用してはならず、”公共の福利に利用する責任を負う”とされている。
同党の改正草案では、国民は“人”として尊重され、自由と権利は乱用してはならず、“常に公益及び公の秩序に反してはならない”と規定(12条)されている。さらっと読むと問題なさそうであるが、実は問題が多い。
 まず国民は“人”として尊重されとあるが、これまで国民は“人”として尊重されていなかったのであろうか。その上、“個人”としての尊重が削除され、個人主義が消えることになる。そして自由と諸権利は、“公益及び公の秩序”に反してはならないとして規制さる(12条)。更に、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は、”公益及び公の秩序に反しない限り”、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されると規定され(13条)、”公益及び公の秩序”が優先する形となっている。個人の自由や権利に対する国家権力の制限が加え易くなる上、”公益及び公の秩序”については非常に広い概念であり、恣意的な解釈が可能となり、法令でいかようにでも規制が出来る。
このように、同党の憲法改正草案は、“個人主義”を否定し、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利を”公益及び公の秩序”により制限するものであるが、現行憲法でも身勝手な行き過ぎた個人主義については、公共の福祉に沿うよう戒められている。それを更に強化することは、個人主義から全体主義へ近づけることを意味し、国民世論からは掛け離れている。国民としては慎重な判断が求められる。
 4、憲法改正判断前に不可欠な1票の格差の解消
 このように、天皇の元首明文化と大統領制・首相公選制の排除や保守政党政権の恒久化、自衛権の明文化と緊急事態での治安出動や諸権利の制限、そして公益と公の秩序による自由と諸権利の制限などだけをとっても、自民党憲法改正草案には、戦前の旧帝国憲法の下での世襲元首・専制国家、中央統制の強化など、復古的要素が多く含まれており、現行憲法の下での自由や民主主義から、世襲元首・専制国家的な中央統制に逆戻りしている。
 現自民党政権が“日本を取り戻す”とし、1952年4月28日を“主権回復の日”として両陛下を招いて記念することにより、米国など連合国による占領下での現行憲法や諸決定を否定、あるいは見直す姿勢を示していることに沿ったものと言えよう。同憲法改正草案は、全自民党議員が参加し3年以上の検討、審議を経てまとめられているので、単に首相や一部の要路の考え方だけでなく、全自民党議員の考え方であり、同党が目指す日本の国家像に関する本音の現れと見ることが出来る。
 そのような大きな転換、復古について日本国民の選択を迫るのであるから、議員の3分の2であろうと、過半数による提起であろうと、有権者の1票の重さを1対1に近づけ、格差を解消した上で、国民の選択を求めるべきであろう。
 現在、1票の格差により、31の選挙区、31人の衆議院議員が違憲選挙で当選しており、このように歪んだ状態で国会や国民の選択を求めることは、政治の歪みだけでなく、国家の将来を歪める結果となろう。
 自民党は、現在、衆議院議員定数を“05減”で選挙区の区割りを微調整する区割り法案を採択すべく努力しているが、それが実現しても格差は最大で1.998倍となる。有権者の1票の重みが、1対1.998となり、平等などとは決して言えない。子供でも分かる。従って、このような区割り法案が採択され、選挙が行われてもまた憲法違反となろう。
 有権者が平等と言えるのは、投じる票の重みが1対1となることであり、それに近づけることが政治責任だ。従来最高裁は、衆議院で格差が2倍以内、参議院で5倍以内であれば違憲とはしてこなかったが、それは立法府の自主性を尊重し、国会自身による是正を促して来たのであろう。しかし、そのような緩く恣意的な基準が、憲法上の大原則である平等性を歪め、政治の歪みを容認して来たと言えよう。平等原則は民主主義を前提とする現行憲法の大原則であるので、裁判所は司法としての適正な基準を示すべきであろう。このような数字や平等性等に対する恣意的で不適切な解釈、適用が、不明朗な解決や子供の算数の学力低下を知らず知らずに許してきたのではないだろうか。このような数字認識や平等性の解釈をしておきながら、教育改革など出来そうにない。
 ましてや国のあり方を決める憲法の改正を行うというのであれば、3分の2の多数であろうと、過半数であろうと、まず有権者の票の重さを1対1に近い形に是正し、フェアーな形で行うべきであろう。自民党等は、現行憲法を占領下の憲法として尊重しないというのかもしれないが、有権者の票の重さを1対1に近い形にし、フェアーな土俵で判断を求めなければ歪んだ結果しか出て来ない。
 このような有権者を軽視する政党、自・公連立政権を7月の参議院選挙で進出させ、過半数を取らせるようなことは、日本の政治のみならず、民主主義や日本の進路を歪めることになるので、望ましくない。それを判断するのが国民、有権者である。もっとも参院選でまた違憲判決となる可能性もあり、“良識の府”の良識や存在意義が疑問視される可能性がある。
(2013.5.12.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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シリーズ平成の本音―自民党憲法改正草案、これでは国はまとまらない! (全編)

2013-07-08 | Weblog
シリーズ平成の本音―自民党憲法改正草案、これでは国はまとまらない! (全編)
 自民党は、憲法改正草案を公表し、7月に予定されている参議院議員選挙において憲法改正を公約として訴えるとしている。
 自・公政権は、61年前の4月28日、サンフランシスコ講和条約が発効(1952
年)し、主権が回復されたことを記念して、天皇皇后両陛下ご出席の下で記念式典を開催した。議事次第には載せていなかったが、閉会に際し“天皇陛下、万歳”を唱えた。これは、1947年5月3日に施行された憲法は、主権が奪われていた占領下で成立したもので、自分たちの意志ではなかったと言っているに他ならない。今回公表された同党憲法改正草案は、時計を戦前の帝国憲法に戻すような復古調が強く、保守政権の改正案とはなっても、これではとてもとても国論を纏められそうにない。
 現行憲法は、成立の経緯は別として、戦争の惨禍を経験した熟年層はもとより、戦後教育を受けた若年層から中堅層まで広く定着して来ているが、ここでは特に、現行憲法から乖離が著しい下記の3点について論点を提供したい。自民党憲法草案は、民主党政権時代の野党であった頃に、全自民党議員の参加の下で3年半を掛けて纏めたと言われており、国家のあり方や、基本的な国民の権利義務、統治機構などについて同党の本質、本音を文字化したものと言えるので、国民が慎重に判断し、選択することが必要のようだ。
 1、天皇の元首としての明文化は世襲元首の恒久化
 天皇を元首と明記しているが、これにより天皇家が世襲により国家元首となり、固定化され、天皇制を信奉する自民党を中心とする保守政党の長期独裁を可能にする。自民党とすれば、国家元首である天皇を擁護、支持する本流であるとして政権を維持し易くなる一方、これに反対する勢力や考え方に対しては憲法に違反するとして厳しい措置も可能になる。政権維持に天皇を利用する結果となり、「国民統合の象徴」が保守政権の守護神となり、天皇制の意味合いが帝国憲法時代に近くなり変容する。
 自民党が2012年12月の総選挙で、”日本を取り戻す”をスローガンとしていたが、そういう意図があったのだろう。また4月28日の“主権が回復の日”も、占領下時代に交付された現行憲法を見直すことを正当化するものでもあったのだろう。
 自民党改正草案では、天皇の地位は“主権が存する国民の総意に基づく”と規定しているが、“総意”ということは国民全体の総意(コンセンサス)を意味するので、国民のほとんどが、少なくても9割以上が支持する状態であることが望ましく、象徴天皇は政治的には中立であることが期待される。それを過半数で明文化するのはいささか乱暴であると共に、憲法改正を口実に保守政権を固定化する意図があるとみられよう。
 国歌を君が代とし、国家、国旗を尊重する義務なども規定されているが(3条)、一種の偶像崇拝的な規定であり、保守政権の固定化を狙ったものであろう。  
 なお、“君が代”の“君”は、“国民であるあなた達”であるなどと旧自民党政権は答えていたが、本来的には“我が君”、“君主様”を意味するものであり、国歌自体も時代錯誤的なものになっている。しかし天皇を元首と明記することにより、本来の“我が君”として使えることになる。
 他方、国家元首が世襲となることは、皇室が特別な階級、階層となり、平等性を損なう他、主権在民、国民主権に反するので、国民が元首として選ぶ大統領制や首相公選制を望む声が強くなろう。
 現在天皇は、憲法で、「国民統合の象徴」として「内閣の助言と承認」に基づき一定の儀礼的行為や儀式をするとして、10項目が定められている。そして外国使節である大使、公使を接受することとなっていることから、外国元首等の日本訪問に際しては、天皇の接見や皇居での晩餐会などが行われることが寒冷となっており、元首級の扱いとなっている。しかし天皇には定年制はないことから、高年齢となると健康上の問題もあり、公務が負担になっており、それが国・公賓招待や外国訪問その他の行事の妨げになっている面がある。その一例が、2009年12月に中国の習近平主席が副首相時代に訪日した際、次期主席と予想されていたことから中国側が天皇拝謁を希望し、実現したものの、当時の宮内庁長官が陛下の健康を気遣い、天皇拝謁等については1ヶ月以上の事前の要請がなければならないとして、記者団の前で苦言を呈したが、それは習近平氏の耳にも届いていたと見られ、折角接見していながら後味の悪い結果となった。習近平氏は、本年に国家主席となっているが、宮内庁側の健康を気遣う気持ちは十分分かるが、外交上は配慮に欠けたと言えるであろう。
 日本は今後世界にもっと積極的に首脳外交を展開することが期待されるが、国民が選ぶ大統領制や首相公選制にして、天皇は諸外国の王室との交流や文化分野等での活動に専心戴き、負担を軽減することを検討しても良いのかもしれない。それは国民が選ぶべきであろうが、過半数で天皇を元首と明文化し、国民の判断を縛るのは乱暴過ぎるし、そのような形で天皇を政治利用することはお気の毒であろう。
 2、9条改正で自衛権と共に、軍の治安出動、国民の生命・自由の制限可能に
“国権の発動としての戦争を放棄し、武力による威嚇及び武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては用いない”ことを9条第1項で明記し、武力侵略や積極的、攻撃的な武力の行使等を行わないことを維持していることは評価出来る。
 その上で、“自衛権の発動を妨げない”とし、“国防軍”を保持するとしており(同条の二)、名称は別として、自衛権の明確化と、自衛力の保持を明確にしていることも、現実の自衛隊の実体を明確にするものであるので、理解出来る。
 しかし、“総理大臣は、我が国に対する外部からの武力攻撃や地震等による大規模な自然災害”の他、”内乱等による社会秩序の混乱その他の法律で定める緊急事態において、特に必要があると認めるときは、法律の定めるところにより、閣議にかけて、緊急事態の宣言を発する”としている。政府や国の体制に反対する国民が大規模なデモや集会などをの抗議活動を行った場合、緊急事態を発し、国防軍が治安出動などを行えるようになっており、自民党や防衛省は否定するであろうが、極限状態においては、軍がこうした国民に銃を向けることも可能となる。例えば、元首である天皇制に反対し、大統領制や首相公選制を要求し大規模且つ激しいデモ、集会等が行われるようなことがあると、憲法違反行為、国益を損なうなどとして軍を出動させて鎮圧することも可能となる。
 このような重要な規定を国会の過半数で通してしまえば、保守政権は安泰であろうが、民主主義を否定する恐れがある。
更に、”主権と独立を守るため、国民と協力して、領土、領海及び領空を保全し、その資源を確保しなければならない”(9条の3)とし、また、”生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公益及び公の秩序に反しない限り”、最大限に尊重(13条)としていることから、徴兵制の導入や、公益や公の秩序に反した場合には、国民の生命、自由及び幸福追求の権利を制限することも可能になる。 
 全体として、天皇を元首とし、国防軍を有し、防衛と共に国内の治安出動を可能にし、国民の生命、自由及び幸福追求の権利を制限することも可能にするなど、実体的に旧帝国憲法の下での専制国家を意図した憲法草案となっている。
なお改正草案では、”国防軍に属する軍人その他の公務員がその職務の実施に伴う罪又は国防軍の機密に関する罪を犯した場合”のため、”国防軍に審判所を置く”としている。制服組及び背広組双方に、通常の裁判制度の外に軍事裁判所が置かれることになるが、これも軍が独自の審判所を持ち、内局の公務員も対象とし、睨みを利かすことにより、シビリアン・コントロールにも暗黙の影響を与えることとなろう。
 3、国民の自由、権利を制限する“公益”、“公の秩序”とは何か?
 現行憲法では、国民は”個人”として尊重され、諸権利はこれを濫用してはならず、”公共の福利に利用する責任を負う”とされている。
同党の改正草案では、国民は“人”として尊重され、自由と権利は乱用してはならず、“常に公益及び公の秩序に反してはならない”と規定(12条)されている。さらっと読むと問題なさそうであるが、実は問題が多い。
 まず国民は“人”として尊重されとあるが、これまで国民は“人”として尊重されていなかったのであろうか。その上、“個人”としての尊重が削除され、個人主義が消えることになる。そして自由と諸権利は、“公益及び公の秩序”に反してはならないとして規制さる(12条)。更に、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利は、”公益及び公の秩序に反しない限り”、立法その他の国政の上で、最大限に尊重されると規定され(13条)、”公益及び公の秩序”が優先する形となっている。個人の自由や権利に対する国家権力の制限が加え易くなる上、”公益及び公の秩序”については非常に広い概念であり、恣意的な解釈が可能となり、法令でいかようにでも規制が出来る。
このように、同党の憲法改正草案は、“個人主義”を否定し、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利を”公益及び公の秩序”により制限するものであるが、現行憲法でも身勝手な行き過ぎた個人主義については、公共の福祉に沿うよう戒められている。それを更に強化することは、個人主義から全体主義へ近づけることを意味し、国民世論からは掛け離れている。国民としては慎重な判断が求められる。
 4、憲法改正判断前に不可欠な1票の格差の解消
 このように、天皇の元首明文化と大統領制・首相公選制の排除や保守政党政権の恒久化、自衛権の明文化と緊急事態での治安出動や諸権利の制限、そして公益と公の秩序による自由と諸権利の制限などだけをとっても、自民党憲法改正草案には、戦前の旧帝国憲法の下での世襲元首・専制国家、中央統制の強化など、復古的要素が多く含まれており、現行憲法の下での自由や民主主義から、世襲元首・専制国家的な中央統制に逆戻りしている。
 現自民党政権が“日本を取り戻す”とし、1952年4月28日を“主権回復の日”として両陛下を招いて記念することにより、米国など連合国による占領下での現行憲法や諸決定を否定、あるいは見直す姿勢を示していることに沿ったものと言えよう。同憲法改正草案は、全自民党議員が参加し3年以上の検討、審議を経てまとめられているので、単に首相や一部の要路の考え方だけでなく、全自民党議員の考え方であり、同党が目指す日本の国家像に関する本音の現れと見ることが出来る。
 そのような大きな転換、復古について日本国民の選択を迫るのであるから、議員の3分の2であろうと、過半数による提起であろうと、有権者の1票の重さを1対1に近づけ、格差を解消した上で、国民の選択を求めるべきであろう。
 現在、1票の格差により、31の選挙区、31人の衆議院議員が違憲選挙で当選しており、このように歪んだ状態で国会や国民の選択を求めることは、政治の歪みだけでなく、国家の将来を歪める結果となろう。
 自民党は、現在、衆議院議員定数を“05減”で選挙区の区割りを微調整する区割り法案を採択すべく努力しているが、それが実現しても格差は最大で1.998倍となる。有権者の1票の重みが、1対1.998となり、平等などとは決して言えない。子供でも分かる。従って、このような区割り法案が採択され、選挙が行われてもまた憲法違反となろう。
 有権者が平等と言えるのは、投じる票の重みが1対1となることであり、それに近づけることが政治責任だ。従来最高裁は、衆議院で格差が2倍以内、参議院で5倍以内であれば違憲とはしてこなかったが、それは立法府の自主性を尊重し、国会自身による是正を促して来たのであろう。しかし、そのような緩く恣意的な基準が、憲法上の大原則である平等性を歪め、政治の歪みを容認して来たと言えよう。平等原則は民主主義を前提とする現行憲法の大原則であるので、裁判所は司法としての適正な基準を示すべきであろう。このような数字や平等性等に対する恣意的で不適切な解釈、適用が、不明朗な解決や子供の算数の学力低下を知らず知らずに許してきたのではないだろうか。このような数字認識や平等性の解釈をしておきながら、教育改革など出来そうにない。
 ましてや国のあり方を決める憲法の改正を行うというのであれば、3分の2の多数であろうと、過半数であろうと、まず有権者の票の重さを1対1に近い形に是正し、フェアーな形で行うべきであろう。自民党等は、現行憲法を占領下の憲法として尊重しないというのかもしれないが、有権者の票の重さを1対1に近い形にし、フェアーな土俵で判断を求めなければ歪んだ結果しか出て来ない。
 このような有権者を軽視する政党、自・公連立政権を7月の参議院選挙で進出させ、過半数を取らせるようなことは、日本の政治のみならず、民主主義や日本の進路を歪めることになるので、望ましくない。それを判断するのが国民、有権者である。もっとも参院選でまた違憲判決となる可能性もあり、“良識の府”の良識や存在意義が疑問視される可能性がある。
(2013.5.12.)(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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シリーズ笑える映像―掛け声ばかりの「ムード景気」、「空(カラ)景気」!

2013-07-08 | Weblog
シリーズ笑える映像―掛け声ばかりの「ムード景気」、「空(カラ)景気」!
 6月5日、安倍政権は、デフレ脱却のための3番目の矢である“成長戦略”を公表し、14日に閣議決定した。“民間活力を爆発させる”とし、10年間で国民総所得を150万円増やすなどとしているが、“成長戦略”公表後に日経平均株価が1万3千円を割り込む場面が見られ、市場は爆発するどころか萎んでいる。
それもそうだ。民間活力を“爆発させる”に十分な具体策に欠けるばかりか、民間頼りとなっている。掛け声だけの「ムード景気」であり、中身のない「空(カラ)景気」のようだ。
政権要路や経団連会長などは、株価の暴落は成長戦略や経済政策とは関係がないなどとしているようだが、気休めにもならない。1990年代末よりの長期の経済停滞は、バブル経済崩壊後の株価を含む資産価値の暴落によるところが大きい。要するに資産デフレで、消費も投資も萎縮した。それに消費面で追い討ちを掛けたのが、国民年金の事実上の破綻など、年金への信頼失墜だ。これらの問題は、旧自民党政権の時に生じ、問題解決を先送って来た。
そして2008年9月の米国の証券破綻、いわゆるリーマンショック後、ドル安、円高が過度に進んだ。しかし2012年10月末頃より円高傾向となり、2013年第1四半期に円高がある程度是正されたことにより、日本の輸出産業や関連の裾野産業、そして国内観光業などを中心として企業収益が回復し、それが株高の牽引力となった。そして株高は、多くの企業、団体や個人の資産価値を回復させ、局部的ではあるが消費を増加させ、資産デフレからの脱却を促し、成長軌道に載せて行くことが期待されていた。
要するに、1月以来の円安、株高は、経済回復の牽引力となっており、今後のデフレ脱却や成長に直結する要因なのである。それが分かってないのであれば、笑える。
それが現実になったように見える。“成長戦略”が公表されるや、円高、株安に転じ、経済回復の牽引力を削がれる結果となっている。安易な気休めなどを言っていると資産デフレに逆戻りする恐れさえある。
為替レートを1ドル100円から105円前後で安定させ、株価を日経平均で15,000円から2万円台に安定させることこそが長期に続いた資産デフレからの脱却と企業、団体、個人の活力を回復させる優先課題であることを認識して欲しいものだ。(2013.6.10.)
(All Rights Reserved.)(不許無断引用)
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 6月5日、安倍政権は、デフレ脱却のための3番目の矢である“成長戦略”を公表し、14日に閣議決定した。“民間活力を爆発させる”とし、10年間で国民総所得を150万円増やすなどとしているが、“成長戦略”公表後に日経平均株価が1万3千円を割り込む場面が見られ、市場は爆発するどころか萎んでいる。
それもそうだ。民間活力を“爆発させる”に十分な具体策に欠けるばかりか、民間頼りとなっている。掛け声だけの「ムード景気」であり、中身のない「空(カラ)景気」のようだ。
政権要路や経団連会長などは、株価の暴落は成長戦略や経済政策とは関係がないなどとしているようだが、気休めにもならない。1990年代末よりの長期の経済停滞は、バブル経済崩壊後の株価を含む資産価値の暴落によるところが大きい。要するに資産デフレで、消費も投資も萎縮した。それに消費面で追い討ちを掛けたのが、国民年金の事実上の破綻など、年金への信頼失墜だ。これらの問題は、旧自民党政権の時に生じ、問題解決を先送って来た。
そして2008年9月の米国の証券破綻、いわゆるリーマンショック後、ドル安、円高が過度に進んだ。しかし2012年10月末頃より円高傾向となり、2013年第1四半期に円高がある程度是正されたことにより、日本の輸出産業や関連の裾野産業、そして国内観光業などを中心として企業収益が回復し、それが株高の牽引力となった。そして株高は、多くの企業、団体や個人の資産価値を回復させ、局部的ではあるが消費を増加させ、資産デフレからの脱却を促し、成長軌道に載せて行くことが期待されていた。
要するに、1月以来の円安、株高は、経済回復の牽引力となっており、今後のデフレ脱却や成長に直結する要因なのである。それが分かってないのであれば、笑える。
それが現実になったように見える。“成長戦略”が公表されるや、円高、株安に転じ、経済回復の牽引力を削がれる結果となっている。安易な気休めなどを言っていると資産デフレに逆戻りする恐れさえある。
為替レートを1ドル100円から105円前後で安定させ、株価を日経平均で15,000円から2万円台に安定させることこそが長期に続いた資産デフレからの脱却と企業、団体、個人の活力を回復させる優先課題であることを認識して欲しいものだ。(2013.6.10.)
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