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靖国神社への首相による真榊(まさかき)奉納等を国民はどう判断するか (再掲)

2023-10-24 | Weblog
靖国神社への首相による真榊(まさかき)奉納等を国民はどう判断するか (再掲)
 衆議院選挙中の2017年10月17日、安倍自民党総裁は、靖国神社の秋季例大祭に際し、「内閣総理大臣 安倍晋三」の名札を付して真榊の鉢植を奉納した。これに対し、野上官房副長官は記者会見において、‘総理が真榊を奉納したとの報道は承知しているが、私人としての行動に関するものであり、政府として見解を述べる事柄ではない’とし、‘靖国神社を参拝するか否かは総理が適切に判断される事柄’と述べた。靖国神社への首相による真榊(まさかき)奉納等を国民はどう判断するか
 どうも官邸側の説明振りが、何時もの通りで、どうも正確を欠く。「内閣総理大臣 安倍晋三」の名札を付して奉納しているので、‘私人としての行動’とは言えない。誰の目から見ても、「内閣総理大臣 安倍晋三」の奉納物である。どうして国民をごまかすような説明をしなくてはならないのか。どうして国民に正面から正直に説明しないのか。
 どうしてマスコミやTVコメンテーターがこの点に疑問を呈さないのか、不思議だ。また一部マスコミは、参拝でなく、まさかきの奉納だから問題がないような印象を与えているが、参拝も奉納も、信仰という点では変わりはない。この点を指摘しないのも不思議であり、マスコミ力の低下なのだろうか。
 靖国神社は、他の神社とは異なり、政治的な色合いや政治姿勢に関係する。中国や韓国が歴史認識の上で問題視していることは別として、天皇を中心とする独裁的な政治体制とするか、軍事力を認め軍国主義的な国家体制とするかなど、基本的な政府の在り方や、憲法改正の方向性などにも関係する問題なのである。
 靖国神社は、明治時代に統帥権を持つ天皇の下で国のために戦って命を落とした軍人を祀る神社として建立されたもので、軍関係者のための神社である。太平洋戦争で戦没した多くの職業軍人や軍関係者も祀られている。しかし戦後に米、英を中心とする戦勝国(連合国)が主導して、太平洋戦争を遂行した日本側の戦争責任者、指導者に対し極東国際軍事裁判(通称東京裁判)が行われ、東條英機首相、板垣陸相(いずれも当時)始め6人の軍人出身者、及び文人である広田弘毅首相の7人がA級戦犯として死刑と判決された。これら7名他の政府及び軍の戦争遂行責任者が、1978年10月に靖国神社に他の一般戦没者と共に合祀された。
 極東国際軍事裁判については、米英を中心とする戦勝国が主導したもので、日本国内には、特に新保守主義グループは裁判の公平性等に、異議を唱える者がいる。戦後、日本国内で天皇を含め時の政府の戦争責任が総括されたことはないので、戦争責任については曖昧なままになっているのが現実のようだ。
 しかし、東條英機首相などA級戦犯が1978年10月に靖国神社に合祀された後、終戦を宣言した昭和天皇を靖国を参拝しておらず、また現行天皇も参拝していない。
 首相や新保守主義と見られる議員等は、天皇が2代に亘って参拝しない靖国神社を何故参拝し、或いは榊を奉納するのだろうか。安倍首相は靖国神社参拝(2013年12月)に際し、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方達に尊崇の念を表し、ご冥福を祈るのは国のリーダーとして当然」と答弁しているが、真榊を首相名で奉納したことは、A級戦犯となった人々を含めて「尊崇の念を表し、ご冥福を祈った」のであろう。しかし、ここで誤った言葉の綾がある。「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方達に尊崇の念を表し、ご冥福を祈る」云々とあるが、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方達」は一般将兵であり、戦犯と呼ぶか否かは別として、東條英機首相はじめ時の政府及び軍の首脳部は、第2次世界大戦を決断し、主導した責任者であり、200万人余に及ぶ兵士、軍関係者を犠牲にし、東京大空襲、沖縄戦、広島、長崎の原爆投下を含めて100万人以上の一般市民を犠牲にした責任者であるので、「国のために戦い、尊い命を犠牲にした方達」としてひっくるめて表現するのは誤りではないだろうか。
天皇は昭和天皇も平成天皇も靖国参拝をしておらず、いわば天皇の意に反してこれら議員等は参拝し、榊を奉納していることになる。
 これら自民党グループは、憲法改正を唱えているようだが、基本的に天皇制を擁護し、‘日本は天皇を中心とする神の国’などとの考え方に立って、天皇を‘国家元首’として憲法に規定し、天皇制の恒久化を図り、また軍事力の保有を実質的に認め、保守政治を常に政治の中心に据えることを意図する一方、天皇を祭り上げて内閣が実権を握ることを意図しているように映る。いわば天皇を利用して保守政権の恒久化を図ろうとしているとも解釈出来そうだ。この信条は、森友学園の復古的教育方針に共鳴した安倍首相と同夫人の姿勢に通じる。
これら議員グループは、第2次世界大戦突入を決断し主導した天皇を含む時の政府、軍の首脳部の責任をどう考えているのだろうか。
因みに、自民党の‘選挙の顔’となっている小泉進次郎自民党候補も、8月15日の終戦記念日に靖国神社を参拝しており、同一の信仰や歴史認識を持っていると言えそうだ。耳障りの良い言葉や一部マスコミの報道振りなどに惑わされず、個々の言葉や行動から国民自身が判断することが必要のようだ。(2017.10.17.)
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石油価格高騰、なぜ特別税率を停止しないのか? (再掲)

2023-10-24 | Weblog
 石油価格高騰、なぜ特別税率を停止しないのか? (再掲)
 <はじめに>2023年5月にコロナウイルスへの対応がインフルエンザ並となり、各種の補助金事業が真直され、同年6月よりガソリン高騰を緩和するための石油元売りへの補助金が徐々に削減され、9月には廃止になる方向にある。これにより7月よりのガソリン価格が高騰し始めており、広範な影響が予想されるので、対策が急務となっている。ロシアのウクライナ侵攻への対抗措置としてロシアからの天然ガス輸入を含む経済制裁措置からエネルギー価格が高騰した2021年の状況が再燃したと言える。
 現在政府自民党が石油元売り企業への補助金とするか検討中だが、2重にも3重にもなっている石油税の暫定税率を中止することを世論は主張し始めている。補助金はかなりの部分が元売り企業の利益となり、消費者への効果に還元せず目減りしていない。事実大手石油元売り3社の2022年4~6月期の決算は、売上高と最終利益が同期比で過去最高となっている!それが企業の内部留保となり、自民党への献金等となっている。補助金は選挙ビジネス化しており、政策目標の効果を減殺している。
 このような状況から、本稿を再掲する。(2023.8.6.補足)

 石油高騰により、レギュラーガソリンが170円/リッターに迫る中、政府(経産省)は、レギュラーガソリンが170円を超えた場合、卸売業者にリッター当たり5円の補助金を出す方針を明らかにしている。
 それにより少しでもガソリンが安くなれば多くの国民、運送業者、物流業者等にとって喜ばしい。しかし補助金分だけガソリン代が下がるとは限らない上、
補助金の財源は所詮国民の税金であるので、税を徴収して配るという施し政治、金権政治をまた行うことになる。所得960万円以下を対象にして、18才以下の子供に10万円給付という施し政治についても、その目的の不明朗さを含めて批判が多い。
 ガソリンには、消費税の他、いわゆるガソリン税が課されている。その1つが「特別税率」(道路財源確保のための旧暫定税率)で、ガソリン税の約半分の25.1円となっている。旧暫定税率は1970年代の高度成長期に、自動車の普及と共に国中で道路建設が行われていた時代の名残りで、「暫定」と言いながら2011年ころまで継続していたが、東日本大地震を契機に批判が高まり、民主党政権時代に一時廃止されたものの、福田(康)自民党政権で「特別税率」と看板を変えて復活された。財源確保のためでしかない。
「特別税率」については、トリガー条項があり、ガソリン価格が3カ月連続でリッター160円を超えた場合、上乗せ分25.1円の課税を停止することが出来る。
現在正にトリガー条項を適用すべき時期ではないだろうか。ところが松野官房長官は11月16日の記者会見で、財源確保の観点から否定的意見を表明した。
コロナ禍で経済が停滞する中で、一部野菜や小麦、牛肉などが値上がりし、カソリン代の高騰で多方面に亘り困っているのに、法律で決められていることを拒否する政府というのは一体どういう政府なのだろう。
もっとも日本の経済全体を見るべき日銀総裁が、ガソリンや一部価格の上昇の影響は、余り大きくないなどとしているのも違和感を覚える。
 明年夏の参議院選挙を前にして、補助金や給付金等の施し政治、金権政治を継続する空気が自・公政権内に強いことを受けてのことであろうが、何時までこんなことを続けているのだろうか。(2021.11.18.)
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元号強要は国民への追加的負担ー低労働生産性の象徴的要因ー!!

2023-10-24 | Weblog
元号強要は国民への追加的負担ー低労働生産性の象徴的要因ー!!
 4月1日、政府は新元号が「令和」となる旨発表した。4月末で「平成」は終了し、5月1日に新天皇となるに伴い新元号となる。これをビジネスチャンスと捉え各種の商品やサービスが提案されており、経済効果が期待される。もっとも5月2日の早朝のスポーツニュースで、令和初のホームラン、令和初のヒット、令和初の盗塁などなど、何かにつけて´令和初’を付けて報じていたが、野球と元号は関係はないので耳障りでチャンネルを変えた。ニュースにしたいのだろうが、無節操な報道姿勢の体質は変わっていない。
 世界は急速に国際化しており、元号で物事を世界としても出来ない。外国人が何かしようとしても元号で象徴される日本のガラパゴス制度が障壁となってしまう。外国人による対日投資について特区を設けることを検討しているようだが、それは元号のような国際的に通用しない制度が日本に存在するからであることを証明しているようなものだ。だから日本人は勤勉などと言われているのに、所得は低く生産性も低くなっている。それ自体の廃止・簡素化を図るべき時期になっている。

 新元号のネーミングについての評価はいろいろあると見られるが、元号で物事が変わるものではなく、その後為政者がどのような時代にしていくかに掛かっている。
一般国民にとっては、新元号になろうとなるまいと、増え続ける規則や慣例、慣行に縛られることなく、出来るだけシンプルで、ストレスが少なく、豊かで希望の持てる社会となることを待望している。
新たな時代に取り組むためには、新元号に期待を持たせるだけでなく、「平成」がどのような時代であったかも謙虚に評価することが必要だろう。その評価無くして進歩も改革も期待できない。
 新元号への変更については、政府、政府関係機関で各種申請書、文書、許認可証等の年号が円滑に進められるよう膨大な作業が行われている。地方公共団体や民間企業、団体でも元号使用に関連し各種の対応策が行われている。
 政府は、4月1日に新元号を公表し、混乱なく改元が進むよう対応が進んでいるとしているが、元号の決定プロセスの不明瞭性と共に、改元や元号使用に伴う国民生活や経済活動に追加的な負担となり、また犯罪の種ともなっている側面を見落としてはならない。
 改元に伴いキャシュ・カードなどの交換が必要として巧みにカードを盗む‘元号詐欺’が横行している。元号が使われる限り、今後もあの手この手で‘元号詐欺’は続くことが懸念されている。
 国民生活にとっては、元号が変わること時代計算や各種の申請書、履歴書類の作成などで作業を複雑にし、追加的な負担となっている。特に超高齢化している現在、明治、大正、昭和、平成、新元号と5元号を経ることになり、何年前だったかなど分からなくなってきている。NHKなどでも、元号でニュースを伝えることが多いが、何年前だったかなどが直ちには分からない場合がある。
多くの国民にとっては複数の年号を経るので元号表記は煩雑で、そのために費やす手間暇は可なりのもので、超高齢化の時代では更に煩雑な計算が必要となる。時間の喪失感は無視できないほどで、社会的な損失も大きい。
 元号は、一般国民の生活、各種活動において使用が強制されるものではないので、国民、企業、諸団体自らが西暦年号表記の使用を促進することが望ましい。
 日本にはこの種の伝統や慣習や時代と共に旧弊が多なる上、法律、規則、更には‘通達’などで公的機関への提出文書を細部まで定めていることが多い。一方日本人は良く働き、残業も多く、夏季休暇が以上に短い上休暇も返上して働くのに、労働生産性は欧米諸国が加盟するOECD 35カ国中20位(37年連続という醜態)、先進7カ国中では40日程度は夏季休暇を取るイタリア、フランスよりも低く最下位だ。
 要するに日本人は労働時間が長いのに反して賃金、役員報酬がおしなべて低いということに尽きる。では何故そんなに労働時間が長いのか。その大きな原因の一つが、元号の換算や箸の上げ下げまで規定する規則、‘通達’ずくめの制度にある。米国はじめ多くの国が、日本は市場参入が難かしい、投資が難しい、非関税障壁があるのではないかなど、市場の開放性に疑問に思っている。確かに日本人でありながら新規に何かをしようとすると制度や申請書類などが細かく複雑で大変だ。その上元号記載となることが多い。行政書士や代行業が流行るのもうなずける。  
古い慣習や制度、規則、通達類を、例えば10年ごと、20年毎など、一定期間で廃止することを義務付けるなど、簡素化して行かないと、労働生産性も上がらないし、市場参入などへの阻害要因がアルバム式に増えることになる。
 古い制度や規則を時代の変化に伴い漸次廃止していく意識と努力が必要だ。元号はその一つで、西暦年号の使用を一般化すべきだ。少なくても、地方公共団体を含め、行政への申請書類は西暦年号記載を認めるべきであろう。
 新元号の選定についても不明朗だ。政府は‘新元号選定委員会’を設け、数名の委員を任命しているが、明治天皇時代への復古的思想の強い日本会議のメンバーである女性作家はじめ財界の長老格やなどが中心で、偏向が強く、これが日本国民を代表しているとも思えない。
 元号の使用(その場合必ず西暦年を併記)は、宮中行事の他、憲法に規定されている天皇の「国事行為」に限定すべきではないか。それ以外については、元号使用は任意とし、西暦年号を認めるべきであろう。元号は日本独自の文化であり、伝統であるので、それを保存して行くことは大切であるが、世界がグローバル化し、各種の度量衡、基準、標準などが国際基準で統一されている今日、日本だけが「元号」表記を強要することは、ジャパン・オンリーの独りよがりであり、日本を更に‘ガラパゴス化’して行く恐れがある。現在、世界の人々は、日本の文化や伝統的な技能、技術、建築、日本食などを個々の目で評価しており、ジャパン・オンリーをことさらに強要する必要はなくなって来ていると言えよう。
(2019.5.2.再改定 )
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