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「太王四神記」 高句麗の歴史

2015-11-24 | 韓国史劇・ドラマ・映画
「今回観た「太王四神記」は高句麗時代のお話で、知識が無かったのでちょっとだけ
調べてみました。
ドラマの中でも高句麗の史実がたくさん出てきて面白かったです。
赤字の辺りがドラマの話の中にも出てきました。



■高句麗の建国

百済(ペクチェ、くだら)・新羅(シルラ、しらぎ)と並んで朝鮮三国の一つとして知られる高句麗(コグリョ、こうくり)は、
古代東アジアの大国だった。
『三国史記』に記された高句麗の始祖伝説では、始祖の朱蒙(しゅもう、第1代東明王)が扶余(ふよ)王から迫害されたため南に逃れ、
現在の遼寧省桓仁地方の卒本(チョルボン、そつほん)で紀元前37年に高句麗を建国したと伝える。

※ドラマの「朱蒙」をまだ観たことがないので観たいです。


■ドラマの中の高句麗

342年、前燕の慕容皝(ぼようこう)は5万の軍勢を率いて丸都を襲い、高句麗に壊滅的な打撃を与えた。
前燕の軍隊は、前王の美川王の墓を暴いて屍を奪い、王母や王妃を捕らえ、宮殿を焼き払い、
略奪の限りを尽くした。第16代・故国原王(在位331-371)は前燕の臣下となり朝貢する
ことで、
この難局を乗り切ったとされている。

※この捕虜となった王妃が故国壌王の母で、その際、すでに故国壌王を身ごもっていたから間違いなく
高句麗の王家の血族なのだが、ようやく高句麗に戻った時には敵国の王の間に生まれた子として噂され、
王族とは認めてもらえなかったと話していた。


美川王の時代に開始された南進は、南部から勃興してきた百済(ペクチェ、くだら)とも戦火を交える
こととなった。北進を企てる百済は旧帯方郡の土地を奪ったため、369年、故国原王は百済を攻撃したが敗退した。
2年後の371年、故国原王は平壌地方を襲ってきた百済軍を迎撃したが、そのとき流れ矢に当たって戦死してしまった。

※高句麗の人たちが百済を敵視していた所以がこのところにあるのだなと思った。

このように西北と南の両方に対抗勢力が登場したことで、百済は再び新たな試練に立たされた。
戦死した故国原王のあとに即位した小獣林王(在位371-384)と故国壌王(在位384-391?)の兄弟は、
国政の立て直しを迫られた。

小獣林王の時代には中国の前秦から仏教が伝えられ、また律令が制定されたという。
故国壌王の時代には、宗廟が建てられ、礼制が整えられたという。

※ドラマでは小獣林王(兄)と故国壌王(弟)がタムドクにチュシンの王として
お前に高句麗の未来を賭けたのだと言っていた。

■広開土王(タムドク)
試練をくぐり抜けて回復の兆しを見せた391年、広開土王が第19代国王として即位した(在位391-412)。
広く領土を開いた王という諡号を持つ王の一代は高句麗の領域を飛躍的に拡大させた時代だった。

※このたくさんの城を落として国土を広げていく様子が描かれていて面白かった。

王の死後、その陵墓のほとりに建てられた巨大な広開土王碑には、王自らが出征を重ね、
百済とそれを後援する倭や任那加羅、安羅と戦った戦績が誇らしげに刻まれている。

とくに、396年の親征では、百済の王都・漢山城(ハンサンソン、現ソウル江南)を襲って、
阿華王に忠誠を誓わせ、人質・貢ぎ物をとって58城邑の700村を奪取して凱旋した。
398年には、東北の粛慎に軍を派遣して、300余の捕虜を獲得し、朝貢を促した。
400年には新羅からの救援要請をうけて5万の兵を新羅に派遣し、
新羅王都にいた倭軍を駆逐し
、さらにそれを追って任那加羅(金海)まで進み、安羅の守備兵とも戦って勝利した。
404年には、倭が海路、帯方郡の故地に侵入したが、王が親征して排除した。


歴史ドラマは史実と読み合わせていくと本当に面白いです。

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