2冊目
🔵『下山の思想』(五木寛之 著)
💀私たちは、すでにこの国が、
そして世界が病んでおり、
急激に崩壊へと
むかいつつあることを
肌で感じているからではあるまいか。
知っている。
感じている。
それでいて、
それを知らないふりをして暮らしている。
感じていないふりをして日々を送っている。
明日のことは考えない。
💀考えるのが耐えられないからだ。
いま現に進行しつつある事態を、
❌直視するのが不快だからである。
明日を想像するのが恐ろしく、
不安だからである。
しかし、私たちは
いつまでも目を閉じているわけにはいかない。
事実は事実として受けとめるしかない。
いま、未曽有の(とんでもなく悪い)時代がはじまろうとしている。
いや、すでにはじまっているのかもしれない。(『下山の思想』2011年2月10日 第1刷発行)
私たちがそれに気付かなかっただけなのだろうか。
いや、それもちがう、という声がどこかできこえる。
気付かなかったのではない。
気付いていながら、
気付かないふりをしてきたのだ。
とんでもない世の中になってきたぞ、
と実感しながら、
それを無視してきたのである。
しかし、その知らんぷりも、
もうできなくなってきた。
つまり私たちは、
未曽有の時代に直面しながら、
なすすべもなく、
ほとんど傍観しているのではあるまいか。
東日本の大災害と福島原発の事故は、
大きなショックだった。
しかし、いまでは復興と除染がもっぱらの話題である。
それはなぜだろう。
放射能の深刻な事態を知りつつ、
それが社会全体の
持続したテーマとならないのは、なぜか。
わたしが思うに、それは人びとが、
私たちの住む世界は、
すでに十分汚染されつくしていることを
感じているからではないだろうか。
レイチェル・カーソンが、
『沈黙の春』を発表したのは、1962年だった。
公害という名の自然の破壊は、
1962年、その前にすでに限界をこえていたのである。
大気圏・宇宙・水中での核兵器実験が条約で禁止されたのは、
1963年のことだ。
それまでのやりたい放題の核実験によって、
空も、
海も、
野山も、
十分に汚染されてしまっていた。
それは常識といっていい事実だろう。
ローマの歴史的遺産といえば、
まずコロッセウムである。
5万人を収容するといわれる巨大競技場の遺跡だ。
そのコロッセウムの大理石からも、
微量の放射能が検出されるという。
あるテレビ番組は、
それを、地上のどこにでもある自然の放射能の一例としてコメントしていた。
しかし、チェルノブイリ原発の事故で、
ヨーロッパ諸国はもちろん世界中に、
1億キュリーの放射性物質が拡散したことを考えれば、
それも当然だろうと思う。
福島原発の事故による日本海の魚介類の汚染は深刻である。
その他の食物も、記載された産地に関係なく問題があるのは当然だ。
しかし、多くの人びとは嬉々として回転寿司の店に集まり、
私自身も週に1回は焼肉屋に通う。
誰もほとんど気にしていないかのようだ。
それはなぜか。
私たちはすでにこの国が、
そして世界が病んでおり、
急激に崩壊へとむかいつつあることを
肌で感じているからではあるまいか。
たとえばダン・ペンの ♪『ザ・ダーク・エンド・オブ・ザ・ストリート』。 不倫関係の歌だが。 自分のしていることはこれでいいのか❔と、 人間は多少の罪悪感を持たねばならないと思う。 罪悪感というのは自己反省。 内省の一種ではないだろうか。 「『テーマ(世の中に伝えたいことや心の叫び)』 なんて別にない」 などと言う文学者は 文学者ではないのだ。 世界中に取り組まねばならないテーマは山積みなのに。 心にこれでいいのか❔ とさざ波が起きるのが人間らしさのあらわれ。 ~『The Dark End of the Street』Dan Penn~ 五木 そういうふうに 私たちが一生懸命、 乾いた社会、 乾いた文章、そして 乾いた人間関係を求めてきた結果、 どうなったかということを 50年たってふり返ってみますと、 私たちは実に見事に、 めざしたものを実現したという 苦い後悔があります。 私たちは人間関係においても、 そして、この社会のありかたにおいても 乾ききって、 ひょっとしたら、 もうひび割れかかっているのではないか、 と思うような世の中をつくりあげてきてしまった のではないでしょうか。 では、ぼくたちがこれから生きてゆく時代というのは、 どういう時代なのでしょうか。 千年単位の世紀末ということを 前にもいいましたけれども、 ぼくらの前には、 もう一ぺん新しい 戦後の焼け跡・闇市というものが ひろがっているのではないか。ひろがっていながら、 じつはぼくらにはそれが 見えていないだけのことなのではないか、 そう思えてならないのです。 👩五木さん、 うちの子が不思議がってわたしに 食ってかって質問するのです。 親のわたしでは答えがわかりません。 👧五木さん、素朴な疑問です。 1人の命を奪っても死刑になることがあるのに、 たとえば100万人の人間の尊い命を奪っても なぜその人はすぐに裁かれないのですか? 理不尽の極みです‼️ たとえば100万人ですよ‼️ 許せないでしょう?
👴民主的な国 日本と、 党が1つだけの独裁国家の大きな差異なんだ。 👨ネットが浸透して、今の今まで知ることが出来なかった超合金なベールの向こうの出来事が白日に曝(さら)され、見聞できるようになった。 👩👧民主的な私たちは 独裁国家の国民の日々の生活に驚愕し、 はじめは信じることができず、 だんだんそれが真実だと理解すると、 怒りと恐怖と悲しみでただ立ちすくむ。 しかし、決してスルーせず、 まず学ぶことから始めよう。 👴松下幸之助さんは、 ❇️『衆知』が必要だとおっしゃっている。 ❇️1人が1人だけで重要な物事を決定してはいけない とおっしゃっている。 👨上の質問の答えがわかった。 国ごとに人間性の進化の度合いが異なるため、 国ごとに『憲法』が違う。 人としての進化が遅れた国の憲法は、 丘の上のトップたちをまもるためにつくられており、 憲法はトップたちが裁かれないために存在する。 日本などの国の憲法は、 トップが何か悪事を働かないか 監視塔から監視するために存在し、 また、日本国民をまもるためにあるんだ。
👴👨👩👧👶はじめまして。こんにちは。
私たちにとってブログは、
安アパートや地下鉄、公共トイレの壁の落書きです。
❇️このブログは別名「『🎵サウンド・オブ・サイレンス』の落書き」です。
どうぞよろしくお願いします✨
落書きの始まり、始まりです✨
「1人で見る夢は ただの夢だけど、
みんなで見る夢は 現実になる」(オノ・ヨーコの言葉)
だから自分が学んだことは 自分のところで終わらせたりしません。
人に伝えることは情報共有。
人に教えることは時間短縮。
好きな本
1冊目
📖『父が子に語る昭和史』保坂正康 著
この本で著者の保坂さんは言う。
「政治や経済など、大きな視点だけでなく、
普段何気なく見かける駅や 街の姿など、
目の前の光景の背景に
❇️どのような人間の意思があるか。
それを見つめる眼を養うことが、
今 必要とされている【歴史を学ぶ姿勢】である。」
好きな本
2冊
📖『下山の思想』五木寛之 著
❇️真実は怪(あや)しさのなかに
たとえば怪しい「トンデモ本」のなかに。
「「トンデモ本」というのは、現実社会の反面鏡だ。
ケネディ暗殺の真相や、9.11の陰謀や。
フリーメイソン(イルミナティ、ロックフェラー家、ロスチャイルド家など)、
歴史を動かす秘密結社の話。
こういう本を「トンデモ本」と呼んで、
ひとくくりにするのは間違いかもしれない。
説得力があり、一面の真実が行間に詰まっている。
「トンデモ本」には一面の真実が隠されている。
「トンデモ本」あつかいされている本のなかにも、
名著といっていい本がいくつもある。
部分的にはデタラメだが、
結論は正しいというのも、
そのたぐいの本だ。
論理はメチャクチャだが、
❇️著者の直観が真実に迫っていることもある。
そもそも地動説だって、
トンデモ本のたぐいと見なされたはずである。
地球が丸いなどという話も、
昔はトンデモない説だったのだろう。
真実は怪しさのなかに
私は「トンデモ本」という表現を、
上から目線で使いたくはない。
軽んじてもいない。
❇️真理は幾百の「トンデモ本」の中に埋まっているように思う。
常識に反する著書を、
簡単にひとことで「トンデモ本」と馬鹿にするのは
大きな間違いだろう。
❇️真実は必ず一種の怪しさを漂わせて世にあらわれる。
堂々たる真実などはない。
「トンデモ本」と称される本のなかに
大事なことがかくされている。