私の轍 第4回

2022-03-05 16:50:16 | 日記
(ウクライナ侵略がえらいことになってる中で、日常生活も何やかやあって、気が付きゃ、第3回 高校生活①が無い、手入れしようと思って、少しの間、そのままにしておいたら、無い!!  プレビューまではできたのに、どっか行ってしまった???
 ということで、できるだけ早く 第3回をアップしますので、この第4回を読むのを待ってネ
4 高校時代② 続
③ 学び・進路
● 3年生となる。さすがに、受験プレッシャーはかかってくる。文系・理系・文理系のクラスわけで私は文系にしたのだが、2年生の親しい友人の多くは理系・文理系に行き、クラス内に見知ったものはあまりいず、ひたすら暗い受験生となったのである。青春の悩み多き時期だった。(だから、当時のカリキュラムでは、数学Ⅲの微積分や行列・確率などは全然学ばなかったことは、後から考えると残念んzことだった。)
● 一つは大学進学か?就職か?の進路についてである。当時は、大手前といえども少数ながら就職者もいた。家に帰ると長兄と次兄が父に仕込まれながら、大工修行に励んでいる。建築ブームの時流に乗って家業は成功してきたとはいえ。大きな店ではなく、数人の大工職人と息子2人がいる。3人もいらぬ。私はと言えば、勉強はよくできるが、不器用で大工は不向きだから、「好きな方面に行け」と言われ大学進学を目指した。兄姉4人いても、大学に行った者はだれもいない。なかでも長兄は学業面もかなりでき大学進学の意思も成績も備わっていたように聞く。しかし、父は認めなかった。父と長男の確執めいたものを、高校生くらいになると感じていた。自分の勉強部屋は道路に面した二階にあり、向かい側は建築現場の資材置き場兼作業場があった。作業の音が聞こえてくると、自分一人がのうのうと受験勉強をしていていいものかと悩んだ。大学に進学することに後ろめたさを抱えていた。だから、授業料の高い私学は鼻から受験する気はなく、ダメなら就職しようと決意した。
● 今一つは、2年時に憧れていたマドンナに対して本気で人を恋うる感情が強まった。かつての青年が愛読書としていた安倍次郎の「三太郎の日記」で鎮めようとした。この本に触発されて、哲学的なしこう志向であり、
思考でもあり、嗜好でもあった)に興味を持った。試行敵に、ニーチェの「ツアッラートストラかく語りき」を読んだ。2年生の時だったか、堀江謙一さんの「太平洋ひとりぼっち」が評判になった時で、所詮世界は違うので憧れ以上のものではなかった。「哲学」に関して生齧りの知識でも知っていることが、私の知的プライドだった。
国語の時間に例の楊貴妃好きの元担任から、弁証法を説明するに当たって私に「知ってるか」と尋ねたのでドイツ語の「アウフヘーベン」と答えて得意になったことはいまだに記憶に残っている。
● 受験勉強については、文系で上述のような哲学しこうもあるからして、一番得意にしていたのは、現代文の評論である。文法的知識の欠如していた(真面目に努力しなかった)古典は苦手で合計は大したことはなかったが、小説・評論・古文・漢文で25点づつの配点中25点は任せとけくらい
の自信を持っていた。社会や英語はまあまあだが、数学は分からないのではないのだが点数がとれない。よくできる友人に相談したら、当時出版されていた「大学への数学がいいぜ」ということで、夏休みに2回仕上げた。2学期になってからの校内模試や、腕試しの予備校模試でも何とかなると思うようになった。
● そこで、大学選びである。文学部に照準を定めたが、京都・大阪・神戸の中でいずれを選ぶかが問題である。当時の試験は3月上旬一斉で、入試科目に違いがあったが、今のような偏差値で判断するという風習はなく、担任は「受けたいところを受けよ」以上のことは言わない。(そもそも進路指導という観念そのものが大手前の教師には無かったのかもしれない。)理科は京大だけ2科目、阪大・神戸は1科目で、生物の対応をしていたが、そのあたりが一番のネックであった。他の多くの級友とは違い、浪人は許されぬ、私学には行く金がないと思い込んだ上で、父に言った。冒頭の生い立ちところで述べた「鏡台、飯台、寝台」のダジャレ、諧謔の話に、気も楽になり、2科目目の「化学」に急遽取組み京都を受験することにした。京大の数学は難関という話だが、合格したのは分からなかった数学で点数が取れたおかげと思っている。

④ 青春いろいろ
● 陸上部や2年時のクラス仲間以外にも、よく付き合ったグループがいた。東京の山手線を夜中に徒歩で歩いた話題になった大学生の弟が、われらも規模は小さいが大阪環状線徒歩1周をしようと企画した。私もなぜか誘われ、民放に計画を持ち込み、各駅に着くたび電話し、電波に乗せてもらったのである。その時のメンバーに誘われて、小坊主修行をすることになった。二人の友人のどちらかがお寺さんに知り合いがおり、「大徳寺は大仙院で、受験勉強しないか」という誘いに安易に乗り、1週間ほど生活したのだ。馬鹿だね俺も! 寺では早朝に起き、まずは掃除、座禅の真似事をして、昼間に勉強したというもの。私たち3人の生活指導係が尾関宗園さんという方で、楽しい思い出となった。これを書いているにうちに懐かしくなりWEB検索すればこのあとすぐ、住職となり著作・テレビも含めた説法で有名となった僧侶であった。
● この友人に誘われ、今で言うボランティア活動にも2~3回参加した。知的障害児の宿泊施設で労働奉仕し、職員や園児と交流するというもの。
 この活動は、大学入学後に本格的にやりだすので、詳細はそこで記す。
● 2年生の時、政治にも目覚めた。部は陸上だったが、別のクラブの尊敬できそうな先輩に誘われ、ある会合に呼ばれた。20人くらいだったか?何人か見知った顔もあり、熱心に討議していた。場の中心にいたのは、文化祭で演劇のヒロインを演じていた女性だった。それこそ、校内一のヒロインだ。社会問題や政治について熱っぽく論議する姿に感動した。2回目に行ったときは、様子も知れたことだし、大して心動かされることもなかった。他の人から、子のヒロインの父は、政党色明らかなバリバリの市会議員と聞いて、「なるほどな」と思い、それ以降参加することもなかった。