私の轍 WatashiのWadachi 第3回
読者の皆さん、申し訳ない。これがアップされずに、第4回が先に出たなんて・・
第1章 4 高校時代
① カルチャーショック
● 多くの皆さんもそうであるように、高校生活によって世界が格段に広がり、少なからぬカルチャーショックを受けた。
中間考査 教師「数学試験範囲、P○までと、問題集の何番まで」 生徒「問題集で分からない所があるんですが」 教師「次の時間は先に進まず、問題集の質問タイムとします」。 私(内心)「何 それ。そういえば一緒に買わされたなあ。授業でちっとも使わなかったから、参考に持ってるだけやと思っていたが・・ それよりビックリしたのは、それをやっているやつがいたこと。 次の時間 私(内心)「エ! こんなにたくさんのやつが質問するなんて・・ゲゲ 」
音楽の授業でレコード鑑賞などすれば、冒頭の部分で曲名を言い当てるやつがいる。
1時間目の授業に遅刻した生徒が教師に叱責された。「遅刻の理由は?」「本を夜中まで読んで寝不足で朝起きられませんでした」「そうか、何の本を読んでいた」「ソクラテスの弁明」 中学では当時ほとんどが丸刈りで、高校では頭髪を伸ばすことが一つの楽しみになっていたものだが、まだ、いがぐり頭のままの生徒が、教師とこんなやり取りをしている。
誕生日パーティに御呼ばれに行ったら広い屋敷の庭で、初めて食するような料理を用意するお嬢様がいる。ハイソサイティの子女のように見えた。
● 昭和36年4月、守口一中から大手前高校に進学したのは6名ほどであったと思う。多くは市内有名中の出身者で、東中や船場中といった中学名、あと守口に近い旭区の中学の出身者だったと思う。しかし、小学校で見知っていたのに、中学では姿を見なかった者、あるいは、当時の5学区制での京阪沿線で言うと守口や門真までのはずなのに、枚方からかよっていた者も多かった。ナンデヤネン! 形式的には越境入学の禁止と言われていたようだが、内実はざるの底だった。守口一中出身と言っても、認知もされておらず、マイノリティとして高校生活はスタートしたわけです。
② 部活動
● バスケット部の練習を見に行く。中学府予選の準決勝で完璧に抑えられた旭東中新入生の選手が、先輩にぼろくそに怒られている。
「アカン、バスケは無理。僕は陸上に入って、ひたすら、この大阪城のまわりを走ろう」と決めて陸上部に入りました。弱小クラブでインターハイにひっかかるような選手もおらず、上級生はと言えば、中長距離・跳躍・ハードル・投擲などはほとんど一人の状態で、400リレーがなんとか出場できるくらい、当然私も、指導者もおらず、他の部員と同じようにスタート練習をしたあとは、一人でフラフラと大阪城の周りを指導者もおらず、ふらふらとjogしていました。だから、戦績など恥ずかしいもので、大阪の大会などでは、いつもビリにはなるまいという有様でした。初めてのインターハイ大阪府予選5000mに出場しました。当時高校No1の日本記録を作った沢木圭介?が3年生で同じ組です。400mトラックを12周半するわけですが、2周抜かれました。横を風が通り過ぎるようでした。それでも、素人とは練習量も違うので、3学期の寒い時期に学校行事としてあるマラソン大会には、2年の時には優勝したものです。おまけがついておって、昔の女学校の伝統からか、金蘭祭?とかいう自治会主催のキャンプファイアーが当時は開かれておったわけですが、その点火役が、前年のマラソン大会の優勝者なのです。後に、大手前出身の後輩の女の子が、「あの時の、Aさん、かっこよかった」とかいっているではありませんか! 惜しいことをしました。そんな時期もあったのです!!
③ 2年のクラス
● 2年になると、高校生活が楽しくなっていった。友人も増えた。それまでの学級担任が府教委の指導主事と抜かれたあと、大学卒後間もないと思われる若い教師に替わった。中文を専攻していたようで、「楊貴妃の沐浴の下り」など、ヤニ下がって嬉しそうに講義していたことを思い出す。
しかし、教師としては経験不足から、学級経営など念頭にも無ければノウハウも持っていない。生徒二人の個人懇談をよびかけられ、当時仲のよかった友人と担任の下に行ったのだが、先生からの話とてない。気の毒になり、友人と二人で話題を探して喋っていたことを思い出す。クラス経営も、ホームルームの運営も生徒にほとんど任されていた。ということは、出席番号1番だから学級代表の私の責任は重大だ。ホームルームの時間を仕切るはめになった。学園ドラマみたいに、何回も討論会を続けたりする一方、休み時間には即決のトランプに興じたりして、忘れられないクラスとなった。男女の関係なく「仲良し」だった。中国・九州方面への修学旅行も忘れ得ない。3学期、盛り上がりクラスの解散会をやろうという話になった。学校の近所に医者の息子(木本君)が住んでいるので、そこの1室(といっても、広間が凄い)を借りることに話がついた。学級委員長としては、後顧の憂いを残さぬよう、担任に通告しておいた。デ゙、あやふやな記憶であるが、30人くらいは集まったと思う。それもビール抜きで、よくあれだけ盛り上がれたものと思う。(純朴であった・・酒なしで・・)
● 勉強のできるやつも多かった。例えばK君。模擬試験でトップの座を譲らなかったK君は、早くから東大間違いなしという折り紙つきだったが、「僕は数学の岡潔先生に習いたい。(当時)奈良女の先生で女子大には行けないが京大には講師で来ている。だから、京大に行く」と宣言していた。しばしば、短い鉛筆をなめ、手帳を開けては何か書き付けている。「何をしている」と尋ねると「思いついた俳句を忘れないよう書き留めている」とのこと。また、カナヅチなので「泳げるようになりたい」という理由で水泳部に入ったという人物。彼は、私が3年で悩んだときはカウンセラーになってくれた。どんな人生を歩むかと思ってたら、やはり大学の数学の先生となった。他にも難関大学や医学部に行った者も多かった。
読者の皆さん、申し訳ない。これがアップされずに、第4回が先に出たなんて・・
第1章 4 高校時代
① カルチャーショック
● 多くの皆さんもそうであるように、高校生活によって世界が格段に広がり、少なからぬカルチャーショックを受けた。
中間考査 教師「数学試験範囲、P○までと、問題集の何番まで」 生徒「問題集で分からない所があるんですが」 教師「次の時間は先に進まず、問題集の質問タイムとします」。 私(内心)「何 それ。そういえば一緒に買わされたなあ。授業でちっとも使わなかったから、参考に持ってるだけやと思っていたが・・ それよりビックリしたのは、それをやっているやつがいたこと。 次の時間 私(内心)「エ! こんなにたくさんのやつが質問するなんて・・ゲゲ 」
音楽の授業でレコード鑑賞などすれば、冒頭の部分で曲名を言い当てるやつがいる。
1時間目の授業に遅刻した生徒が教師に叱責された。「遅刻の理由は?」「本を夜中まで読んで寝不足で朝起きられませんでした」「そうか、何の本を読んでいた」「ソクラテスの弁明」 中学では当時ほとんどが丸刈りで、高校では頭髪を伸ばすことが一つの楽しみになっていたものだが、まだ、いがぐり頭のままの生徒が、教師とこんなやり取りをしている。
誕生日パーティに御呼ばれに行ったら広い屋敷の庭で、初めて食するような料理を用意するお嬢様がいる。ハイソサイティの子女のように見えた。
● 昭和36年4月、守口一中から大手前高校に進学したのは6名ほどであったと思う。多くは市内有名中の出身者で、東中や船場中といった中学名、あと守口に近い旭区の中学の出身者だったと思う。しかし、小学校で見知っていたのに、中学では姿を見なかった者、あるいは、当時の5学区制での京阪沿線で言うと守口や門真までのはずなのに、枚方からかよっていた者も多かった。ナンデヤネン! 形式的には越境入学の禁止と言われていたようだが、内実はざるの底だった。守口一中出身と言っても、認知もされておらず、マイノリティとして高校生活はスタートしたわけです。
② 部活動
● バスケット部の練習を見に行く。中学府予選の準決勝で完璧に抑えられた旭東中新入生の選手が、先輩にぼろくそに怒られている。
「アカン、バスケは無理。僕は陸上に入って、ひたすら、この大阪城のまわりを走ろう」と決めて陸上部に入りました。弱小クラブでインターハイにひっかかるような選手もおらず、上級生はと言えば、中長距離・跳躍・ハードル・投擲などはほとんど一人の状態で、400リレーがなんとか出場できるくらい、当然私も、指導者もおらず、他の部員と同じようにスタート練習をしたあとは、一人でフラフラと大阪城の周りを指導者もおらず、ふらふらとjogしていました。だから、戦績など恥ずかしいもので、大阪の大会などでは、いつもビリにはなるまいという有様でした。初めてのインターハイ大阪府予選5000mに出場しました。当時高校No1の日本記録を作った沢木圭介?が3年生で同じ組です。400mトラックを12周半するわけですが、2周抜かれました。横を風が通り過ぎるようでした。それでも、素人とは練習量も違うので、3学期の寒い時期に学校行事としてあるマラソン大会には、2年の時には優勝したものです。おまけがついておって、昔の女学校の伝統からか、金蘭祭?とかいう自治会主催のキャンプファイアーが当時は開かれておったわけですが、その点火役が、前年のマラソン大会の優勝者なのです。後に、大手前出身の後輩の女の子が、「あの時の、Aさん、かっこよかった」とかいっているではありませんか! 惜しいことをしました。そんな時期もあったのです!!
③ 2年のクラス
● 2年になると、高校生活が楽しくなっていった。友人も増えた。それまでの学級担任が府教委の指導主事と抜かれたあと、大学卒後間もないと思われる若い教師に替わった。中文を専攻していたようで、「楊貴妃の沐浴の下り」など、ヤニ下がって嬉しそうに講義していたことを思い出す。
しかし、教師としては経験不足から、学級経営など念頭にも無ければノウハウも持っていない。生徒二人の個人懇談をよびかけられ、当時仲のよかった友人と担任の下に行ったのだが、先生からの話とてない。気の毒になり、友人と二人で話題を探して喋っていたことを思い出す。クラス経営も、ホームルームの運営も生徒にほとんど任されていた。ということは、出席番号1番だから学級代表の私の責任は重大だ。ホームルームの時間を仕切るはめになった。学園ドラマみたいに、何回も討論会を続けたりする一方、休み時間には即決のトランプに興じたりして、忘れられないクラスとなった。男女の関係なく「仲良し」だった。中国・九州方面への修学旅行も忘れ得ない。3学期、盛り上がりクラスの解散会をやろうという話になった。学校の近所に医者の息子(木本君)が住んでいるので、そこの1室(といっても、広間が凄い)を借りることに話がついた。学級委員長としては、後顧の憂いを残さぬよう、担任に通告しておいた。デ゙、あやふやな記憶であるが、30人くらいは集まったと思う。それもビール抜きで、よくあれだけ盛り上がれたものと思う。(純朴であった・・酒なしで・・)
● 勉強のできるやつも多かった。例えばK君。模擬試験でトップの座を譲らなかったK君は、早くから東大間違いなしという折り紙つきだったが、「僕は数学の岡潔先生に習いたい。(当時)奈良女の先生で女子大には行けないが京大には講師で来ている。だから、京大に行く」と宣言していた。しばしば、短い鉛筆をなめ、手帳を開けては何か書き付けている。「何をしている」と尋ねると「思いついた俳句を忘れないよう書き留めている」とのこと。また、カナヅチなので「泳げるようになりたい」という理由で水泳部に入ったという人物。彼は、私が3年で悩んだときはカウンセラーになってくれた。どんな人生を歩むかと思ってたら、やはり大学の数学の先生となった。他にも難関大学や医学部に行った者も多かった。