山王アニマルクリニック

日々の診療、いろんな本や音楽などについて思い巡らしながら、潤いと温もりのバランスを取ってゆこうと思います。

「ブレない」「迷わない」について 前編

2014-12-15 09:08:24 | 瑞々しき モヤモヤ?

 今回は、「ブレない」「迷わない」という言い回しについて気になることを書いてみます。

 それは~本当かどうか確認しようもない~唯一の絶対的真理みたいなものを、みんながほしがっている裏返しなだけで、そんな深く考えて「ブレない」とか言っているわけじゃないんだから……「言葉にとらわれ過ぎじゃない?」という声も聞こえてきそうですが、もう少し掘り下げてみようと思います。

 「なんかうまく説明できないけど、好きなんだよね~」という感じで、「好き」という感情に理屈はいらない!なんて言われますよね?

 理屈はいらないのならば、頭で理論的に考えた上での「好き」ではないということになります。

 例えば、ピアノが好きという人でも、練習が大変だったり、ピアノが壊れてしまったのに修理するお金がなかったり、「才能がない」とか「うるさいからやめろ!」と誰かに言われたりして、理屈で言ったらやめた方がいい状況に追い込まれることだってありますよね?

 それでも本当に好きな人はピアノを続けます。言わばピアノバカです――こういう状態のことを「ブレない」「迷わない」として理想化しているのかもしれませんが、「バカと天才は紙一重」とも言いますよね。

 それから、そういう人は、本当にブレず迷わずなのでしょうか…前回も書きましたが、そんな状況なら少なからず揺らぐでしょう? 人間は「なまもの」なのですから…

 今までの自分を否定されるようなブレがあればこそ、「どうしたらいいのか?」を真剣に考えるのではないでしょうか。

 その過程を経た上で、妥協してでも(ある意味のブレ?)何とかピアノを続けられる道を探るのでは?

 このように、どんなことがあっても「好き」などのポジティブな感情の中に留まる…という意味で使われる「ブレない」「迷わない」ならば、実りある方向に行く可能性があるのでしょう。

 でも考えてみると、本当に大切なのは、ブレたり迷ったりしないことなのではなくて、しなやかに「好き」に戻るコシの強さなのだと思います。

 逆にどんなにそれを覆すような良いことがあっても、「嫌い」というネガティブな感情の中に留まるならば、どうなるでしょう? 

 そんなネガティブで強気な方向にも使われちゃってるケースもけっこうあるように感じます。

 まあ心は常に動いているので…「嫌い嫌いも好きのうち」というように、嫌いの裏返しの好きや、好きの裏返しの嫌いもあったりもするんですよね。

 そういったことは、いくら優秀なコンピューターでも白黒つけることができないでしょうから、かなり複雑です。

 また、これらの言葉を聞く時って、自分の主張を絶対曲げないような頑固な人や、顔をしかめた怖そうな人に対して、もっと頭の柔らかそうな人が本人に気付かれないように?ちょっとした皮肉を込めて?――皮肉を込めている意識はなくても、「もうちょっと柔らかくなった方が…」という無意識の気持ちがソフトに現れ?――これらの言葉を使われているケースもありますよね。 

 「~ちゃんはブレないよね」みたいに……

 若い人たちは、自分自身も含めてよく観察してみて下さい…人の心とは裏腹なもので、「ブレない」なんて自ら言っていたり、「ブレてる」的なダメ出しをよくする人ほど、ブレブレだったりするのです。

 口で言うだけだったら、誰にでもできます…そういう人が言っていることではなく、実際にやっていることを見ていると気付くはずです。

 「ブレない」「迷わない」と言いつつ、心にゆとりがなさそうなイライラ顔をしていたり、鋭いツッコミをいれると目が泳いでいたり、迷いある目をしていたりする人がいるでしょう? 

 でも、本当に全くブレてない人はだだの頑固者なだけかもしれませんよ?

 口では「ブレない」とか言いつつ、実際にはブレている人の方が、ある意味ではマシなのかもしれません……だって世の中は矛盾しているんですから!

 現実に合わせたら?そうするしかない時だってあると思います――ブレな過ぎるほどお堅いと、ポッキリ折れるしかなくなってしまうのです!

 人間自身も矛盾だらけの存在なのです。「矛盾はいけない」は、もっともな正論ですが、それを強く言い放っているうちは、世の中の表面しか見えていないので、悩みは深まるばかりだと思います。

 例えば「勉強しなきゃいけないのはわかっているのに、やる気が起こらない」とか「どうしてもダイエットしたいのに、つい食べてしまう」とか、これって矛盾してるでしょう?

 理屈通りにできないことは誰にでもあるはずです。多くの人がそうであるからこそ、巷には「誰でも簡単に早く理解できる勉強法」とか「食事制限、運動不要のらくらくダイエット法」みたいにホンマでっか?な本があふれるのです。

 「他の人より真面目にやってるのに、なんで私は報われないんだろう?」などと思っている人は、自分の中にもある矛盾に気付き、「矛盾はいけない」を少しだけでも手放すと(全部手放してしまうと危険!)、肩の荷がちょっと降りるかも?しれません。

 そんなに甘くないかな? こんな説教臭い長文を若い人に向けて書いても何かを変えられるわけではない……そんなこと、わかっちゃいるけど書いてしまう……これも矛盾しているでしょう?――自分の心に浮かんだことをつなげて整理しているだけです(自己満足)。 

 まあ、ブレブレで迷走してばかりでも、いろんな人に相談するだけで自分の脳ミソを使っていないケースもありますね。そして最終的に、自分で決められないのならば信頼を失います――私は、そういうのを推奨しているのではありません。「過ぎたるは及ばざるがごとし」とバランスが大切で、なかなか難しいですね?

 では、どうすればいいのか?一つのヒントとして、注意しなければいけないことがあります。

 私は前回「絶対的なものなどないからこそ、人は絶対的なものにあこがれ、ブレて迷っている人が多いからこそ、〈ブレない〉〈迷わない〉が持てはやされる」と書きました。

 賢明な方々には言うまでもないことですが、この「絶対的なものはない」という考え自体さえ、絶対ではない。

 「〈絶対的なものはない〉という考えは絶対だ!」……そんな本末転倒な思い上がりを防ぐためには「絶対的な真理はある」と主張する人たちが必要である、とも言えるのです。

 その存在を感情的には全否定しても、総合的には肯定的に受け止める――そんな「しなやかさ」(これはブレても折れずに元に戻る力です)を抱けるといいですね!

 まあ、私自身もそういう絶対的な方向へ行きやすい頑固さをもっているからこそ、こんなことを書いているのでしょう。

 自分で気付かないうちに、そういうモードになっちゃうから恐いんですよね?心とは、気付かぬうちに自分自身さえもダマしてしまうことがあるのでお互い気を付けましょう。

次回は、もう少し具体的な例について書いてみようと思います。

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こころに すむ おおかみ

2014-12-12 19:47:37 | 瑞々しき モヤモヤ?
こころに すむ おおかみ (インディアンのティーチングストーリー)
oba,中村光宏HiroEagle,北山耕平
じゃこめてい出版

 何だか?また偶然のシンクロが…私が前回『古井戸に落ちたロバ』について紹介したのが11月22日だったのですが、文自体は18日に書き上げていたのです。

 投稿2日後くらいしてから、当ブログよりアマゾンに飛んで『古井戸に落ちたロバ』をチェックしてみると……なんと!11月19日に同じ出版社からインディアンのティーチングストーリーの2冊目「こころにすむおおかみ」という本が発売されていたですって~!?

 なんというタイミング!私は、この出版社の人と全く知り合いではなく、ネットでチェックも一切していなかったのに!

 なんとなく『古井戸に落ちたロバ』はとても良い本だから紹介したいな~と思って書いてみただけなんですけど……やはりご縁があるようですねぇ?

 『こころにすむおおかみ』というタイトルにも興味をそそられ、早速購入して読んでみました……これもいいですねぇ~すごくオススメです!

 obaさんの絵と色使いはシンプルで素晴らしい!なんというか?今回の本の方がより幼い心にも響くような気がします(実際、ウチの子の反応もいいです)。

 今の世の中って「ブレない!」「迷わない!」とか言うのがカッコイイみたいな雰囲気があります。

 様々な試行錯誤をしながら――その過程ではブレるだろうし、迷うでしょう?――困難を乗り越えた末に、そのようなモードに一時的にならなれるかもしれません。

 揺るがないほど好きなものを見つけた!とか、揺るがぬ信頼というような意味で使われる場合には、実りあるものとなる可能性もありますが、いずれにしても「ブレて迷った末に」という過程から切り離されてしまうと、その全能感は柔軟性のないものになってしまう危険性があります。

 絶対的なものを手に入れたと思えれば思えるほど、気付かぬうちにその部分の思考は停止してしまいます。

 絶対的なものなどないからこそ、人は絶対的なものにあこがれ、ブレて迷っている人が多いからこそ、ブレず迷わずが持てはやされるのです。そして、絶対に正しいものなどないのに、世の中では取りあえずの正しさ、一貫性が求められます。

 そんな矛盾した世の中なので、真剣に考えて生きている人ほど悩みの渦中にいます。

 「ブレない」「迷わない」と自ら言っている人は、真面目に努力してきた人とも言えるのでしょうが、その過程が大変であったならあったほど、たどり着いた境地が完璧である…と思い込んでしまいやすいのです。

 深く考えずに、(そうではないけれど)そうありたいという願望だけで言っている人も多いかもしれません。

 社会の中では表向きに、そんな一貫性が求められているので……本当は、すべての人の中に、自分を肯定したい気持ち⇔自分を否定したい気持ち、良心的な感情⇔ドロドロしたダークな感情など、少なからず相反するものがせめぎ合っている……という心の現実に向き合うのが難しくなっているのではないでしょうか?

 特に自分が正しいと思っていることを否定するような意見について真剣に考えたり、ダークな感情が自分の中にもあることを認めたりするのは、なかなか難しいですよね?私だって全然できていません。

 死に至る過程について書かれた『死ぬ瞬間』という本で有名な心理学者エリザベス・キューブラー・ロスの著作で「ヒトラーは、我々一人一人の心の中にいる」みたいなことが書かれていました。

 正直言って全否定したくなる言葉ですが、例えば「車にはアイサイトも付けたし、ドライブテクには自信があるから、人をひき殺すなんてありえない」と言っている人と、「ドライブテクはある方だし、アイサイトも付けたけど…気を付けないと、いつ人をひき殺してしまうかわからない」と言っている人のどちらが危険でしょうか?

 おそらく、この絵本は、心の中の「ホワイトなもの」と「ブラックなもの」のうち、よい子のみんなは「ホワイトなもの」を選ぼうね!――という直線的な意味だけが込められているわけではないのでしょう。

 そのような相反するものが、特に「ブラックなもの」さえもが自分の心の中に存在し、「ホワイトなもの」と現在進行形で闘いを繰り広げている…それを意識させることがポイントのような気がします。

 心の中の境界線は、かなり曖昧です……心とは、良い意味でも悪い意味でも驚くほどフレキシブルであり、正しさの重圧が逃げ場を失うと、正反対の方向へ転化してしまうことがあるのです。

 たぶん、この本には、そう言ったことを踏まえて、子供たちへ、ブレて迷ってもいいから――正しさを一方的に押し付けるのではなく、自分の頭でしっかり考えて!という意味――その過程の中でしなやかな心を形作り、最終的には「ホワイトなもの」を友としようというメッセージが込められているのではないでしょうか?

 それにしても、あとがきを読むと、インディアンの人たちの森羅万象すべては輪でつながっているという考えは、陰陽五行の更に原始形のような感じがしますね。

 このつながりが、ジブリによって映画化された『ゲド戦記』を生んだ?…という話は、また長くなってしまうのでやめておきます。

 『ゲド戦記』も、ジブリ映画の方は原作者ル=グウィンもダメ出しした的なことを翻訳してまで訴えているHPがあるくらい評判はイマイチのようです。 

 私は1巻だけ読んでジブリ映画を見たのですが、あまり詳し過ぎなかったせいか?良かったですけどねぇ(唐突に感じるシーンもありましたが)。

 制作前後にル=グウィンとの様々なすれ違いがあったようですが、監督の吾朗さんはものすごいプレッシャーの中、十分頑張ったと思います(普通の人には体験できないレベルのプレッシャーなので、精神的な孤独感↑)。 

 アマゾンのレビューを見てみると、酷評している人があまりに多くて驚きました。確かに何も予備知識なく観たら難しく感じてしまうかもしれません。

 でも、原作本の方は5つ星が多く好評のようです――日本の『ゲド戦記』は清水真砂子さんの翻訳で本当に良かったと思います。

 ル=グウィンはアメリカで実写版だかが作られた時も気に入らなかったようで、まあ要するに短時間でまとめるのは難しいってことだと思いますけど……? そして…あまりに人の奥深い領域をついているからこそ、このような混乱が起き、それが逆説的にこの物語が本物である証拠?――なんていう視点があることにも、気付いてくれるとうれしいですね。

 実際、『ゲド戦記』をからめて書いてみようと考えただけで、あれもこれもと様々な想念が心の中をよぎり、真剣に向き合えば向き合うほど混乱してわけがわからなくなってくるではありませんか!? 

 混乱と言えば、そもそもジブリが映画化する前の『ゲド戦記』は、知る人ぞ知る存在ではあっても、とても地味で『ゲド戦記』というタイトルだけでも子供達だけでなく大人をも遠ざけるには十分だと思いませんか?

 原題はEarthsea BooksEarthsea Cycleなどとなっているのに(アメリカでもいくつかの呼び名があるようです)?戦争ドンパチ物語っていうことでもないのに?なぜ「戦記」としたのでしょう? 

 いずれにしても、この物語は、こういう運命なのかもしれません……が、そのような経緯を考えれば、その存在を大きく知らしめた!というだけでも、ジブリのチャレンジに拍手を送りたいと私は思います。

 『ゲド戦記』は小学校高学年から(中学生以上?)向けらしいのですが、大人こそ読むべき本で、人によっては人生を変えうる本と言えるでしょう(宮崎駿さんは、この本を枕元に置いておいたそうです)。

 私も悩み多き自立する一歩手前の大学生くらいの時に、さりげなく手渡してくれる人がいたら?もっと色んなことに気付けたろうなぁ…と思います。

 でも?そのくらいの年齢だと、魔法使い的な話と聞いただけで鼻で笑ってバカにしてしまったかもしれません(『ゲド戦記』の影響を受けた作品が数多くあるせいで、新鮮味がなく感じられる可能性も?)。 

 ジブリ映画の方も『となりのトトロ』のような小さな子向けではないのは確かで、そのイメージで臨んでしまうと酷評につながってしまうのでしょう。

 まだ見ていない人は、おそらく?最低でも、自分の内面との戦いである1巻を読んでから見る方がいいと思います。

 小さい子には『こころにすむおおかみ』が、まずオススメですよ。そして、いつかは『ゲド戦記』を!

影との戦い―ゲド戦記〈1〉 (岩波少年文庫)
アーシュラ・K. ル=グウィン

岩波書店

 

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