新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

日本奴隷史 白銀海岸は日本の島原 天草四郎 天正少年使節

2019-06-27 11:03:03 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

 

アフリカには有名な「黄金海岸」がある。  

此処は何も金が採れたわけでも、それを積み出したからと付いた名称ではない。それは大陸奥地から捕らえられ、連れられてきた黒人の男女が、一かけらの黄金か、硝子の玉と交換に、遠いアメリカ大陸に売られていった、黒人奴隷の一大積み出し地だったゆえ、その名が伝わっているのである。 これは映画の「ルーツ」でも今は良く知られている。

だが「サイド・オブ・シルバー」つまり白銀海岸の名がある所が存在するのは、全く知られていない。 これは中世期の世界地図を見れば、ゴールドとシルバーの文字はどれにも載っている。 しかもそれは日本列島の九州の中程にある島原半島の突端から、口之津と呼ばれる原城の辺りである。 しかし、白銀と呼ばれてもそれは銀ではなく、火薬の七割を占める原料の硝石のキラキラした粉末だったらしい。

  黒色火薬というが、硝石が七割五分、硫黄一割五分、木灰一割を混ぜるため全体が黒くなるので、肝心なのは何といっても硝石で、これは昔も今も日本には一粒も産出されないものである。  余談になるが、スペインが開発した、強力な爆発力を持つ新チリ硝石が、織田信長爆殺に使われた詳細は「信長殺し光秀ではない」に詳細。  さて、当時此処を領していたのは後に長岡藤孝を変名する細川忠興だが、島原の三角湾には信長生前中は、京の出入りを見張るため丹波を領していた長岡の「長岡番所」と同じく 長岡番所を持っていて、そこでポルトガル人から硝石樽を仕入れていたのである。

そしてこの交易には日本から何を提出したかと言えば、人狩りをして集めてきた、日本原住民の男女なのである。 現在活字本として出回っている「細川家記」には、勿論こんな事は隠しこんで記されているはずもない。  いくら戦国時代といえ、硝石欲しさに同国人の老若男女がどんどん売られて行き、黒人奴隷と共に鎖に繋がれて死ぬまで、白人に酷使されていたとは多くの日本人は知らないだろう。
 
 戦国期は硝石欲しさに、切支丹大名と謂われる武将の中には、己の妻や娘まで売り払った者も居たという。  こうした「棄民」と呼ばれる国辱になるような存在は、日本では伏せてしまい、真実は隠しこまれている。だから一般の歴史書には出ないのである。 日本は明治になって、ボルネオやフィリピン、ハワイや米国本土、ブラジルなどに移民と称して大量の国民を送り出したが、実態は過酷な棄民以外の何ものでもない。後段では有馬で和蘭教科書として使用された「少年使節訪欧録」の抄訳の抜粋を記す。  
 
日本史では、「フランシスコザビエルが来日してから、おおいにキリスト教が広がり 切支丹大名も多くなり、信仰の為当時のルソンへ追われた高山右近の例もある」といったのが正史とされている。 しかし聖書の日本語訳の刊行も秀吉の晩年のことである。 大体が「ドリチナ・キリシタン」つまり「讃えんかな神を」といった一語だけで、言葉も意味も理解できぬのに布教など広がるはずが無い。  フロイスが残している記録でも、「入信してくる人間は信仰の為ではなく、教会は治外法権の 場所だから、人殺しや盗人が隠れ場所としてくるだけで、言語が通じぬゆえ教化は困難だ」 と記している。
 
 それなのにイエズス派が東洋で何故に布教したのかといえば、ヨーロッパがプロテスタンの新教に脅かされたカトリーコの旧教が、全てが魔女の仕業だと理由付けし、そしてその魔女は箒に跨って遠い東洋へ逃亡を図ったと神の御告げが有ったといい、この魔女を探し捕らえるためその任務を、白人へは布教できないアンドロのバスク人にさせたからでる。
このバスク人とは、かって有色人種がヨーロッパを支配していたが、バイキングなどで徐々に力をつけた白人種が、有色人をヨーロッパからアフリカ大陸に追い返した。その時一部の人間が、逃げ遅れてスペインのアンドロに残留して独特の文化を維持した者達の子孫である。  後年ナチス旋風が吹き荒れた時代になると、ゲルマン民族優秀説によって差別され、ユダヤ教会と共に、非白人とみなされるイエズス派の教会も、片っ端からゲシュタポに破壊占拠されている。
 
 
古代のインドにはアンドロの国名もあったし、バスク人はジプシーと同じく有色人種として差別されてきている。 ナポレオンでさえピレネー山脈越のアンドロから先はヨーロッパでは無いといい、今も偏見は生きている。  かってスペインのフランコはドイツと提携していたのに放任されていたのはそのせいである。  さて、日本に鉄砲が伝来されてから、器用な日本人は直ぐに真似をして生産できた。
 
  しかし、弾丸の鉛は採掘されたし、硫黄も豊富だし、木灰もいくらでも作れるが、肝心の硝石は一粒も産出さず、だから弾丸を飛ばす事は出来なかった。 従ってこの硝石を手に入れるため、戦国大名はイゼズス派の宣教師にすがり、自国民を奴隷として積み出したのが真相なのである。   歴史の本によれば当時の交易は、金屏風や甲冑刀剣漆器の類だった堂々と書かれている。 尤もらしく書かれているから、つい読み流してしまうが、それは向こうに住んでいる在留邦人用でしかない。 つまり奴隷の身分から必死に働き出世して、人並みの生活が出来るようになった者らが、故郷を懐かしみ忘れ難くて注文したのである。 直ぐ錆が出る日本刀や、ひびが入り割れやすい漆器や書画など白人が欲しがる訳は無い。  だから御朱印船などと恰好つけていても、日本からの輸出品は人間だったと理解すべきである。
 
  明治に入って、中国人の奴隷を積んだ英国のノルマント号が、日本近海で沈没し、400人以上も犠牲になって世上蒼然となり、多くの日本人が同情して涙したのも、人道上よりも、古来からそうした言い伝えが有った為、同病相哀れむ気持ちからだろう。
さて、天正遣欧使節のヨーロッパ巡路だが、長崎を出て、マカオ、マラッカ、インドのゴア、アフリカのモザンビーク、リスボン、マドリード、ムルシア、アリカンイからマリョルカ島、イタリアのリブォルノ、フイレンツ、ローマ、ボローニアと、とてつもない距離である。 こうした史実はいとも奇異にして驚嘆すべきものである。 使節の四少年が母国を出発したのは僅か十三歳の頃であり、九州の片田舎から、郷里を離れ雲煙万里の彼方なるヨーロッパまでたどり着いたということは、破天荒の壮挙と評するしかない。  動乱に明け暮れていた、九州の戦国大名がキリスト教の何たるかも解らず、何故にマドリードやローマへ派遣したかの謎は深い。
 
 この後慶長十七年には伊達政宗の家臣支倉常長が、太平洋廻り、メキシコ経由で 大西洋を渡りヨーロッパへ渡っているが、彼が何故にヨーロッパへ渡ったかの 詳細は伊達騒動と政宗の正体と合わせて以下を参照されたい。  これにも火薬原料が深く関わっていて、少年使節渡欧の意味も窺うことができる。            
 
 
   ミゲル===有馬晴信の甥で日本名清左  
 マルティーノ===大村純忠の一族  
  マンショ===大友宗麟の甥で日本名祐益  この三少年が天正11年に出発した。
 
そしてこの少年達のヨーロッパ見聞記に拠ると、   ミゲル「吾々の旅行中、行く先々で同じ日本人が数多く奴隷にされ、鉄の足かせをはかされ、鞭打たれて働かされているのは家畜並みで、見るに忍びがたい」 マンショ「僅かな値段にて、同国人をかかる遠隔な地に売り払う徒輩への怒りは尤もなれど、白人は文明人でありながら、同じ人間を何故に奴隷に致すのか」  マルティーノ「我らと同じ日本人が何処へ行っても多数目に付く。まだ子供までが首を鎖で繋がれ吾々を見て哀れみを訴える目ざしは辛くてならぬ。真っ黒な墨塗りのような奴隷の中で肌の白いみめよき日本娘たちが、秘所も丸出しで繋がれ、連れて行かれるのは目を覆いたかった。日本の女たちが転売されるてゆくのを正視できない。吾らの見た範囲でもヨーロッパ各地で五十万以下と言う事は無い。ポルトガル人の教会や神父が硝石と交換し、証文をつけてインドやアフリカに売っているのは何としたことだろう。    (注)当時の日本の人口は二千万人と推定されるから、五十万の奴隷とは残忍な実態である。 だからこの日本奴隷の血は、ポルトガルやパペルやバスク人に伝わっているし、日本語そのままの言葉も多いのである。 戦国期拝火教の末裔だった織田信長は、仏教を大弾圧し、比叡山の坊主共を3000人、また敵方の女といえども 数百人単位で殺している。 これを当時の人たちは「残酷だ」とは思わなかった。何故なら奴隷にして売れば 大変な儲けなのに、それを殺してしまうとは「誠に豪気なお方である」と賞賛している。ということは、当時も日本人の奴隷売買は盛んだったという証拠で、信長はそれを しなかった立派な武将だったといえる。  
        <日本軍の悲劇・火薬不足>
 
   日本は富国強兵政策を明治軍部が推し進めた際、当惑したのは火薬原料の硝石が国内では補給できないことだった。  だから本当は、弾薬が無くては戦が出来ぬという処を、「腹が減っては戦が出来ぬ」と変えて世間に流布させたのである。 そして国民は知らしむべからずで、事硝石に関しては口にすることも書く事も厳禁した。 代わりに、斬れもしない日本刀を持ち上げ、下士官でさえ銃は持たず昭和刀をぶら下げ、兵はゴボウ剣なのに、戦術ともいえない、斬り込み突入を繰返し玉砕を強いた。日本軍は兵は「消耗品」としか考えてなく、何しろ一銭五厘の赤紙一枚で幾らでも徴兵できるため、兵の命などは一顧だにしていなかったのである。
 
 戦後米軍が日本軍の武装解除をした際、彼らは准将クラスでも自動小銃を持つ米軍は、日本軍将校の拳銃があまりにも少ないのに怪しんだというが、全員に支給されていなかったからである。  日本の技術では、機関銃や自動小銃もいくらでも製造できたのに、明治製の旧式三八銃で一発ずつ撃つ単発で押し通したのも、弾薬原料の硝石が産出しないからである。  だから大戦中日本軍は、兵站の拙さは勿論、最後まで弾薬不足に悩まされ、食料も弾薬も満足に与えられず死んで逝った兵隊は哀れの一語に尽きる。   さて、徳富蘇峰は「大村由己」の書いた「九州動座記」の内容を書いているが、その中に「宣教師より硝石樽を入手せんため、大名小名はいうに及ばず、豪族の輩までが、己の下卑や郎党はおろか、自分の妻妾まで南蛮船に運ぶ。それを獣の如く縛って 船内に押し込むゆえ、泣き叫び喚くさま地獄の如し」と秀吉の共をして九州へ行った時の見聞録を「近世日本国民史」の初版本には入れている。  しかし二版からは憲兵隊の命令で削除され、現在に到ってる。
 
 日本国が昔から火薬原料に事欠いていたと広まっては、国民の戦意高揚に害があるからとの、理由で、隠しこんでしまったのである。 つまり島原半島の三角湾が白銀海岸と呼ばれる故事来歴があり、島原半島に、奴隷として売り渡されるために集結させられた者達が、その頃は口の津と呼ばれていた半島突端の、原の古城は、宣教師達やその従者たちが硝石の倉庫にしていたから、 彼らを襲って殺し占領して、硝石を奪って反乱したのが真実である。 海外へ積み出されたら、どんな悲惨な状況が待っているか知っていた男女が、死に物狂いで戦ったのである。
 
 この反乱軍の中には関が原で敗走した小西行長の残党も多く紛れ込んでいた。だから徳川幕府は、全国的な討幕運動を恐れ、切支丹の一揆だと発表し、局地解決を図ったのである。 余談だが、幕府は天皇や公卿が討幕運動に勅旨を出すのを警戒し、京の周りに多くの大名を動員して、 十五万人もの兵を駐屯させ見張ったので、兵の慰安のため、京に大遊郭を設置した。 この島原反乱を取って「島原遊郭」と名づけたのである。
 
 さて、この反乱軍があくまでも頑強に幕府軍に抵抗したのは、海外奴隷にされるのは死ぬより恐ろしいと判っていたからだろう。 そうでなければオランダ商館長が軍艦を派遣し、同じキリスト教の者達を十五日にもわたって連続砲撃をするはずが無い。 反乱軍はキリスト教などと無関係で、同国人の宣教師を殺して硝石を奪って籠城したから復讐として参戦したのである。 ローマ法王庁には、長崎聖人26人殉死の記録や絵はあるが、戦死者四万人ともいわれる島原の乱に関しては、もしもこれが殉教なら世界的に無比なことだから特筆されるべきなのに何の記録も無い。
 
 日本ではキリスト教の旗があったから、切支丹一揆とするが、肝心な法王庁では認めていない。 また、天草四郎なる者が反乱軍の指揮をしたと伝わっている。そして豊臣秀頼の落胤だとか、豊臣家の旗印を立てて戦ったとか、絶世の美少年だったとか・・・・・こうしたことは全て後世に作られた与太話で、四郎の首実験をしたところ、何個も首があり  どれが本物なのか迷ったというが、そんな美少年なら直ぐ判るはずで、四郎に似た少年も多数奴隷に売るため居ただろうから、それらも大人に混じって必死に戦ったことのこれは裏書に過ぎない。 だから現代、丸山明宏が、長崎生まれだということからか「自分は天草四郎の生まれ変わりだ」 と宣言しているが、こういう手合いを歴史知らずの、トンチンカンな勘違い人間という。
 
 

源氏物語はポルノ本だった しゃもじの由来

2019-06-26 10:31:58 | 新日本意外史 古代から現代まで

以前、尼さん作家による「源氏物語」が出版され、売れ行きも好調だったという。さらに女流マンガ家によるマンガ本も大変な売れ行きだという。両方とも「女の哀れ」に主眼を於いているきらいがあるのだが、それが又受けているのだろう。さらに最近の新聞広告では【源氏大学”99】と銘打って、受講料14000円だという。講師には大学教授、講師、歌人漫画家などだか゜女が多い。また「源氏物語論」において、ある女流評論家は、

「読後の私は、少なくともこの小説を知らなかった時の私ではない。そう云えるだけの内部変化を、私はこの作品によって惹起された。悲しいばかりの女の目を見たと思う」と書いている。
前もって断って置くが、私は何もとやかくの感情があって、これを俎上に乗せるのではない。「一見確かなようで、実は何一つ不変ではあり得ない人間存在の不確かさについての、強烈な認識」とか、
「作者自身の深い虚無的な存在感」とかいった、まことに当たり障りのない批評角度の甘さをここで追及するつもりもない。しかし、現時点においては、こういう微笑を誘うものの方が、他に刺激を与えることなく、つまり他人の神経をかき乱すことのない安全性において取り上げられるからなのかと思う。
 
 
つまり他の売文業者の営業妨害にならない美点において、書評にも大きく取り上げられることを、当人が知悉しての計算だと読みとれるから困るのである。しかし、それならば何も、王朝女流文学を読んだからと言って、事改まって、 「悲しいばかりの女の目を見たと思う」までは余計ではなかろうか。いくらエッセイとはいえ、こうした露出感情の提示は、まるで女を売物にするような読後感さえ持たせ、これでは逆効果ではあるまいかと、危惧される傾きがないでもない。また、
「源氏物語のような作品を生んだ同時代の貴族社会の文化圏には、理想に対する信仰が確固としていた・・・・つまり宮廷文化自身が、まだまだ源流の魅力を保っていたとみられるのである。・・・・人間の心を美に対する調和を求めるものとして、物語を動かしていこうとする作者の理想化が行われていることは明らかである源氏物語の内に、そうした調和の美を造り出させ、あたかもそういう世界が実現したかのような錯覚さえ、千年後の我々に与えることになったのであろう」
とするような、女学生の頃の国語教師の話を聞いた時からその儘で、素直に固定しきったような観念では全く閉口させられてしまう。
 
つまり、これらの両者の説は、他から教えられ又そうあるべしと読まされた、第三者の解釈から何の進歩性もなく、そこには個性も独自性も見出せないのである。つまり表現自体に於いては、女学校用の「注釈源氏物語」の評釈よりは名文であり、達者なものも出てはいるが、根底をなすべき理念に於いては、そこには何一つ発想の萌芽さえも見出せない。
つまり、これらはかって、お下げ髪をした清純な十六七歳の少女時代の感傷を、唯、大人になったお利口な女が、言葉巧みに尤もらしく語る以外の何物でもない。という事は、「源氏物語」を初め、あの王朝女流文学というものの在り方について、一般には、どう考えているかという基本的な命題になるだろう。
 
 
さて、まさか当時、文学全集があって、その一揃えが真空書櫃に密閉され、その後千年たって開櫃されたとは、よも考えてはいまいが変である。そして何しろ十世紀前の原作だから、木版活字やバレン刷りの木版で初版が出た訳でもなければプリント印刷でも無い筈である。つまり千年間どうして伝わったか。その必然性そのこと自体に対して、彼女らはこれまで一度でも着想したことがあるのだろうかと疑問が出てくる。
他から影響されたとしても、それに盲従することなく、それを克越したところに立てられるものが、その人間自体の判断であり、常識であるが、果たしてどうかと言いたい気もする。つまり西暦九世紀の初めから漢字普及に畿内にかけては弘文館、勧学院、奨学院といった私学校が存在したが、これは今日の英会話塾にも当たる。
言い換えれば、戦時中の日本軍宣撫班によって東南アジア各地に設置された日本語学校のようなもので、中国の文字だけを教えた所なのである。だから十一世紀初頭の「才媛輩出」といった時代においても、いくら関白藤原道長の 娘の彰子が中宮に立ったとはいえ、当時はまだ女学校など開かれてはいない。
従って国文学の時間なども無いわけである。だから、そこで紫式部や清少納言が学んだというのではないようである。学校がないということは、テキストの教科書の必要性などは、全く無かったという事なのである。さて、文字で書かれた物は、落書、記録その他を含む資料以外は、エデュケーションとアミューズメントの二つしか現実には通用しないものであるというのは、比較的穏当な常識であろう。
 
 
こうして王朝文学なる物は当時にあっては、果たして何であったのだろうか。いくら今日の「源氏物語」の崇拝者が、理想に対する貴族社会の信仰であったとしても、まさか、記録として資料扱いなどされていなかったことは、これも明白な事実であろう。
またその後の時代に於いて、二十世紀までは「源氏物語」などというものは商品価値等なかった。だからテキスト用には、筆写など誰もしていない筈で、千年後の女流作家の種本のために、その祖先がこれを書き伝えていたことも聞かない。それでは、彼女たちが読んだと称する悲しいばかりの女の目を見た、と思わせる「源氏物語」とは、そも何であろうかと疑念を抱かざるを得ない。今日刊行されている「歴史年表」には西暦千三年をもって「才媛輩出」の年に当てている。赤染衛門も和泉式部もみな名を並べている。といって当時「女流文学賞」や「田村俊子賞」を賭けて、女流作家の育成をしたとも聞かない。どうしてこの一定の期間だけ、突然変異のような現象をきたしたのであろうか。
 
 
ここで先ず第一に、常識を持ってすれば、首を傾けざるを得ないようである。現代のマスコミ文化の世であれば、北海道の一主婦が、一千万円の懸賞小説を書いたと噂されると、模倣者が、アラスカ当たりからも続出するが、王朝時代には新聞など無い。勿論、文芸雑誌もない。女流を専門に誉める批評家もいなかった。しかも王朝文学といわれる物の大半は日記体であるし、又日記その物なのである。現在でも年間二千万部の日記帳が毎年暮れには売れている。そして、その中の一割ぐらいが克明に記されても二百万。女性を半分と見ても百万の日記がある勘定になる。だがその百万の女性の中で、千年後に自分の書いた物が「○○子日記」として伝わるなどと考えている者は、常識の枠の中では、存在しないのではあるまいか。・・・・・・・となってきてしまう。
ところが、西暦千三年という時代は、どういう時代かというと「正倉院文書」によっても判るように、国内の紙すきの技術が未だ開発されず、美作経紙、播磨経紙、美濃経紙とも、今日で言えば四百ポンド級の厚紙であって、薄くて文字の書ける用紙は越前紙なども未だ無かった時代である。
そしてその越前紙が世に現れてくる千二百年代までの紙はみな輸入品の唐紙であってその用途たるや、その二世紀前に仏教を持って渡来した人々によって「紙は弾丸」より貴重なものとしてプロパガンダ用よりも、その身の後生、 つまり来世功徳のために、各自が信仰心を持って写経用にしか使われなかった時点なのである。
              しゃもじの由来
まだ紙が少なくて一般には木や竹が削られて伝達用にには笏(しゃく)として用いられ、この削板に文字を書いたのが反古になった時、勿体ないからと、飯盛りに用いたのが今日の笏文字(しゃもじ)そのものであるし、つまりこの時代は今日のように日記帳など一冊も販売されず、原稿用紙などもなかったのである。
唯あるのは寺の紙でその写経用紙を他へ転用するなどは、仏罰の祟りを恐れねばならぬ世相であったといえるだろう。それなのに恐れ気もなく、その貴重な輸入用紙を使って日記をつけ得るだけの身分の者は誰かといえば、限られた人間でしかない。その何人も居ない中の殆どが女性で、しかもそれが千年間もその後この世に伝承しているということは、これは奇蹟でしかないのではあるまいか。
 
 
今日、文学全集の彩りとして、明治物には必ず樋口一葉が入っている。だが彼女の作品たるや現在の女流作家と比較しても、その文章の語句の用語法など段違いである、というのは巧くないということだが・・・・・・ただ明治期に二十有歳で死んだ当時としては美人だった女が書いた物だという事と、明治風俗とくに吉原遊廓が出てくる点で、それは買い被られているに過ぎない。つまり、日本の女流作家といっても、僅か数十年の次元にこれ程の格差が生じているのである。それなのに千年前の女流作家が、雑誌や書評も考慮せず書いた物がどうして今日、まだ読むに堪えうるだけの形態を備えているのか。
 
千三年という時点には、電化ブームも無かった筈なのに有閑女性が、これだけのものを、一人二人でなく何人も揃って書いたというのならば、その後の千年間においても現代にも比較し得る位の女流作家が、続々と輩出してもよいではなかろうか。といった率直な疑問が起きるのではなかろうかといいたい。
つまり、女は染色体が多いから男に比して遺伝率が強度だとされているのに、千年前に優秀と目される才媛が輩出して、隔世遺伝どころか千年たってから、今日の女流作家がひょっこり生まれてくるのは、あまりにも血の循環が遅すぎる憾みがないでもない。そしてこの疑問を解くためには、「同時代の貴族社会」とされる、そのものの在り方が問題になるのではあるまいか。というのは、京都に都を移したのは桓武帝であるが、この帝の女御は、百済王媛教法、百済永継姫、尚侍(ないしのかみ)には藤原継縄の妻である百済王女明信。
藤原武鏡の妻の百済王女教仁。百済王教徳の女の貞香娘。さて、次の嵯峨帝の女御は、百済王俊哲の豊命姫。 宮人女官の尚侍には百済王女慶命。仁明亭の時にも百済王永慶姫と、果てしなくこれが続いている。百済とは朝鮮である。向こうで生まれた作家は皆日本語で書かせると、どれもみな文章が巧い。といって何も一千年前に海の彼方から一群の女性が筆と紙を持参して渡来し、又朝鮮へ(風の如く去りぬ)といっているのではない。
 
ただ、「源氏物語」にしろ「紫式部日記」にしろ、あの一連の作品は、構成法や叙述法の在り方が、宋学のものに相似性がありすぎる点を改めてここに指摘するだけである。
さて、今日の一般的既存常識によると前述の如く千年前の原作がそのままで書き伝えられ、筆写されて、今日までその姿を残しているとされ、そうであることを毛頭疑っていないらしいが、さて千年というのは長い歳月である。
 
 
この間に於いて、後世の二十世紀の出版社の為に、国文学教育のため文化財として、原作通り引写してくれた奇特な人間が、一人や二人ならいざ知らず、次々と十年に一冊と見ても、各時代を通して千年の間に何百人もはたしていたものだろうか。勿論、昔は文部省もないからそれに助成金も出なかったろう。さて、それは昔のことゆえリコピーもないから手写しであるが、今日でさえ自分の手紙一本書くのさえ億劫がる人が多いのに、その昔あれを文字通りに写したとあっては、果たしてそれはどんな人種であろうか。ここに疑問が起きてくる。
何しろ西暦千三年と現在の千九百九十八年の中間は応仁の乱の終わった頃に当たるが寺子屋という私学が出来たのは、その後もう一世紀後であり、勿論千文字や素読を教えたのはそれから又二世紀も下った後の元禄以降の事である。となると「源氏物語」が出来た年代と現在との間の十世紀の距離の内で、最初の七世紀は文字が書け読めるということだけで「祐筆」といった職種に就ける時代であり、一七九二年に湯島聖堂の学問所が出来た時ですらも、和学は教えてないのだから、ますます話は奇妙になってくるのではあるまいか。
なにしろ曲がりなりにも「源氏物語」等が公にされたのは十九世紀の伊勢の国学者グループの手によるものであるとされているから、それ以前の九世紀間は、これは謎以外の何物でもない。しかし、何時の時代からということは別にして、これが手写しで伝わって居たことは事実である。
 
 
文字の用いられる一部の人間が、自分で写したかも知れないが、恐らくは、これは当時の専門筆耕屋の仕事であった事も想像に難くはないであろう。そして一枚幾らか、一冊幾らかは判らないが、今日と違って文字を書けることが 特殊技術の時代だったから、その写本たるや相当に高価な物であったろう。といって、図書館がある訳ではないから、そこへ納入されたのではなく、判りきった具象ではあるが、これは当時としては「進物用品」として、書かれ綴られ それから何処かへ贈られる用途の為にこそ作業されていたものだろう事は、疑いもない。
なにしろそれ以外には必要性も用途もないし、また労力や金品を投じて写すだけの効果もなかった筈であると、ここで強調したい。つまり当時としては貴重な紙に経文を写せば、その功徳で極楽へ行けるという応報が約束されていた時代なのに、お経の写字の代わりに、和泉式部の許へ帥(そち)の宮が訪れてきて、他の男と睦み合った後であった等の状景描写を書いたりして、ジェラシーを起こすようなものを写したり、
明石の上の許へ光源氏が通ってきて、まぐわれるベッドシーンを書き写したからといって、それではとても来世の功徳など考えられもしない。だから、どうしてもそれを写した者には、その労に対して布や食料を、そしてそれを上官や高貴なお方に贈った者には官位役職といった現世の御利益をそれで得た者としか考えられないのである。 そしてここに問題がある。
といって当時の事ゆえ、それを書き写して贈られた家に、国文学志望の受験生の娘や倅が居たというのでもない。 現在の入学試験に使われるような、あんな難しい「和泉式部日記」や「枕草子」が進物用には不的確だったことも目に見えていよう。
 
さて、物を贈るということは、相手を喜ばせ満足させることであって、なにもエキザミネーションする為ではない。それにリライトという言葉は現代用語だが、筆耕者というのは商売である。だから今の何とかブックスのように、勝手にすっかり書き直し、相手の嬉しがるようなものに書き改めた物が、果たしてその当時は贈答品として通用していたものだろうかと首を傾げたくなる。
さて、私事になるが、かって終戦直後に、天明壬寅つまり一七八二年代に書かれた漢文の「源氏物語」の一部を神田の古本屋で入手したことがある。それを見ると時と場合によっては「紫式部日記」だって、漢文にリライトされたり、それが又別人によって和文になったりして、進物先の如何によっては、どうでも変化していたものらしいと、それでは考えられる。
つまり現在の「源氏物語」その他と、江戸時代までのそれらとは、全く異質のものだったと、こうなるといえよう。 しかし、千年の余も、高級進物品として流通していたからといってその具象は、これはかっての日本人の知的教養がいかに高く、極めて文化程度が高かったとか、その頃から既に国文学愛好者が多かったという例証には絶対にならないと思う。つまり、「枕草紙」が「枕草子」に内容が変化したのは、文化文政以降の柴田鳩翁の道話全盛時代であり、そして「和泉式部日記」や、その他の王朝文学と称されるものが、今日の形象に於いて活字化されたのは、十九世紀末の明治に入ってからの、西洋活版技術による出版ブ-ムにのってからの事である。
   ◎◎◎◎◎◎清少納言は清書納言か?◎◎◎◎◎◎
さて、近江の石山寺に閉じこもった紫式部が、一人で五十六帖の「源氏物語」を書き上げ、それが世に流布したので、主上のお耳にも達し天覧を仰ぐまでになったということになっているが果たして「本当であろうか?」という意見は、明治時代から議論されてきた。しかし大正、昭和にはいると大手の一流出版社で、この「源氏物語」の現代語訳など刊行するところが多くなってきたせいか、今ではこれに触れるのはタブー視されてしまい、「源氏物語というのは、現在流布されているようなものを、間違いなく紫式部が一人で書いたものである」というのが真実のような理念に凝り固まってしまい、それによって稼いでいる人間も多くなってきている関係上、今では神聖化されて居るようである。
しかし明治四十四年に京橋銀座一丁目に、その頃はあった読売新聞社刊行の、当時の史学の泰斗久米邦武の著作では「寛弘五年十一月の日記」の中の「皇子五十日の御祝い」の条文を引用し、それから解明してゆき、
「源氏物語が評判になってから召されて宮中へ奉公し、彼女はそのとき中宮から<若紫の巻>にちなんで、紫式部の名を付けてもらったのだが、その当時の日記さえよく見ればその事情もよく判るし、その<若紫>でさえ、彼女ではなくその父の為時の筆になったものということが判る」と、中宮へ提出するため、さも全部の浄書だけしたのが、紫式部だったような書き方もしている。しかしこれもやがて禁句のようになってしまい、今では誰もあまり触れたがらないようである。とはいえ、ここから解明してゆかなくては「源氏物語」の謎は解けはしまい。さて、彼女を中宮に召して採用し、紫式部の名を与えた一条帝の中宮とは誰かといえば、藤原道長の娘彰子である。
 
 
産み奉った皇子が後の後一条帝。その弟君は後朱雀帝と、次々と即位されるのだが、その彰子の妹の、「研子」は、三条帝の后となり、又その妹の「威子」は、後一条帝の后。次の妹の「嬉子」は後朱雀帝の女御となって、後冷泉帝の御腹となる。末の二姫は伯母の立場なのに后となったり、女御として、御種頂戴をしているが、さて彰子の伯父道隆の娘の定子が、一条帝の后でその道隆の弟道兼の娘の尊子も同帝の女御なのである。
ということは下世話にいえば、彰子はその従姉妹の定子や尊子と共に、一人の男性を巡る存在だったのである。こうなると、なまじ身内だけに互いに負けられず、一条帝を巡って競合。つまり女の戦にしのぎを削っていた事になる。
現代ならば、そうした立場の女性は化粧を競い互いに美味な食事でも作って、男を引き寄せようとするのだろう。が当時はろくな化粧品もないし、御所の中では料理も主膳寮の包丁頭の仕事であって、彼女らが料理の本と首っ引きで、勝手に好きな物を作るわけにはゆかなかった筈である。
そして、そうなると最早女の戦いたるやテクニック以外の何物でもない時代だったろう。となると、もしも「源氏物語」が現在流布している形の、ああした内容のものだったとしたら、(彰子は国文学の勉強をするため)新しく召し抱えた彼女に、「紫式部」の名を与えて、それを読ませ抗議させ聴聞していたのであろうか。もし御所の中に国文科の教室でもあって、そこで良い成績をとるのが眼目なら話は別だし、また一条帝がそういう素養のある方で、勉強するのを喜ばれたものならその努力の甲斐もあったろうが、でないとなると、どうにも納得しにくいものがある。
艶めかしくコケティッシュに振る舞わねばならぬ時に、彰子が化粧に浮き身をやつさず、「源氏物語」の勉強ばかりしていたら、その結果たるや如何になるか。 と想うのだが、案に相違して他の従姉妹二人を押さえ、帝の寵をほしい儘にし、二帝の御生母、ついで1018年には「太皇太后」にさえなるのだから変である。
それに明治37年6月に、富山房「史学会論」の中でも「才媛輩出というので11世紀初頭には紫式部、清少納言、赤染衛門、和泉式部らが数多くの著作を一斉に書き残したというが、その時代は藤原家一門全盛の頃というものの1019年3月27日には刀伊(一)来襲し、四国伊予三島社司越智近清ら討死。翌4月7日には対馬方面へ来襲し、壱岐の守将藤原理忠ら玉砕5月に入ると波状攻撃は肥前の国に及び、上陸してきた異民族軍は略奪をほしいままにする、 といった元寇の時のような国家の非常時なのに、なんら史料となる物を同時代に書かれた物にしては、どれも一行すら書き残していない」
と、これを非難し、その当時の国難ともいうべき刀伊賊その他の大事件を何も書き残さなかったことの不思議さと、才女たちの作品が紀行文や軽薄な物ばかりで、肝心な当時の外憂について、彼女らが誰一人としてその作中に触れていないのを怪しみ、 (ことによったら、その書かれた年代がもっと以前の物か、ずっと以後ではなかったろうか)とまでは言い切ってはいないが、その論の中で、「史学会雑誌第八号」に発表した「藤原氏論」で故丸山正彦は、疑問を投げかけている。
 
 これからして、故久米邦武氏の、「源氏物語は紫式部の作ではなく、父が手を加えるか書いた物ではなかろうか」 といったその日記を援用しての展開になったものと見られるが、その後は出版資本の圧力によるものかどうかは分明しないが、丸山から久米まで引き継がれてきた疑問符は、明治の世だけで立ち消えになってしまった恰好で、今はそれについて論ずる者は居ない。
さて話は戻るがこの時の刀伊の来冠は「刀一」とも書くが、これは、「この世をば、わが世とぞ想うもち月の、欠けたる事のなしと思えば」と、説いた藤原道長が入道となって、「行覚」と名乗り出家して一週間目に、
「ご注進、ご注進、見慣れぬ異国の船が群をなして近づき、馬に触れれば馬を斬り人に触れれば人を斬り、女と見ばこれは触れた後は担ぎ去り」と襲来の知らせが届いたのである。そして、次々と櫛の歯が抜けるごとくに、「四国の社司が惨殺された」とか、「壱岐対馬の男は皆殺しにされ、女は掌に穴を開けられ縄をそれに通され、十人一束にして拐かされていった」と報告がひっきりなしに入ってきた。いわゆる元冠はこれより262年後の出来事だから、これは当時としては、日本開びゃく以来の大騒ぎだったろう。 各寺院においては一斉に、悪魔退散の祈祷が催され、今にも京の町まで異人が攻めこんでくると流言飛語が飛び交い、庶民達も、「えらいこっちゃ」と、疎開しだして混乱の最中だった。
 こんな時に、 「戦は男供に任せたらよろしゅうおす。
 
うちら女ごは才媛どすよって、和泉式部日記や、源氏物語を書きまひょ」とやっておられたものかどうか、時期的に見て確かにおかしすぎる。 また藤原道長の娘である彰子が、藤原一門をあげて上を下えの周章狼狽の慌ただしい中で、悠々と紫式部を召し寄せ、「今日は桐壷の巻でも紐といてみましょう」と優雅な、のんびりした暮らしができたものかどうかも、これ又疑問である。
だから明治40年で立ち消えになっている処の、「源氏物語は紫式部の作ではない」という明治の史学者達の率直な疑問に、ここで答えを出すとすると、私として想像でき云えることは、日本史に忽然として才媛が並び現れ、一斉に名作を書き残し、後が続けばよいが、それっきりで900年がたちましたというのは、どうも変だから、 「清少納言」にしろ「赤染衛門」にしても、今でいうアンカーではなかったかと想像し得る。
つまり以前から有ったもの(昔は著作権法等が無かったから、版権や著作権の必要もなく、作者名が付けてなかったもの)を、真名書(漢字)の読める清少納言や赤染衛門といった女官たちが、判りやすいように手を入れたかどうかは別にして、清書するとき、 「淨書者」として、責任の所在を明らかにするためその名を表紙に書き込んだから、後世になると、その清書した者の名が筆名として誤られてしまい、「才媛輩出の時代」とされ、それに辻褄を合わせるため、暇な人が日記まで作った のではあるまいか。
 
紫式部の源氏物語もその類かもしれぬ。 なにしろ「大日本古文書」を見ても、ゼロックスや印刷のなかった当時は、文字の書ける者は男女とも「筆生」として大切にされ、そして書き写しに誤りがあった時の責めを取らされるためか、その名がはっきり上部に書かれていた。
「正倉院文書」に入っている天平十一年三月六日付けで、高屋赤万呂が責任写字したものも、その名が表紙に明記されているし、同じく天平十六年十月八日に脱稿した「足万呂私書」のごときは、第四十五巻のものを、「鬼室乎人、角勝万呂、峰田在人、弓削狭人以下七人」で分担して写した内訳、それに要した筆墨の員数も出ている。
そして同年十二月十八日の、「写集論」百七十三巻の筆写となると、同年八月一日から写しだして十二月十六日までに終えたとなっているが、王広万呂のうつした十巻のごときは、「第三巻にては用紙三十二枚受領し破損三枚」「第五巻にあっては三十枚の内で破損二枚」と明細があって、用紙として計三百三十九枚を受け取って写したもの三百二十 五枚。書き損じ八枚、白紙返上十六枚と、第一巻の第一枚目に但し書きのようなものをつけ、それに責任者の自分の名をつけている横に明記し、十巻の最後に、この浄書料二千六拾七文を拝受した旨も附記している。
 
つまり文字の書ける者が希少だった頃は、正確に古文書を書き写す仕事というのは、大変有利なアルバイトみたいなものだったから、紫式部の父為時の筆によって、「源氏物語」中の<若紫の巻>がなったといっても、それは為時が創作したというのではなく、お手当て目当ての単なる筆耕だったと見られぬことはない。
ということは紫式部も、とてもお金になる綺麗なサイドビジネスだと、研子の方や、威子の方、嬉子の方の注文で書き写しをしていたものと考えられる。
 
なにしろ著作権などない時代だし、誰の作か判らぬものを写すのだから、そこには 彼女らの主観も少しは投入されたであろうし、その書き上げて綴じた表紙に、御礼を貰う立場上で筆写の責任者として、中宮から頂いた名前をはっきりと「紫式部」と署名したのがその後、また次々と書き写されてゆく段階で、まるで彼女がその原作者の如く誤られてしまったのではあるまいか。
そして紫式部の名が<若紫の巻>から選ばれて中宮から拝領した名となると、 「清原元輔の娘で、生まれた年も没年も、そして本名すら判らない」とされる清少 納言もやはり中宮定子に仕えていた女官だったろうと想像される。
つまり中宮彰子が、為時の娘に紫式部の名を作って与えていたものなら、定子の方も清少納言の名を作って元輔の娘にやった事になる。 今日では当て字は誤字扱いされ、こじつけのように見られるが、明治になる迄は漢字はその発音さえ通れば可とされていたものである。
 
 
だから淨書者のことを「清書」と呼ぶから、定子が付けた名は「清書納言」ではなかったろうかとも思推される。つまり「枕草子」その他が彼女の名で伝わっているのも、やはり写すのが綺麗で美しく、その名を堂々と表紙に書いていたから、単なるコピーライターの彼女がいつの間にか作者になってしまった所為だろう。
また「大日本古文書」二巻の「写経所解」等を見ると、「校生」の文字で、写した文書を点検した責任者の名が必ずついている。後には「校訂」の字も当てられるが、朱筆を入れて校正することである。 さて「大江文集書」に、「右衛門志時用、学識豊祐校生厳格故賜赤染」といった一行があると、久米氏は説いているが、その時用の娘で、大江匡衛に嫁して藤原道長の妻やその娘の上東門院に仕えていたのが赤染衛門である。つまり、姓の「赤染」というのは、あまりにも朱筆を加えて紙を赤く染めてしまうの意であろう。私はあの時代で本物だったのは、「和泉式部日記」を残した平保清娘ぐらいだと思うが、これとて後世の人の作だとの説が昔からある。
 

くぼの民の意味 急がれる日本独立 南北朝対立の実態

2019-06-26 10:07:19 | 新日本意外史 古代から現代まで

(以下の文、誤字脱字は御容赦願いたい)

<物理呼称>という書物には、近江言葉で、窪とか久保とされている。これは関東の「谷」と同義語である。 つまり、日本原住民が捕らえられてきて、彼ら御先祖様たちが逃げぬように窪地へ入れられ監視されていたのが語源らしい。 日本は大東亜戦争でアメリカに敗戦したが、今では独立国だと政府や大新聞では報道していても、首相が代わるたび、渡米して何も聞いて貰えず唯ひたすら命令されてくるだけの有様は、 どうひいき目にみてもアメリカの属国以外の何物でもない。 といっても、この有様は仕方がない話で、一度負けて占領されると、相当に長びくもので人間も敗戦国民なのです。
 
日本はその昔、西暦六六三年に新興唐の軍隊に撃破され、進駐されてしまうともうそれっきりです。9世紀になって唐が滅び契丹(宋)に代り、次々と海流で渡って彼らが日本へ移ってきた。 しかし日本の御所内の既成唐勢力は本国が滅びても堅固でした。だから宇多天皇は藤原勢力を削ぐため、カムイを菅姓にした契丹人の菅原道真を蔵人から右近衛大将に任じて、 左近衛大将の藤原時平に対抗させたのが、4年たらずで契丹系は放逐されてしまうようになります。つまり同じ大陸系でありながら庶民に格下げされた人々の運命は、窪地へ押しこめられ圧迫されていたのでしょう。
今も残るわらべ歌の「ここは何処の細道じゃ」と彼らの信仰対象の天神は、人目につかぬ細道の奥に匿され各自が、ばらばらに詣りに行くのは大丈夫だが、集まって戻ると、土地の役人に捕えられるから用心せいと、 「行きはよいよい帰りは恐い。
 
恐いながらも通りゃんせ、通りゃんせ」の、童らへのこれは戒めなのである。  もちろん、そこまで弾圧されるのは契丹よりの武器援助によって瀬戸内海から京へ攻めこんだり、坂朿八ヶ国の農奴解放に武器を送りこんでいるのを、故意に藤原日本史では、平将門なる架空の存在をでっちあげ、 原住民どうしの私闘としてしまいますが、これはあくまで夷をもって夷を制する恰好だけの代理戦争です。実際は、新興契丹と従来唐勢力との仁義なき戦いだった。 そしてこの結果が、契丹の国章は五弁の梅花だから「天神の梅鉢」の形を焼印にしたサンカのウメガイ(日本には産出しない鉄鉱石でできた鋼鉄製の鋭い刃物)ともなります。 榛名山脈から丹沢山脈へ逃げこんだのがサンカ者となり、瀬戸内海の水軍は海賊衆と京の藤原軍に反抗したから差別されだします。
 
菅原、藤原のハラは、「ハイバラ楽」と雅楽にもあるように、後には「輩」とあて字をも使いますが〈日本書紀〉にも、白村江合戦以前より既に岡山に住みつき、 華夏王朝を名のり「中国地方」と堂々とよんでいた唐以前よりの先住大陸人を、「桃原」と称しているのでも判ります。高松塚古墳の発見された藤原京(とうげんきょう)にしても「桃源境」がその当て字というのは、 これからによるものでしょう。インドやアラブ、トルコでは今も中国のことを契丹からキタイ、キタイスキーとよんで代表的国名とするのに、日本だけ契丹を匿して、 梁とか晋などよぶのにはそれなりの訳がやはりあります。  ナポレオンによってオランダが滅びた時にも、日本の出島だけには、堂々と和蘭国旗が世界で唯一つ翻っていたように、唐は本国では滅びても、日本列島では「藤」として、ずっと栄えたのです。
 
「白浪五人男」の浜松屋の場の弁天小僧の娘姿に「これは唐にもまれな……」と江戸期になってもいいますし、〈塩尻百巻〉では唐の官制官名がそのまま御所では引きつづき用いられていたのが明確にされています。 もちろん「唐の中将」を「頭の中将」と当て宇しているのは数限りありません。  契丹系の美女は御所へ残され、男でも要領の良い者は御所内に官途の道をえましたが他は強制的に農奴にされ東北地方に追われた。だから、 鈴木姓の人がみな東京以北に多く農家の祖先をもつのはこの為でもあります。  さて天慶の乱で、せっかく武器援助をうけつつも敗れ、降服するのを潔しとせず山窩(サンカ)となった日本原住民の指揮者は、天神系の契丹の血をひく者で、次第に彼らと混血した。 だが、古代海人族を松とし、騎馬系のササラを竹。契丹系を梅とする象徴が現在の「松竹梅」思考として残っている。百科事典歴史の「蘇民と将来の兄弟が厄病除けをした」とするのは嘘で虚構である。
「蘇民将来、来福の神」を祭って、原住民の大同団結を図り、いつかは
大陸系を追い出し、自分たちの世の中にしたいという願望で、これが明治革命の原動力ともなったのです。
 
なにしろ昔の契丹ダッタン系の軍隊が、ロシア国境警備隊として北方四島には進駐しています。自衛隊が四島に攻め込み、ロシア軍を殲滅でもしない限り島を取り戻すことは無理だろう。 戦争で取られた領土は、戦争でしか取り返せないのは世界の常識だからである。 「日本は歴史なき国である」として、ドイツのお雇い学者のリースは明治十八年の学位制設定の時に、日本では歴史学博士の称号は不可であるとしましたが、 隣の韓国は現在、北朝鮮の太った刈り上げと結託して、海軍と空軍を増強し、将来の仮想敵は日本としか思えない動きをしている。日韓米の同盟に幻想を抱いてはなるまい。 日本は最早、アメリカからきっぱり独立し、自国の軍隊を増強する時期です。日章旗ではなく旭日旗をたててでも、アメリカなみに複合民族のステーツゆえ皆で国を守ろうとしなければ不可と想います。
 
日本人の殆んどが庶子の民の庶民なのである。白村江でも百済は、本国の百済救済に、日本原住民を駆り集め、二万七千を送り込んだが大敗した。これは至極当然の結果で、強制的に駆り集められた 吾らの御先祖様たちが、ろくな武器も渡されず、百済のために真面目に戦うはずはない。
日本人は、親方日の丸だったり、占領時は親方星条旗の昔ながらの哀しい奴隷根性。今やとても心許なく金になる事ならやるが、そうでないのには尻ごみするのではまったくの処とても困ります。 政府は今こそ、韓国、北朝鮮、中国にの歴史捏造の実態を余すところなく国民に情報開示し、愛国心を植え付けるべきである。そうしなければ日本を守れません。
その昔、唐に実質的に占領されると、やがて明国になっても足利政権はその従属国扱いでした。  「寧波」がニッポンの原語らしいのですが、ここに日本府をおいた中国地方の大内政権は、義隆の弟を北九州へ養子にだし大陸勢力の団結を計っだのが、そこに、騎馬系子孫の猿懸城主の毛利元就が出現。
 
 この毛利が原住拝火教の尼子氏を滅ぼした。だから同じ拝火教の織田信長は、敵討ちとばかり、復仇の軍勢として秀吉を差し向け、これを日本史では中国征伐としている。 話は戻るが、南北朝の対立というのも、有体にいえば、中国系(北朝)と朝鮮系(南朝)との代理戦争だったのです。 今ではもっともらしく当て字で「菊池一族」と呼ばれる南朝方も、<大友軍記>の写本には「きむち一族」と書かれている。また、                                                                     楠木正成の妹婿の名前も「インチョンポ」で、日本名は「尹正澄」となっいる。 有名な、有田蜜柑も韓国からのもので、神戸で最後の決戦したのも、三の宮あたり迄は朝鮮人の租借地同然で、後藤又兵衛の頃でも、又兵衛がキムチを肴に、マッカリを飲んだという記録さえある。 キムチの土地だった故であります。  つまり岡山地方が日本書紀でいう「中ツ国」ですので、捕えられてきたクボの民は、今の大阪や兵庫、そして広島あたりに限定居住をさせられて、食糧作りや塩作りなどをさせられていました。  だから和歌山から河内へ掛けての百済系の土地に、彼らは住まわされて、やはり自らの住みよい土地にしようと、南朝方に味片して戦いましたが結果は負けてしまい、 哀れ彼らは反体制の徙として限定囲い地へ入れられたのである。

真説 大阪城物語

2019-06-26 09:52:25 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

岩波新書に『大坂城』というのがある。筆者岡本良一は大坂城に四分の一世紀以上奉職していたひとだけに、こと大坂城に関しては、 『大坂城誌』を明治三十二年に刊行した小野清にもまさる一大労作で、これは史学的見地からだけではなく、日本の土木工学の近世工法の開発技術の徹底した研究書ともいえる。  これだけの内容が非歴史家の手によるというのも驚きだが、なにしろ石山本願寺の頃の大坂御城の時から筆を起こして、  「焼けて建てて、また焼けて」をくり返す歴史を、徳川家の築いた元和時代から現在のコンクリート建てにいたるまで調べっくしている。  そして「越登賀三州志」といった加賀前田家資料まで揃えて、従来の通説をものの見事にひっくり返している。大変な努力である。

だが、この人は歴史家ではなく、またいわゆる専門家ではない。教科書を書いて儲けたり、学校に籍のある先生でもない為に、歴史学者としては遇されていない。 先頃なくなった田村栄太郎氏なみに在野研究家として扱われる。 だから、この労作は、十年一日のごとき講義をしたり、自分の本を学生に押しつけるしか能のない大学教授たちに是非読んで勉強して貰いたい一冊である。  さて、一般的に城というものが二十一世紀の今日でも、「郷愁」に似た感じで人々の心をひき、この大坂城だけではなく、各地の城が復元され観光用にまでたっているのはなぜかというと、 これは原住系の人には、きわめて信仰的な名残りをいまに伝えているからではないかと想われる。  というのは、日本人の大多数を占める、原住系の戦闘部隊を、「ヤン衆」、ヤ印というが、彼らがその昔、渡海してきた仏教側軍勢と戦った拠点が、「ヤのシロ」であり、 これが縮まって「ヤシロ」となったせいらしい。  だから原住系にしてみれば、城と社とは同じような想念のもとにあるからして、魂の故郷のごとくに魅せられ引かれるものがあって、いまでも限りない位に城郭ファンがいるのであろう。
いきなり「ヤ」のつくのが戦闘部隊だったといった言い方をすると面吮われる人も多いから蛇足をつけ加えると、 戦国時代に、「矢銭」とか「屋銭」、「八銭」といった当て字であらわれ、たとえば、
 「信長より石山本願寺に、矢銭二万貫仰せっけられる」などとでてくるのは、みな「ヤ銭」、つまりいまでいう軍事費のことである。 「屋」とあっても固定資産税ではない。歴史屋の中にはこの説をとる人もいるが、間違いである。
 このヤの付く連中は、のち武士を失業したときには一般に「浪人」とよぶのと区別されて「牢人」と書かれたのも、牢に入っていたり出たからでぱなく、 彼らは牢役人になった者が多かったので、それゆえの命名であるし、徳川末期には、「二足草鞋」とよばれる十手持ちの「やくざ」になったのもこのせいなのである。 だからでもあろうか、いまでも新聞や小説をよむと、「清水次郎長こと本姓山本長五郎」とか、一般の事件を起こす人の人名や、小説やテレビのフィクションの配役にも、 姓の上にヤのつくのが多いのはここから由来しているようである。
 さて、この岡本良一の『大坂城』はきわめてよい本だが、「細川忠興軍功記」のような悪書を引用してしまい「天正十年春に大坂城本丸は丹羽五郎左、千貫矢倉は織田七兵衛と二分して預けた」 と誤るような個所がないでもない。  これは天正十年六月二日の四国攻めは織田信孝が大将で、二人はそれに従うため大坂住吉浦へ四国征伐の船出をする必要上、五月末に入城したのである。
 ところが本能寺の変で明智の婿というより、弘治三年に謀叛人として殺された信長異母弟信行の忘れ形見が七兵衛ゆえ、これを信孝と丹羽が疑って千貫矢倉へ彼を追い詰め殺したのである。
 
 
また俗書『川角太閤記』からの引用で、「賤ケ岳合戦後に、丹羽長秀と織田信孝は大坂城へ城番として入ろうとしたが、秀吉に断られ国許へ帰った」となっている。 だが、柴田勝家が自刃する四日前の時点ですでに『兼見郷記』『北畠物語』では、  「秀吉は入質として押えていた信孝の生母板御前、信孝の娘を安土で張付になした」とでている。  丹羽が城番に入ったのは勝家自刃後の北ノ庄の城であるし、信孝は戦後七日目に尾張野間で生害していて大坂へ行けるはずがない。川角太閤記は幕末のものでこんなものは史料にはならない。  ついでに「」を誤っているが、これは別所と同意語の原住民捕虜収容所の名残りで、「浅草彈左衛門由緒書」にも、石工は猿回しなどと同じ配下となっている。 この三個所だけは後世に残るこの名著のため、再版のとき訂正してほしいものである。
 

日本人は馬鹿と阿保の絡み合い 阿保(アホ)の由来

2019-06-25 11:34:34 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
故、鶴田浩二の歌に「この世は馬鹿と阿保の絡み合い、何から何まで真っ暗闇だ」と、誠に悲しく退廃的な一曲がある。 日本人の過去の怨嗟を表していて誠に示唆的である。
さて、この言葉は普通、阿房とかアホの三太等と使用している。九州ではアホの房太という。ザイゴの金太郎ともいう。女人へはメンタ、バイタ(売女)、カズメとよぶ蔑称に使われている。 一方の「馬鹿」というのも、馬も鹿も四つ足の獣ゆえ、騎馬民族への侮蔑用語なのである。
中国勢力の藤原王朝期は〈大宝律令〉の法律を制定し、「」として、、雑戸、家人、、でした。
 
 しかし北朝(中国勢力)が勝って足利時代となると、南朝方(朝鮮勢力)だった地方の者はみな反体制の輩として被差別した。 今でも楠、新田、足助、脇坂、湯浅、菊池といった地名が、みな昔の除地には残っております。 「奉行」とよぶ役名を作り、彼らの地域を、地方によってその呼び名は異なるが、散(山)所、別所、院地、院内、垣内、界外と命名した。 その限定地内に強制的に収容をして阿呆扱いして、その子孫をとして酷使したのが日本歴史なのです。
(注) 歴史辞典には室町時代の職制で将軍家のお産を司るとある。〈吾妻鏡〉の寿永3年7月20日に梶原景時が、出産の奉行をしたからと引用して、まじめに説明をしている。 梶原景時や足利時代でも評定衆の中座や二階堂のれっきとした武者衆が、産婆さんや助産婦の奉行をするのはおかしいと歴史屋は思わないのだろうか。
実態は、足利時代に前体制の北条の残党や幕府創業の邪魔をした南朝方の者達を捕えて隔離して、、別所と区別した。つまりや山所、別所の奉行のことで、 その区別制度の実施を司った奉行の事なのである。歴史家が横着なのか、頭が悪い証拠である。
 
そうでもないことには足利末期まで、れっきとした武者が代々にわたって奉行、しかも、さしつぎとよぶ予備の奉行までが、ずっと置かれていたのは、 いくらなんでも将軍家専用の出産係では、全く辻褄が合わないことになる。 真実は何かといえば、足利時代中期からはインドのカースト制度を導入し、被差別制度をとったので、 ゲットーともいえる、囲い地へ強制的に送り込む役目の長官が「奉行」なのである。
 
 岐阜では「他外」として、タアケとよぶのですが(信長の事をタアケ殿と呼んだという言い伝えがあるのも、ここからきている)、 王朝時代の囲地に足利時代の南朝方の子孫のを加えると全人口の六割か七割もいたのである。山中に匿れているのを加えれば85%にもなる。 その中より美しい娘や働きのよいのは、豪いさまの妾にされ、その他は娼婦にされていた。男は下人として囲地から出されたが、それでも日本人の八割は阿呆となります。
 
 
これが半減したのは、8代将軍吉宗が享保二十年に「五街道目付」に彼らの中の旅商人や旅芸人といった外へでている連中に、朱鞘の公刀と捕縄を渡し御上御用を命じた時からです。 「伝達」を同信心ゆえつけて貰い、囲地のから次々と脱出。江戸や京坂、名古屋や博多に入りこんで、銭をだし町人別を求めて商人や職人になってしまったのです。 それでも、は南朝方の騎馬民族の白山信仰者ときめつけていた世間では軽くみて、「しろと(白人)は何をやらせても、くろと(黒徒、仏教徒)にはかなわぬ」となし、 今ではこれが、「素人、玄人」と区別されています。玄人とは原住民、つまり最初からの日本人の意味であるとしているが、仏教をもちこんできた坊主共の、 墨染めの衣のグループが日本原住民という事はありません。明らかにこれは作為で全くの逆である。各寺の説教に誤られて、は帰化人の溜り場と、まったく反対にされ今日に及んでいます。