新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

おけらになっちゃつた おけらの由来

2019-06-25 09:14:26 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
オケラ虫という名で、土中の昆虫の事だが、日本各地にはオケラ祭りといって火縄を氏子にくばる鎖守が多くある。 言葉として「競馬で負けてオケラになっちゃった」とか「オケラ街道まっしぐら」等と使うが、その意味としては、「全然なくなった」事を意味する。 だがこの言葉の本当の意味と、オケラは土中に住む小型モグラのような可愛らしい虫なのに、何故こうした言葉を使うのかという謎である。
 
テレビ時代劇では武家屋敷には表札が出ている場面が度々出て来る。裏長屋の木戸口にさえ居住者の名が出ている。 大通りに面した商家の「越後屋」や「越前屋」等の大看板は間違いではないが、武家屋敷や長屋の表札は間違いである。 昔は郵便配達や宅配便など今のように多くはなかった。明治になって、戸籍で人口を把握し、強制的に徴税書や徴兵令状を送り付けるための、お上の都合で始まったに過ぎない。
 さて家というのは、土台をかためて、その上に建てる物なりといった考えは明治の末からです。 田舎では大正期に入ってもまだ地下に穴を掘って住居にし、地上には来客の時に莚をしいて坐らせる出(ディ)とよぶものの上に支え棒をたて、 左右立てかけの屋根をのせていたのは、菊池山哉の「日本の特殊の研究」の本にも、信州や甲州各地の実例が写真入りで多く掲出されて残っています。
 
 だから地上に家をもったり立身出世する事を、「陽のあたる場所へでる」などと言うのです。  〈延喜式〉にでてくる「編戸の民」を編んだ莚を戸の代りにしていたように誤っていますが、あれとても穴の上に莚をかけるのを、おかみより特に許された哀れな奴隷課役百姓のことであります。  藤原王朝時代には先住日本人のことを「根」とよんでいました。反体制派として絶えず警戒していたので、彼らを討伐し、みな殺しにしてしまうのを「根の国へ」とか「根絶やし」と称しました。 有名な青森のネブタ祭りも、討伐した原住民を、大きな穴を掘らせて、生き埋めにし、穴に草木で蓋をした。その上から生き残った者たちに踏ませたのが始まりなのである。
 
 穴の中には家族や子供も入っているから、強制的にやらされても、人情としてドシドシと踏めないから、 今もその名残で「はねこ」と呼ばれる者たちの踊りは、ひょこひょこと頼りない踊りになっているのである。
 岩手県の閉伊(夷)郡のごとく集団で追いこんで一の戸、二の戸、三戸、八戸と関所を作って出てこられぬようにするのも「根蓋」という。 おかみの命令で討伐軍の司令官坂上田村麻呂の絵を飾り立て、前記のように今はネブタ祭が盛んである。  「土蜘蛛」などと歴史書にはでてきますが、大和朝廷に従わない連中の元祖というか、私共のご先祖の穴居縄文日本人は、次々と討伐され降参したのは〈延喜式〉にあるように、 種モミを当てがわれて強制的に奴隷課役を命じられた。それを拒んで穴にもぐりこんで匿れているのは、大戦中の米軍の火炎放射器で焼き殺すように、 火のついた藁束を放りこまれて蒸し焼きとされて、みな残酷な全滅作戦で虐殺された。 それゆえ完全に処理したという表現が「オケラにした」なのであり、吾ら原住民の先祖たちが虐殺された歴史の悲しい言葉なのであります。
 

「われら誉ある日本原住民」奇怪なり「ねぶた祭」 ねぶた祭りとなまはげ祭の由来

2019-06-24 15:07:52 | 新日本意外史 古代から現代まで
奇怪なり「ねぶた祭」
 
ねぶた祭りとなまはげ祭の由来
 
 
秋田の奇祭「ナマハゲ」が、ユネスコの無形文化遺産に登録された。来訪神」と云い、日本各地に類似した祭りがある。だがこれはそんな生易しいものではない。
「農作物増産強要恫喝イベント」ともいうべき悲惨な祭りの裏返しなのである。
 
この文は、以前ニフティの歴史会議室で日本民族単一説を否定した処、質問者が出て、それに対する回答の形式でUPしたものです。 太古、日本列島に百済が、奈良王朝を建て、次いで唐国の勢力が「藤原氏」と称して平安時代に君臨していた。 そして、我ら日本原住民を奴隷となし百姓としてこき使った歴史がある。だがである。 日本原住民の全部がおとなしく奴隷になった訳ではない。東北に追われた原住民を組織化し、百済人征東大将軍紀ノ古佐美の率いる五万の大軍を北上川で全滅させ、鉄武器を奪って田子の浦まで攻め込んだアテルイがいた。
 
しかし次々と大陸の援助で鉄武器を大量に補給された坂上田村麻呂らと12年にもわたり戦ったが利あらず。百済部隊に制圧されて滅びた。
アテルイは今の大阪府の杜山まで連行され斬首、さらし首にされたが、東北に残っていた妻子や残党は、大きな穴を掘らされて生きながら埋められ惨殺されたのは、パレスチナ難民の群をイスラエル兵が皆殺しにしたのとまるで同じ状態だった。ただ違うのは、生き埋めの上に土をかけ、その上に出てこられぬように降伏し奴隷となった者らに踏みつけさせた。これが今の東北三大奇祭のネブタである。
 
つまり根(死)の国へ追いやる為の土かぶせの蓋ゆえ、踏んづける恰好をする踊りで土地の各会社がスポンサーになり、坂上田村麻呂の山車が賑々しく彩りを添える。
エルサレム難民が、惨殺を指揮のキリスト教右派の少佐の山車を担ぎ出しワッショイワッショイとは、まさかやる訳はないだろう。まさに無知とは罪悪である。こうした倒錯した価値観だから、自虐史観、自己悪逆史観とも謂われるのである。
 
 (このネブタ祭りの真相を、別な会議室で書いたところ、青森県の方から「今さらそんなことを暴露されても困る」と言われました。しかし、私はだからこそ、歴史を正しく認識して、かってはこの列島の最北端に栄えた日本原住民の一方の雄であった「津軽王朝」の不屈の精神を讃える祭りに変える事が、先祖の霊に報いる子孫の義務ではないか。と提案しましたが・・・・これでは先祖の真実を理解すること蘊奥に達せりとはとてもいえはしないから)
万邦無比の日本人の勤勉さというのも、真実は、反抗すれば反体制として徹底的に苛められ、非国民扱いされるからやむなく奴隷的従順さでオカミの言いなりになってきた伝統だろう。かつて「戦陣訓」で「生きて虜囚の辱めをうくる無かれ」とされ野戦病院の動けぬ患者にも自決用の手瑠弾が渡された。
 
 何故かと言えば戦奴の日本兵は、親方日の丸の時は絶対服従だが、捕虜になると今度は親方紅旗、親方星条旗になってしまう。中国戦線では学歴のあるのは延安へ送られ、野坂参造の教育を受けた。その他の者も飯を食わせてもらっている義理なのか、捕虜になるとすぐさま勝手知ったる味方の陣地へ手引きをし、先頭に立って突入する。文禄の役でも、加藤清正を籠城に追い込んだのは、降倭と呼ばれた旧日本軍だつたのである。
 
 特殊潜行艇で出撃し、捕虜第一号となったS大尉は「姓名S、認識番号…番」とだけ答えればいいものを、海軍特別暗号から日本海軍の微にいり細にいったレポートを提出した。後、山本五十六を撃墜したときには、勲章代わりにシャンパンを届けられたと言う。戦奴の兵だけでなく大尉でさえ、好かれようと媚びるように奴隷根性そのままである。
だから捕虜にされたら将棋の駒みたいに、進んで敵側の機嫌取りに使われる国民性ゆえ「捕らえられずに自滅してくれ」と口封じに、身動きできぬ怪我人にさえ自殺させたのが皇軍なのである。どうして国民性が万邦無比な奴隷根性なのか?という根元的な問題を歴史屋が解明しないので、軍人はその奴隷性を忠誠心と解釈して、ぶん殴ることで鍛えに鍛えた。
つまり日本人の体制べったり志向や、長いものにはまかれろ、といった、御無理御尤もの奴隷根性を、今や国民性になってしまうまで浸透させ、遺伝子情報にしっかり組み込ませてくれたのは、誰のせいなのかと聞きたい。従順、健気、忠義の国民性からは外圧でもなければ革命などおきにくいのもむべなるかなである。つまり、こうした家畜人ヤポンスキーに我々を仕込んでしまったことを考えてくれるなら、
 ★日帝30年の圧政。 ★加藤清正が綺麗な女を連行していった。 ★島津豊久が陶工を薩摩へ伴っていった。 ★伊藤博文によって日韓併合を強行された。 ★大震災の時町会自警団に撲殺された。 ★従軍慰安婦を強制された。と言った批難は果たして出来るだろうか。
朝鮮征伐の時に日本が荒らしたことばかりしきりに言うが、秀吉の急死による引きあげで休戦協定もできずの撤兵だつたから、取り残され虐殺された日本人がいかに多かったかを歴史屋は現地で調べてきて貰いたい。箱根権現神社も伊豆山神社もコマのカラ神様だというのならよく参拝もしょう。だから安保継続で日本の青年が、アメリカさんの命令で其方へゆかねばならぬその節は、どうぞお手柔らかにと今から節に頼んでおきたい。
 
 
さて、長くなりました。世界史を俯瞰すれば正に異民族間の闘争の歴史である。現代でさえ局地的に民族紛争が絶えていない。人類はもういい加減に大きな心でゆるしあえないものだろうか。こうして過去(歴史)をしっかりと見据えた時、初めて未来への指標が見えてくると思うのだが。
大和民族単一説は、戦前の軍部が国民精神高揚の為に利用したものですが、○○さんがおっしゃるように、最近ではこの説の信頼性は希薄になっておりますね。石原慎太郎氏さえも疑問を呈しております。しかし学校歴史では「日本人は複合雑種民族であり、アラブ、インド、ベトナム、ミクロネシヤやポリネシア、中国大陸系、朝鮮半島系、沿海州からの騎馬民族系、白人系と雑多な民族によって構成されている」とは教えておりません。
 
(しかしこんなに自国歴史の諸説が氾濫する国も珍しいですね。世界の先進国に在って、日本にはないもの、それは歴史学博士です。こんな処も不可思議な国と言われる所以でしょう)私は民族主義者でも国粋主義者でもありませんし、日本という国土を民族をこよなく愛する平均的な日本人です。
しかしヒトラーはゲルマン民族最優秀説を唱え、世界を相手に戦い破れました。内実は雑多な民族で構成されたアメリカに負けたわけで、純血主義を標榜する国は危険ですね。
●方言についてのお話がありました。
それぞれの詩人の郷里のいわば<母国語>なのですが、その詩に附された自注を読むと、当たり前のことなのですが皆方言で詩を書くことに意識的、自覚的です。
方言は「母性の呪文」ともいいますし「地霊、祖霊の声」と言う人もおります。学校などで共通語、標準語の洗礼を受けてしまえば、これらが方言の上位に立ち、
方言を使うことが肩身の狭い思いになる傾向は如何なものでしょう。今後、方言が上に立つ共通語によって牛耳られ駆逐される歴史の流れを止めるのは困難でしょうが、
○○さんも大いに方言で語ってください。
●ねぶた、に関連して漢字と平かなに対する疑問がなされておりました
 
 占領軍が日本に漢字を持ち込み強制使用させるまで、この国には様々な文字が在りました。三十八種類在ります。 アラビア文字を縦に書いたような、アヒルクサモジ。
トヨクニモジ、ホツマモジ、カミツモジ、等ですがこれらを神代文字といいます。
こうした古代和字に関しては存否両論があります。参考までに以下の本を紹介いたします。
「日本超古代秘史資料」吾郷清彦(新人物往来社)著者は戦前の旅順工科大学電気工学科卒業で、全く歴史畑とは関係ない人です。しかし大変な研究で労作です。
これによると漢字文化以前に、日本列島には様々な民族が同居しており立派な文字文明が存在したことが判ります。
 
カタカナなどは日本古来の文字ですが、今や漢字全盛で外来語や「キャーッ」とか「ドカーン」といった擬音表示に使われてその地位が低く扱われて居ります。
 漢字を使用する側でカタカナを「金釘流」と馬鹿にした言葉も残っております。ですから○○さんの疑念に私の考えを述べるとすれば、
「ねぶた」という名称は占領軍で原住民を虐殺した側が付けたのではないでしょうか。何故なら殺された側がつけたとすればあまりにも自虐的で哀しいからです。
 
 即ち占領軍の権威権力で付けた傲慢な名称、それを漢字で「根蓋」とした。こう考えるのは如何なものでしょうか。深遠で幽玄なる太古の時代、日本国の黎明期を駆け抜けた一群の人々がいた。 体制にまつろわぬ人々は、東北に一大王国を築き上げた。彼ら先祖たちの霊気が、渦巻く熱気と興奮を発散する。だから"ネブタ"は東北人のたぎる血を騒がせる。短い北国の夏を凝縮して燃焼させるように、人々は祭りに酔いしれ、闇の中に赤々と浮かび上がる武将たちの虚像の彼方に、"アラハバキ"の幻想を見るのではないでしょうか。
前回舌っ足らずの部分があったので、○○さんの反発はごもっともです。少し前説の補強をさせて下さい。
(一部重複します)日本人、日本民族には、徹底した奴隷根性と、更に民族の原種性を守ろうとする処女性(ウブな性質、スナオな性格)と、
この正反対の二面性がまことに鮮やかな対照をなして存在していると考えます。そして通俗の体制弁護論的歴史は問題外としても、
日本史の真相に深く切り込んだ歴史家、作家には二つの形が識別されます。すなわち、
(1)日本民族の原種性、単一民族性、処女性、ウブ性(上古の原日本語では、ウブは生まれたて、スナは生命の意で、それゆえウブスナとは生まれたての生命の意味)を強調する史観。この場合日本民族の起源は縄文時代、そして更にそれ以前に遡及するものと考えられる。単一民族性。
(2)これに対して、日本人、日本の庶民の、世界に稀に見るほど卑屈な奴隷根性、ウブとは正反対のスレッカラシ、及び日本民族の複合反撥雑種、拝金性を強調観とする、
この代表が八切史観なのです。「日本奴隷史」の阿部弘蔵も同じ立場です。
 
さて、律令体制以後、カースト制度の影響で貴族ととが厳しく区別され、反抗する原住民は徹底的に弾圧されました。そして多くは奴隷とされ、かろうじて生かされて来ましたが、奴隷化を嫌い民族の純血を守り抜いた民族が居り、これを三角寛は「さんか」として解明しました。
 彼らは所の大名にも、代官にも、即ちどの権力にも属さずに、各地に隠れ住み相互扶助の精神で独自の生活を営んでおり、これは昭和二十四年まで続いたと謂います。
日本史では、何々の乱として記されておりますが、実体はサンカを含めた原住民の復権を求めた世直しであり、革命だったと思推されます。少し本題から外れますが、
 明治の<秩父事件>を例に説明いたします。
 江戸期、漂白民族だったサンカは、騎馬系や海洋渡来系の中に溶け込んで暮らし、無政府主義的形態を構成して勢力を伸ばしてきました。
初め明治政府はたかをくくって弱小民族として警戒を怠っていた。しかし<秩父事件で>彼らの団結力と統率力に驚いた。
というのは、これまでの日本列島の内乱は、「天皇」を錦の御旗にし、それを頂き勝った方が官軍、負ければ賊軍といった掟のようなものがありました。
 
 
 処が彼らはそれを無視して、武器を集め人々を繰り出して参集すると、「天朝さまに、逆らい奉り申す」と檄文を貼ったりビラをまき、
公然と明治の年号を認めず「自由元年」と号して、別個の国家形成を天下に公表し、軍隊に対しても果敢に抗戦した。
かって徳川体制は、後水尾帝の院宣による島原での挙兵を、全国に波及するのを怖れて局地解決する為に「キリシタンの反乱」と宗教的なものに大本営発表して片づけた前例があり、これを真似たわけでもないでしょうが、「高利貸の利息に堪りかね、集団で高利貸を襲撃した一揆にすぎぬ」と秩父困民党を決めつけました。
 
 
現在でも都市銀行や信用組合は、個人に貸すより法外な利息が取れるアコムや武富士へ貸しています。政治献金を自民党へ奉って貸す方には極めて有利なサラ金法が堂々と国会を通る世の中です。昔の高利貸より悪質なサラ金時代で、犯罪も増加、陰惨な一家心中や自殺も激増しています。だから明治政府の発表の高利貸退治が真実なら、今の日本列島の各地で「平成秩父事件」が続発する筈です。
 
 
この秩父事件を「お上の発表とどうも違うぞ」と研究した人達も居りました。そして真相は「明治政府の弾圧や差別に堪りかねたサンカ集団の独立国家樹立の要望だった」と解明したのです。しかし秩父事件研究家と称する連中は掌を返してお上へ態度を一変しました。
ここが私が激しく糾弾して止まない日本人の奴隷根性という悪い体質なのです。「単なる一揆で、鎮撫官三浦悟棲将軍が己の出世の為に誇大に政府に報告したのだ」と、お上に都合の良い尻つぼみの本を臆面もなく刊行し、体制順応型を決め込んで居るのです。
だから、今もこの流れの本が多い訳なのです。こうした体制順応型の人間は多く、庶民の代表の如く政府批判の知識人や評論家が政府の何々審議会などに入ればコロリ変身したり、ましてや叙勲の候補になったりすればお上べったりの人間に成り下がる、これも奴隷根性の悪しき側面です。
さて結論に致しましょう。
日本列島には太古、八っの王朝が在りました。
1.      東北津軽には東日流王朝。
2.      大和、河内に奈良王朝。
3.      岡山に中国系の吉備(華夏)王朝。
4.      裏日本北陸には白山王朝。
5.      神奈川曽我に曽我王朝。
6.      琵琶湖から中部地方に淡海王朝。
7.      静岡には富士王朝。
8.    九州には阿蘇王朝と隼人王朝。
 
これらは列島にたいした争いもなく”棲み分け”して平和に暮らしておりました。しかし月にむら雲。大陸勢力が民を良(体制に順応する民)と賤(反体制の民)に区分しました。奴隷とは哀しい存在です。御主人様絶対で、逃げたり逆らえば即座に殺されます。しかし必死に生き抜きその子孫は今も列島にみちみちて居ります。
 奴隷は自分で考える事はしません。主人の命令を忠実に実行すれば、やがて所帯ももて、年季明けには自由の身にもなれます。こうした習性が何百年も続けば遺伝子にしっかり組み込まれ、自由な人間性を回復するのは難しいのではないかと思います。こうした奴隷性の弊害は現今の社会の至る所で噴出しております。
 官僚も会社員も上からの命令は絶対ですから、「おかしいな」と疑問に思っても命令には絶対服従で、従って組織ぐるみ、会社ぐるみの不正が今の日本を形成している、と洞察するのは独断と偏見でしょうか。
 余談になりますが、太平洋戦争前、アメリカは奴隷日本史を研究して日本人の特性を知悉していた節があります。特高と憲兵隊で国民を押さえつけているが、開戦すれば本土決戦などできっこないと、自信を持ったのです。そして占領。マッカーサーは颯爽と丸腰で厚木に降り立った。
他国の軍隊に占領され只の一度もレジスタンスをしなかった国は、世界史でも例のない事例です。昨日まで親方天皇様で、一夜明ければ親方星条旗とコロット変わる順応性の良さ。裏返せば主体性の欠如でしょう。安保を金科玉条として、首相が変わる度のアメリカ詣で(参勤交代)では、アメリカの属国と何ら変わりません。
ですから日本人は正しい指導者さえ現れて「明日からこれで行く」と号令すれば、一気に変わるでしょう。明治以降の日本の体制は、律令体制の土台の上に(あくまでも律令制の大枠は破壊されていない)欧米資本主義制度を設営し、個人の幸せは二の次三の次で、国益尊重と組織大切主義を第一としたものです。
 
 
それゆえ、日本的資本主義制度を世界照準に合わせ、さらに律令制の土台である大蔵省に代表される官僚制を破壊しなければなりません。そうするための不可欠の第一の前提、準備作業こそ、律令体制の産物としての紀記に始まる日本史の偽造の正体を暴露し、かっては輝かしい文化を享受し、平和を愛でた日本原住民の真実の歴史を明らかにすることだと確信しております。
そして○○さんが仰るように、政治改革の運動はハナからなかったものを求める運動ではなく、失ったものを取り返すものだと私は考えます。キーワードはイノベィションとデスカバリーです。
私共の体内を流れている原住民(生活者)の熱き血潮は決して奴隷根性の卑屈と従順の悪血だけでは有りません。だから、かって先祖の反骨と抵抗の光輝なる血と英知を結集すれば、我ら原住民の復権は成就出来ると考えるのは如何でしょう。
普通の国ならば、これだけ国民をコケにして、やりたい放題の政府なら即革命です。私に一個連隊を預けてくれたら見事に”革命”を実現させてやる・・・・と、夢想して焦燥感に駆られておる現在です。
さて、政治改革を成す上で、明治維新を参考にする事は危険です。幕末維新革命は当初、神祇による打倒仏教革命として始まりましたが、西南勢力である、薩長に横取りされ、原住系民族の大同団結は失敗し、差別即ち同和問題を残してしまいました。歴史に学ぶとすればここは大切です。
 
明治維新の裏話として以前書きましたが、学校歴史や通説と全く違う見方があります。弁護士で契丹史研究家の鹿島昇氏の著作「裏切られた三人の天皇」(新国民社)があります。一読する価値はあると思います。長くなったついでですから、山形の詩人高橋兼吉氏の「東北の鬼たち」から援用させていただき、「化外」という詩誌の一文を紹介します。
 まつろわぬものども、それが鬼であり、中央集権的な権威やロッキード事件に見る権力に抵抗する、みちのくの民衆の一つの声として、伝統の良さを継承する原点となるに違いないことを信じるからであって、そんな意味が僕(高橋)を頻りに捉えている。鬼とは何であろう。
 
 
 秋田県男鹿の詩人沢木隆子は「東北の鬼」は私たちの祖系であるかもしれぬと語った。つまり鬼はまつろわぬ異民族であり、皇化に抵抗した東北地方の土着の民族、アイヌであったかもしれないし、アイヌ族ではなく、漂流民としての異人であったかもしれない。アイヌか又どちらでもないが、大和朝の征夷軍と闘わねばならなかったエビスであることは確かだ。当時のエビスやクマソは土着の平和を楽しんだ民衆集団であったろう。
 
こうした沢木氏や特志の研究家達が「なまはげ」や男鹿の民俗をまさぐっているように、国民の税金で養われているくせに、学生を「弟子」と称して旧態以前の徒弟制度に胡座をかき、重箱の隅をつつくような事に浮き身をやつしている官学教授や、アカデミックな連中より、水沢の人達に期待をかけるしかないのかもしれない。そして鬼についてだけ興味を持って、鬼の正体だけは知りたいと焦燥する。 鬼はオニ(隠忍)であって鬼でない事の証明を突き止めたいと思うのでしょう。 以下は「ネブタ祭り関係者」からの抗議的質問に対する私の応えです。
 
○○さん、今日は。 さて、初めにお断りしておきますが、私の前後の文脈からは「ネブタ祭り」そのものを批判しているのではない、ということは御理解頂けると思います。「歴史は過ぎ去った具象ではなく、現代に力を及ぼしている過去である」という言葉の通り、私の批判の矛先は虚構の歴史を教えて恥じない歴史屋や、体制に向けられている、ということも御理解頂けるのではないかと思います。とはいえ、既成の歴史概念はあまねく国民に浸透していて、いわゆる正史と呼ばれる 側からは、こうした今回のような説は”異説”として顧見られません。
しかし私も若い頃から古文献を渉猟し、裏付けも取った結果、現在の「八切史観」に到達した訳で、この史観の立場からの考察を、前回の説を補強する意味でネブタに関連する周辺事象から展開してみましょう。
 
 いわいでものことですが、これを肯定的に受け止めるも可ですし、否定的な評価と判断はそちらの領分です。 ただ私としては歴史的正当性、即ち正義と真実は後学の研究に待つしかないのだろうなと思っております。(少し長くなりますが悪しからず)
 
先ず青森(青森県)の由来から考えてみましょう。歴史屋さんが説く、青々とした森の多い土地というのはどうでしょう?江戸初期までは青森湾の砂州の、鳥頭などの低湿地を「蝦夷外浜の荒地」とされておりました。これを寛永年間に津軽信牧が占領して開発しました。つまり、天慶の乱の時追われ、大陸勢力である中華の風俗に馴染まず、同化せずにイアルサンスウや漢字を拒否した不逞の輩とされた、日本原住民が隠れ住まっていた土地なのです。
 
 騎馬民族の象徴である「馬」のことを「あお」と言いますが、海洋渡来民族と騎馬民族が共に反体制の民として追われ、隔離されていた土地、つまり藤原体制からは青どもが森のごとく群がって居る所として、善知鳥ウトウなる古名すらあります。○○さんの文に「夷狄(野蛮人の意)」がありました。誠に仰るとおりです。この「夷(い)」について考えて見ましょう。定説とされているのは、北陸や奥州に住した原住民で、北海道にはアイヌと呼ばれる民族が居て、語源はエビスがエズになりエゾとなったのをイとなす、処の説。
しかし、このイはあくまでもイと考えるべきでしょう。何故なら、今の岩手県の閉伊郡も、これは当て字で、かっては閉夷郡となってました。つまり日本原住民を閉じこめていた捕虜収容地のことで、アメリカのインデアン居留地並のものだったと想われます。
しかし北海道に住む少数ですが純粋アイヌの人たちは碧眼で、あれは紛れもなく白色人種です。そして我々の先祖は今も昔も黄色人種です。
 
これを故意に混同しているふしがあります。おそらく藤原体制以降の施政方針によるものでしょう。さて、関東のイは関西ではアになってしまいます。つまり恐山のイタコや、水郷地帯イタコの伊太郎と呼ぶのが、イカン、イケマセンがアカン、アキシマヘンとなるごとく、アタゴ(愛宕)と変化させられているので、夷は少数民族なりとして、アイヌであるとしてしまっている説さえあります。
 畳表のイグサにしても、箱根を越して伊勢当たりではアミとされてしまうのと同じで今では完全に判らなくされてしまっております。閉伊郡についても考えてみましょう。岩手県に胆沢という地名があります。これは<倭名抄>には伊佐波と書かれております。中尊寺文書では伊沢と書かれてます。これらは皆当て字ですから閉伊郡と同じで夷沢とされていた土地です。つまり日本原住民が移郷されていた保留地の事です。
【注】移郷というのは、大宝律令の時代から、中華の風俗に馴染まぬ原住民に、賊盗律をもって課し、反乱や反乱準備の容疑をかけ、それまで住んでいた原住民を強制的に他郷へ移住させた過酷な法令。しかし奴隷として売れそうな者は間引きして都へ連行し、その他の者が川州や岩山などの荒地へ放逐されたことを言います
<続日本紀>宝亀7年11月の条に、「陸奥軍三千人が胆沢賊を伐たんと出発」などとあるのも、荒地に移された者達がそれに対して反抗の気配を見せたので、徹底的武力弾圧を開始した記録と見られます。
 
 
東北地方に<絵暦>というのが在ります。これは青森や岩手では明治になっても使われていた南部暦です。盲暦などと悪口を言いますが、これも大陸渡来の仏教や漢字を拒否した証拠です。明治六年暦では、右は大刀で大の月。左は小刀で小の月。七は七輪、鉢は八。入梅は荷奪いの盗人の絵。といったように絵柄と賽子の目だけで、一目で直ぐ判るようになっております。
 
 次に、蝦夷、についても考えてみましょう。「エビスがエズとなるのは、清水をシズとする東北弁のせいなり」とするのは、日本歴史学会の泰斗喜田貞吉の説です。彼はアイヌがそうであると決めつけてもおります。また、「旧唐書に、東海の北界に大山ありて限りとなし、山の外が毛人の国とあるゆえ毛深い人間で、蘇我蝦夷も剛毛であったからアイヌだが、裏日本では彼らをコシつまり越人なのである」とも説いてます。
しかしこの説でゆけば東北人から越前越中越後や加賀から新潟、若狭の人間までみなそうなり、上杉謙信もアイヌの末裔になってしまいます。文治五年の衣川攻めの論功行賞に当たっても、「出羽と陸奥の国は夷の土地なれば、秀衡、泰衡の裁量に一任してあれど」と従来はしていたともしております。しかし、除地というのはに任せていたのが古来からの習慣です。これが鎌倉末期になると、安東氏(海洋渡来民族)の反乱となり、戦国時代も秋田実孝が支配しています。
 
つまり飛鳥時代か神話時代か判然とはしないが、アナヒーターの水の女神を奉じたり、アルファダの火神を奉じた民が、海流に乗って渡ってきて権力を持った時。それより古くから既住していたエの民は統合され支配下に入っただろうし、騎馬系が裏日本から入ってきた時もそのまま弾圧はされなかった。
しかし、奈良王朝に続き藤原王朝になると、彼らは一緒くたにされ蛮族とされ、反体制の民とされてしまい、エビス、エベツ、エゾと総称されてしまった。とはいえ、日本列島に進駐してきた藤原氏を一とすれば、このエゾは数万倍の割合で先住していた同じような黄色人種なのです。
 
「初春の、はつねの今日の玉ぼうき」と<万葉集>に大伴家持の歌があります。「初音」と当て字をしますが、【子(ね)日宴・ねの日遊び】と呼んで、野辺で小松の根を引き抜く酒宴が御所には在りました。これは大国主命が根の国へ追われたという神話からで、反抗してまつろわぬ根の者を、根本より根絶やしにすべし、という挽歌です。
追分について。  藤原王朝が傭兵とした百済人達を使って、原住民を討伐し、女子供や年寄りを捕虜にして曳き立ててきた時、連れ戻っても骨折り損になるようなのや、労働力になりそうもないひ弱な人間を選別しました。街道が三つ又になっている処で、いくら夫婦や親子でも、連れ戻って奴隷市場へ出せぬのは分けて別路へ追い立てました。だから奴隷集積隊が廻った各地に追分けという地名が沢山あり、尺八で哀切極まりない悲しい旋律が多いのはこの訳なのです。
 
赤間神社祭の真相
さて、日本中には沢山のお祭りがあります。この祭りからの考察をしてみましょ。下関に「赤間神宮」があり、ここの花魁道中も華麗で有名です。幕末長州は馬関戦争で前田砲台を英米仏蘭の連合軍に占領され、上陸してきた彼らが 女を求めて乱暴狼藉を働いた。
まあ、進駐軍に女を提供するのは、古来よりの日本の伝統で、砲撃で土民たちは逃げてしまって集められない。そこで敗戦の立場上から、周防人の足軽の女房や娘を布令を出して呼び寄せて、「御国(長州)の為である」と主命として言い聞かせ、逃亡せぬように赤間宮に集め、勢揃いさせて女子挺身隊を作った。
そしてそれぞれ四カ国の軍艦に、次々と毎日のように女達を送り込んだ。しかし占領軍の各軍艦に十名ずつぐらい連れていかれは、何十名もの兵士の相手をさせられる。だから局部裂傷の為、落命者も次々と出た。その慰霊祭が今の花魁道中なのです。
 
 
やがて長州が天下を取る時代になると、これは恥で隠し通したい事なので、「女ながらも武士の妻。お国のためとあるからにゃ」といった当時の挺身隊歌が、「砲撃されて吹っ飛ばされた前田砲台構築の時に、女達もモッコを担ぎ挙国一致で協力したのである」と話を変えたのです。実際は毛深い異人相手でも、男は男だからと怖じ気をふるうな、と励ますための「おうジャリジャリ」の繰り返し言葉も「おうしゃりしゃり」と濁点がいつしか取られています。これは、川棚温泉に近い下関の吉見で、幕末の挺身隊の指図を祖父がしていたという旧藩士の家柄の人から直接に聞いた話です。 しかし今では隠されてしまい「平家女官説」がまかり通っております。その歴史屋の説く内容は「壇ノ浦で死に損なった平家の女官が、やむなく女郎になった」というものです。
 
しかし、前歴史学会会長の故高柳光寿博士もこれに対して明確に「平家の女が身を売るようなことは絶対にない」と否定しております。
これも有名な秋田のナマハゲはどうでしょう・・・・・・・・・・・ (以前「日本の鬼と桃太郎」としてUPしたので、一部重複しますが)
 鬼のことを漂着した異人、という説が在りますがこれは「東日流外三郡誌」第一巻の誤った影響でしょう。  藤原王朝に帰順した百済の傭兵団の坂上苅田麿の倅田村麿によって、板東八ケ国へ追われた原住民が、多賀城が構築されるとさらに一のへ(一戸)、二のへ(二戸)三のへ(三戸)と追い込まれ、それでも降伏して奴隷にならぬ者は八のへ(八戸)九のへ(九戸)えとバリケードを次々と設営して追い込み苛斂誅求をした。
 
だから異人ではなく、藤原王朝に馴染もうとしない日本原住民であり、土着民なのです。さて、この鬼を進駐軍が持ち込んだ地獄図絵の赤鬼青鬼の観念で誤ってますが、確かに鬼というのはストロングの表現であり、具象ではありますが、日本のはまるで違うのです。
 発音は同じでも「隠忍」の群なのです。「鬼は外、福は内」と、一掴みの豆を投げられたのを拾って飢えを満たしたり「施餓鬼」と称して薄いコーリャン粥を恵まれ投降を迫られる哀れな存在なのです。鬼は鬼でも餓鬼なのです。日本では強い存在ではなく、飢えと寒さに泣いていた原住民がそうなのです。そしてナマハゲを鬼と間違えています。
 
なまはげの本当の意味
 
 「張輩(チャンバラ)」と呼ぶ言葉が多賀城のあった仙台に残ってます。この意は、先住原住民を農耕奴隷として、彼らに過酷な増産を課役し、怠けたり、他より収穫が劣れば青竜刀をぶんぶん振り回して役人が、見せしめに竹串に突き刺したり、逆さ吊りにして処刑した。だから大陸からの「チャンらは酷いやつだ」の事なのです。そして彼らが「南無、励め」と喚き廻って来る恐ろしい役人の掛け声
 「ナムハゲメ」が「ナマハゲ」と縮まって転化しだしたのは足利時代からのことで、守護代の家人と呼ぶ官奴が役人となって、増産を命じた。ヒエやアワの収穫はできても、米は難しいのに寒冷地の東北でも無理に押しつけられたのです。直ぐ見せしめにと虫けらのごとく殺してしまうオカミが、彼らが見せる地獄図絵の赤鬼青鬼の羅卒のごとく想えて、農耕奴隷の民は脅えきって監督官の役人を「鬼」と見なして怖れたのです。
 
江戸期になっても雑草取りを怠れば収穫に影響するため、年貢代納の大庄屋が代官手代の指揮で作男供を使って各戸を廻らせ脅迫していた名残なのです。
 明治になっても修身の時代ゆえ、子供の時から親の手助けをして雑草むしりをして、寒冷地といえども増産に励むべしと「怠け者はおらんけえ」と恐怖教育に利用。今では観光用になってますが。
 太い鉄棒を構え、虎の皮褌で反仏教派の亡者を、血の池地獄や針の山へ追いやる中国大陸型の鬼を、ナマハゲは逆に投影して生まれた恐怖政治の具象的産物なのに、それを日本原住民の隠忍と混同してしまうから、全く訳が判からぬ話になっているのです。
さて、随分と回り道をしたようですが、ネブタに戻ります。
 
おけら、という地虫がおります。これは虫ではなく漢方辞典では薬草となってます。というのは、日本原住民が果敢なレジスタンスをした際に、日本へきた七世紀頃の大陸人は「根の国へ行かしてやる」と生き埋めにして土砂をかけて蓋となし、奴隷となった者らに足で踏み固めさせたのがネブタだとは前記しました。
その時、何百人もの原住民を生き埋めにしているので、未だ迷信がはばをきかせていた頃なので、彼らの怨霊が穴から這い出して来るのではないかと、根株が広がりさながら地面にバリケードの如く生い茂る「求」という草の種を持ってきて植えた。
 
だから日本原住民はその草根に、無念の内に死んだ御先祖様の霊が在るのだと、その根をオケラと呼んで大切にし、八坂神社の神灯にされ、その火を分けて貰って、雑煮をつくり、日本原住民は復仇を新年ごとに誓った。しかしわざわざ中国大陸から持ち込まれた草だから、漢方薬になるのかと煎じて利尿剤として用いた。
これが江戸期に入ってから「蒼求」となったのです。しかし東北地方では根蓋の根株を這い回る地虫をオケラと呼んでおります。
 
私も子供の頃このミニモグラのような可愛い虫を飼っていたことがあります。というのは、親たちは教えてはくれませんでしたが、「オケラを殺してはいかん。バチが当たる」と言い聞かされていたからです。
 今でも東北地方ではオケラは、御先祖様の生まれ変わりで、生き埋めにされた事は知らなくても、故意に踏み潰すようなことはしていないようです。
さて、大変長くなりました。こうして古代史を怜悧な目で眺めれば、日本人の奴隷性や、うぶすなな処女性が見えてきます。
 
日本原住民は奴隷となっても必死に生き抜き現代にその子孫を残しました。奴隷化を嫌って家族と共に、日本中を逃げ回り、独自の文化を継承した民族も居ります。こうした民族の末裔はこの列島の八割以上の人口と思推されます。第二次大戦後、彼らの末裔達は高度成長経済の波に乗り、都市へ出てきてサラリーマン、工員となり日本経済の発展に尽くしました。
しかし現状はどうでしょう。律令体制の悪しき残滓ともいえる大蔵省に代表される官僚機構は、私たち国民の生活を顧みません。無知無能の政府は国民の懐に手を突っ込み金を巻き上げて、やりたい放題です。  私はこれを「千手観音強盗政府」といってますが。
こうした現状を考えるとき、今こそ本当の維新を成すべきです。百年前明治維新は原住民の復権は失敗に終わりました。何故なら民主主義や資本主義の皮を被っても律令体制を復活してしまったからです。そして原住民差別(問題)を残してしまったからです。
○○さんのお言葉に「あらげ」がありました。誠に示唆的です。青森に限らず、東北には反抗原住民の末裔が多いので、この反骨精神と粘りの精神でどうぞ青森県から【平成維新】の精神を全国に発信してください。  何しろ一度は日本原住民を統合して、圧倒的に優秀な武器を持った大陸勢力を破った実績があるのです。 そしてネブタ祭りを本家争いのような些末なこだわりは捨てて、  日本原住民(生活者)の復権の象徴として、抵抗の誇りと、  反骨の誉れの力強い一大イベントにしては如何でしょう。
 
 
 

いにしえの奈良の都の八重桜 記紀は藤原氏によって捏造された

2019-06-23 09:53:19 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
西暦8世紀の人皇43代元明帝の710年から、784年の人皇50代の框武帝の延暦三年までをさし奈良時代とします。しかしナラはクダラ語で言う処の国の意味なのです。西暦六六三年の白村江の戦いで、奈良王朝の百済人は、本国のクダラ救援に総力をあげて攻めこんでゆき大敗した。
 
その翌年から当時は三つ編みの弁髪の中国の将兵たちが堂々とのりこんできて、 奈良の王宮へきていますのに、なんで今さら唐によって滅ぼされてしまったクダラが、日本列島にナラ王朝などを作り得るでしょうか。変な話だが、これには裏がある。
 また仮りに8世紀初頭から、圧迫された日本原住民たちが堪りかねて捲き返しに一致団結して、駿河の清見潟までアイウエオを一二三四五の合言葉に怒濤のごとく進撃してきましたゆえ、 大東亜戦の時に本土決戦にそなえて信州の松代へ大本営を移そうとしたごとく、20世紀の今でさえワラビ採りに行った主婦二人が襲われ殺され迷宮入りしているような、辺ぴな長岡へ急遽、都を移した延暦三年までがクダラ王朝であるとみるならば、これまた可笑しなことが二つあります。
 
この年代に、まず古事記が712年にでき、ついで8年後に、日本書紀ができている事なのです。
 クダラ王政下でしたら諺文(おんもん)でなくては変なのに、これが唐よりの四角い文字即ち漢字で書かれているという事である。マホメットのコーランがイスラム語で書かれているからこそ信用されるのでして、もしラテン語でしたら十字軍遠征時代の手作りと怪しまれ、絶対にアラブの信仰の対象にはならないでしょう。
仏書や仏典にしても初めはサンスクリット語のものが、中国経由で渡来したからこそ漢字漢文になっても許容されている。
 
 それでも梵語、梵字も伝わっているのです。となると漢文体の古事記や日本書紀の原本も中国大陸経由できたものでしょうか。オンモンとよぶ朝鮮文字が共に残っていないのも、実に変な話です。唐令そのままの大宝律令が、飛鳥浄御原律令を拡大整備させたものとし、藤原不比等が立法化したとされ、 彼が西暦708年から右大臣となるのも、これまた、まことに申して辻つまが合いません。
 その才覚をかって登用とか、藤原鎌足の子ゆえといろいろに言われますが、正直に申して朝鮮の人より中国大陸の人方が頭が良かったということもありません。
 
 ただ本当の歴史からみて中国大陸の唐人は戦勝人間でして、朝鮮半島人は当時は戦敗人間だっただけ差異でしかありえません。
 さて大陸人は、白村江の戦いの前から日本へ渡来してきていたのを桃の文字を使用し、その後は藤と変えますが、この時代からは藤原と同一の貴姓にします。 騎馬民族の崇神王朝系の蘇我の人々が、芝居では「曾我の仇討」という同音の当て字も使いますが、一般には「われこそミナモトの民なり」と源を姓に統一しますし、 その前の天の王朝系も当初は、みな天の御一門である。のちになると改姓して皆それぞれ熊野者も「平」の御一門となる。
処が百済、新羅、高麗となると統一姓はございません。
 
「コウラーイヤ」と芝居で松本幸四郎らに掛け声が残る他は、瀬戸物の青磁の名物ぐらいです。 もちろんコマと縮めれば、狛犬とかコマエ百姓、独楽のコマの原語もそうですが、占いコックリさんとしても残っている。
 新羅となると、八幡太郎義家の弟で、新羅三郎義光ぐらいで統一姓どころか何も伝わりません。
百済にしても「クダラにあらざれば人にあらず」とし、クダラねえといった俗語が21世紀の今でも使われる程なのに、法隆寺の百済観音像の他は、平安初期の画人百済可成の名ぐらいしか残りません。
 
三韓時代から日本列島を植民地にして、あらゆる地域を三分し備前・備中・備後と命名していたくらいのオーナーなのに、各別はおろか統一姓すら伝わっていなくて、奈良の国名すらも、今では「オナラのごとく消え」とされ、江戸期でも「音はすれども姿はみえず、ほんにそれゆえヘイ城京」と狂歌にされているくらいです。
ということは徹底的に奈良人は進駐軍によって奴隷扱いされキイの川の流域に初めは閉じこめられ、やがて男はヨボの走り使い、女だけは単身進駐の大陸人の臥床御用だったようです。  「いにしえのナラの都の八重桜今日ココノヘに匂いぬるかな」の唄にしても、
桜の花は八重桜にしても染井桜にしろ決して芳香などは致しはしません。
 
また、良い香りは、かおると言いまして、匂うというのは臭いということです。ヤエは古代クダラ語の女人のこと。サクラは寅さんのような香具師言葉になっては、人寄せの連中の意味になりますが、 群がるとか多いの複数の意味でした。つまりこの歌を綺麗ごとに教えこませているのは学校歴史の嘘でして、当時の怨歌であるこの意味たるや……
昔の奈良の女どもは粟ばかり食していたゆえ、キビ、つまりコウリャンを食させるようになったので、消化不良でガスが溜るのか、その最中にさえプウスカ洩して臭くて堪らぬわえ…… といった進駐軍の歎きのバラードが真実なのであります。
 
 が21世紀の令和になっても「朝鮮美人」とよばれるのが、白人とのハーフ全盛の現代になるまではおおいに賞讃され、かつては女優の司葉子がそうよばれて人気があったのをお覚えの方も、 まだいられるでしょう。  つまり8世紀を女上位の時代とみれば、ブウブウやりながらも威張っておられた奈良美人の世ですから、これを奈良朝とよんでも、一向に差支えはありません。 しかしクダラ系の中大兄の天智さまの死後、その御子の弘文さまを倒して、取って代わった天武さまは反クダラで大陸人である。次の持統さまはその妃であられたゆえこれは同系。
 
御子の文武さまとてやはり同系。ついで立たれて大和平城に遷都された元明さまとて文武さまの御生母ゆえ、やはり同系貴種であらせられるのであります。 次の元正さまも元明さまの皇女ゆえ同系。聖武さまは元正さまの御子ゆえ、やはりまた同系です。
 藤原鎌足の孫にあたると伝わる光明皇后さまを迎えて、おおいに仏教のPRをなされ、やがて御子の孝謙さまへ西暦749年に御譲位なされたが、7年目にまた御自身が取って代わられて人皇49代の称徳さまにならせられたもうが、慎しむべきは何んとかの途と下世話にも申すよう、道鏡さまのことで問題になり、 やがて崩じられて、次は光仁さまの世となりまするが、さて781年の天応元年、「正月三日、光仁帝、不豫ノ故ヲモッテ、桓武四十五歳二譲位」という緊急事態となるのであります。
 
 何故に継体王統に突如として、この時に消滅させられていた奈良系の桓武さまが人皇50代になられるのかという謎は、なんの文献も残されてはおらず「六国史」にさえも何もでていません。変です。  まさか唐によって滅ぼされた百済が、このとき再興して唐を破り日本へ攻めこんできて、河内の国より桓武さまをかつぎだしたという訳でもないようです。
だが、明白に同年十二月に前帝崩じたもうや、恐れ多くも桓武帝は「天皇哀号卜咽ヲ摧イテミズカラヤムコトアタワズ」つまり、帝は悲しまれて、哀号、哀号と叫びつづけられ咽喉をつぶしても、なお叫ばれ哀悼の意を表されたというのです。 が何故にこんなことを、藤原勢力がここまで書き残しているかといえば、せっかくの王統がここで替わるゆえ、その埋め合わせに挽歌として強調して、こうした文章を書き加えたのでしょう。 不自然さはそのせいだという事がこれで判ります。                   つまり西暦七八四年までが奈良朝となるのならば、最後の3年間だけが実際の奈良系の王朝です。
 
 それなのに一括し「奈良朝時代」などと日本歴史がするのは、結果論によると申しますか、はたまた、「終りよければ、すべて良し」のきめつけでしょうか。 まことに何も裏付けするものは残っていません。 これは中国勢力(藤原氏)が自分たちの都合で、すべて匿してしまっているので、今も誤られている藤原日本史なのであります。
さて、せっかく大化改新のクーデターを敢行させた黒幕のフィクサー藤原鎌足が、中大兄の死後はその御子の弘文さまも殺して、自分らの世となし、朝鮮美人の臭みにも馴れ、おおいに持ちこんできた仏教の興隆につとめていたのに、この期に及んでどうして、又も逆に戻ったのかとなります。
 
それは日本原住民が蜂起したため、治安維持のために旧奈良人を味方にせねばならぬ突発事態になったから、やむなくとった政策であろうと想われます。 その証拠に、西暦七七四年七月に藤原王朝は、陸奥按察使兼鎮守将軍大伴駿河麻呂を副将軍として河内守紀ノ広純を任命して、検税使を各地に向わせ反乱鎮圧に出向いているからである。 そして駿河麻呂が討死となるのは日本書紀に書かれている。
さて、世に史書と云われるものは数多く存在する。記紀を「これしか無いのだから、これが正しい」として、歴史屋は金科玉条のものとする。 しかし、実態は上記した通りである。ここで一つ例を挙げれば、現在一級史料と云われる「細川家記」がある。 あれだけ詳細に書き残されているということは、本能寺を襲った第一戦部隊に、先祖の細川幽斎が参加していたという、事実を糊塗する目的の書なのである。 誰が、何のために、何を隠したいが為に書かれたのか、ということを必死に考えることが大切なのである。 そして、記紀などは「歴史の改竄」等の生易しいものではなく、己らに都合よく歴史を捏造したものだという事である。
 

鬼も十八、番茶も出花 正説 桃太郎童話

2019-06-22 13:00:25 | 新日本意外史 古代から現代まで

   「鬼も十八、番茶も出花」

 鬼でも年ごろになれば少しは美しく見え、番茶でもいれたばかりは香りがある。 器量が悪くても年ごろになれば少しは娘らしい魅力が出てくるということのたとえ。 これが国語辞典や諺辞典の類に出ている意味である。 しかしこれは全くの間違いである。
先ず、 そもそもこの日本には鉄鉱石が太古から現代まで一片も採掘されていない。 それなのに角を生やした、赤鬼、青鬼の絵では鬼が太い鉄棒を持っている。鉄資源の無い日本で鉄棒など作れるはずが無い。
 
 この鬼という概念は、大陸人が日本列島へ仏教と漢字を持って進駐してきた際、 日本原住民の教化に、各地で使った「地獄図絵」の絵画からの所産に過ぎない。  大陸人の坊主共は、原住民を集め、中国語など全く理解できないから、  手っ取り早く目から入って強烈な印象を与える極彩色のこの絵を見せ、   「仏教の御仏を信じるものは、死んでからあの世では極楽へ行ける。しかし信じなければこんな恐ろしい地獄で赤鬼青鬼に苛められ、火の海や血の池でもがき苦しむのである」 と脅しに使ったのである。 そして日本で言う鬼という存在は「隠忍」つまり辺鄙な地に追われ匿れて堪え忍ばなけれは生きていけなかった憐れな差別された日本原住民の餓鬼の姿なのである。     
 
 さてこの「鬼も十八、番茶も出花」というのは浅井古松軒も書き残している「人馬の市」 という奴隷のせり売りの際に、各地の寺から原住民を青とも蔑称していたので、この青の子女として、馬と共に数珠繋ぎにされた娘達は、街道を歩かされ馬糞と砂埃で汚れ放題だから 当時「オニ娘も十八近くは、よく磨けば客のひける女郎になりまっせ」 と、せりにかける際の掛け声として、少しでも寺から買った値段より高く売って儲けようとする女衒の呼び声なのである。
 
「今はむさ苦しい娘だけれど、よく磨けば色白だし、こりゃとんだ掘り出し物になりまっせ」と  娼家へ娘を売り飛ばす為の口上として、女売りの女衒が必ず使うせりふなのである。昔、奈良の興福寺の塔頭の末寺に所蔵されていた「法相経」に次のように書かれている。難解な白文で経典風になっているが約すと次のような内容になる。
 
「オニとは王仁とも書く。仏教側より見れば、東光寺派の原住民共に馴染みやすい宗旨をもって国ごとに国分寺を建立し、仏恩を与えようとするも、敢えて拒む徒輩にて始末に負えず、よって仏罰を与えんと増悪を持って折伏を祈るものとする。よって和訓にてはオニは憎さも憎しの『憎』の文字を当てる」 これの写しが南都七大寺の全てに有ったという。  平安時代には、仏教の坊主共がこの経文を大声で唱えながら、春日神木を担ぎ出して、普段はお互いに反目しあっていたのがこの時ばかりは全仏教が一致団結し、従来の係争は 一切不問にして、大挙して京を襲た。    そして平家一門の邸宅を悉く焼討ちした。
 
  だから平氏はやむなく今の神戸の福原に遷都したのである。 だから悔しがった平清盛は、「春日神木をたてし御輿の僧兵共を、皆が確認しているゆえ、奈良興福寺を塔頭もろとも探索せよ。たとえ代々藤原寺として御所の氏寺にりと雖も、日頃は他宗と仲違いをして、互いに私兵である僧兵を繰り出して確執しあっていたのを取りやめ、何故に揃って皆が謀議しあって吾が平氏一門を狙うのかこの証拠を集めて皆運んで来い」と平重盛に命じた。
 
そして平氏の軍勢が奈良へ向かったのは、延暦寺宗徒と戦い、比叡山の天嶮に逃げ込まれて 戦果なく、折角の軍勢をどうするべきかと、清盛に伺いをたてたという古文が治承二年十月五日付けで 残っている。   前政権の藤原王朝の氏寺だから、火を放って焼き尽くす前に経文や文書類は、漢字の読める者が 皆検閲して怪しそうなものは末寺の分まで、寺の長持に放り込ませ、兵たちに担がせて悉く押収したという。 処が、翌年七月に平重盛は病没してしまった。  そして翌治承四年は、高倉帝の弟宮の以仁王が、平清盛の娘の徳子が産んだ三歳の安徳帝を平氏が人皇八十一代天皇として立てる。
 
 これに怒り不服として以仁王が、自分こそが正統な皇位継承者であると宣言し、平氏追討の令旨を源行家たちに秘かに出した。   同年五月二十三日に奈良興福寺僧兵共は、奪われた経典や文書を取り戻すため、源頼政に加勢する。だが宇治川を挟んで平氏と対戦するが敗れる。よって頼政は平等院で討ち死にする。   ついで、源頼朝が伊豆の北条氏を頼って平氏追討の挙兵となり、富士川を挟んでの大会戦となるのだが、「オニはニク」の写経類の行方は現在一切不明の儘だが、 オニがニクなら二九の十八で意味の辻褄は合う。
 桃太郎 伝説 御伽噺 考察 
 むかしむかし、あるところに、おじいさんとおばあさんが住んでいました。 おじいさんは山へしばかりに、おばあさんは川へせんたくに行きまた。   おばあさんが川で洗濯をしていると、ドンブラコ、ドンブラコと、大きな桃が流れてきました。
  「おや、これは良いおみやげになるわ」おばあさんは大きな桃をひろいあげて、家に持ち帰りました。
そして、おじいさんとおばあさんが桃を食べようと桃を切ってみると、なんと、 中から元気の良い男の赤ちゃんが飛び出してきました。
 
「これはきっと、神さまがくださったにちがいない」   子どものいなかったおじいさんとおばあさんは、大喜びです。 桃から生まれた男の子を、おじいさんとおばあさんは桃太郎と名付けました。   桃太郎はスクスク育って、やがて強い男の子になりました。そしてある日、桃太郎が言いました。「ぼく、鬼ヶ島(おにがしま)へ行って、わるい鬼を退治します」 そして、おばあさんにきび団子を作ってもらうと、鬼ヶ島へ出かけました。   旅の途中で、イヌに出会いました。
「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」  「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」  「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」   イヌはきび団子をもらい、桃太郎のおともになりました。
 
そして、こんどはサルに出会いました。「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」  「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」  「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」   そしてこんどは、キジに出会いました。  「桃太郎さん、どこへ行くのですか?」  「鬼ヶ島へ、鬼退治に行くんだ」  「それでは、お腰に付けたきび団子を1つ下さいな。おともしますよ」   こうして、イヌ、サル、キジの仲間を手に入れた桃太郎は、ついに鬼ヶ島へやってきました。 鬼ヶ島では、鬼たちが近くの村からぬすんだ宝物やごちそうをならべて、酒盛りの真っ最中です。  「みんな、ぬかるなよ。それ、かかれ!」イヌは鬼のおしりにかみつき、サルは鬼のせなかをひっかき、キジはくちばしで鬼の目をつつきました。   そして桃太郎も、刀をふり回して大あばれです。
とうとう鬼の親分が、  「まいったぁ、まいったぁ。こうさんだ、助けてくれぇ」  と、手をついてあやまりました。   桃太郎とイヌとサルとキジは、鬼から取り上げた宝物をくるまにつんで、元気よく家に帰りました。   おじいさんとおばあさんは、桃太郎の無事な姿を見て大喜びです。 そして三人は、宝物のおかげでしあわせにくらしましたとさ。お終い。
 
これが、一般的な物語の筋書きである。   桃太郎は善で、悪いやつは鬼と言うことになっている。  だがこれは善玉と悪玉が完全に逆になっている。
 
 さて、ここからこの面妖な昔話を解剖すると、日本で「中ッ国」と呼ばれるのは現在の中国地方の岡山。  中国大陸で隋を滅ぼした唐が朝鮮半島の百済も滅ぼした。  この当時の日本は百済人が立てた奈良王朝時代である。百済人たちは「朝鮮半島本国の一大事」とばかりに、  二万七千とも三万人とも言われる日本原住民をかり集め、派遣軍を半島へ送り込んだが白村江の戦いで大敗する。   勢いに乗って唐の軍勢は、九州から本州へと進軍した。  そして唐を「籐」と替字し「藤原氏」と称した。そして当時から「ズイズイズッコロバシ」と今も残るように、日本にも滅ぼした隋の人間は沢山来ていたので、彼らには同じトウでも「桃」の字を充てて区別していた。  (昔の日本は四季のはっきりとした、公害も無く、まして岡山地方は美しく住みやすく、黄塵の吹き荒れる大陸人にとっては  この世のパラダイスとも写ったろう。これを「桃源郷」という)    だから占領軍である桃(唐)から生まれた桃太郎は凛々しい貴公子で、偉い様なのである。  当時のことゆえ、吉備で獲れたキビを与えたとも考えられるが、おそらくはコウリャンだったろう。   新羅系の猿(サルリ、サルメ)、高麗の犬(コマイヌ)、百済の偵察を意味するキージーに食料を配給して、  隠忍(オニ、鬼)と呼ばれていた、我ら御先祖の日本原住民(唐体制に従わぬ民)を討伐し、彼らが生産していた穀物や干魚、荒塩などを、宝物として略奪してきた、という話なのである。 こうした真実を教えないで、幼児時代から一般庶民の洗脳教育に童話の絵本が広まってる。 サンカが多く住むと言う東海地方は太平洋戦争後、昭和30年代でも大人は、桃太郎の絵本などは絶対自分の子供に  見せないし「わしらの頭に、角が生えているか・・・・・」と、本当の意味は判っていたらしい。
 
 
 
 
 
 

手形の由来 手形とは武士の約束 山中鹿之助

2019-06-21 13:03:47 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
 平安時代は公家の乗る牛車や馬の鞍の、人が手をかける箇所を指した言葉である。  これが戦国時代になると「証文」と変化する。江戸時代になると井原西鶴の「世間胸算用」の中に「吾らが身を手形に書き入れて」と吉原などの遊女の身売り証の意味にも使われている。現代ではお相撲さんの手形が有名だし、日本テレビ玄関にはタレントたちの手形もある。  また手や掌とは無関係だが商業手形と呼ばれる為替手形や約束手形のあることは誰もが知っている。 だがこの「てがた」のことを昔は「てぎょう」と呼んでいたのである。記録として現存しているのは「毛利史料」の中だけである。
 
  昔の武士、武者というのは現代で言えば戦いのプロなのである。従ってプロは映画やテレビのように敵をばったばったと殺し死骸血河  で戦ったなどというのはフィクションに過ぎない。戦国時代は人口も少なく日本各地で合戦が繰り広げられていて、 そんなに殺し合いをしていた日には人口があっという間に減ってしまうだろう。  だからプロは矢鱈と死に急ぐことは絶対にしないものなのである。
 
合戦で手傷を負ったりしてこれ以上戦うことが無理と自分で見極めがついた時には「短間(タンマ)」と叫ぶ。  これは「頼まあ」「暫く待ってくれ」「ジャストモーメント」の意味である。 昭和40年代まで子供たちは隠れんぼや缶けりなど、様々な遊びの間に都合が悪くなると「タンマ」が訛って 「タイム」「タイム」と叫んでいたものである。閑話休題。 そして敵に首を落とされる前に双方話し合いになる。「落とし前をつける」と今でも使われる言葉がこれなのである。
 
 つまりここは戦場で今は手持ちが銀百匁位しかない。ここで俺の首をはねればそれだけは手に入れることは出来るだろうが  しかし自分をここで見逃せば、跡でその十倍の銀を払うが如何か、と云った交渉をするのである。   尼子再興を図って大活躍した山中鹿之助は随分強かったらしい。しかし戦場では敵を無闇に殺さず、その命を助け、沢山の手形を取っておいたらしい。 しかし生前は手形をほおって置いた。彼の死後、残された子や、妻らが細々と酒の担ぎ売りをしていたが、手形を銀に替え大きな造り酒屋を開店した。 これが現在の鴻池の起こりなのだが、この当時、座の制度の厳しい時代相当な資金だったと思われる。
(注)戦国期は銀と銭がおかねであったので、銀何匁という貨幣単位で記している。江戸時代になって初めて家康が  江戸は勿論、箱根の山以北を金本位制にしたが、西は銀本位と厳然と分かれていたのである。 学校歴史では教えていないが、西の銀を押さえていたのは蜷川家で東の金を抑えていて現在の日銀のような役目をしていたのは 浅草弾佐ヱ門と決まっていた。
 「箱根の山は天下の険」というが、あれぐらいの険しい山は日本中ごまんとある。   天下の険とは権力の「権」で、ここを領していた小田原十万石は東西の出入国管理所の役目を担っていて、金と銀の強制交換で  膨大な利益を得ていた。   さて、これは命がけの掛け合いであり取引だから真剣そのものである。
 
後日の証拠に、これなる料紙に書きもうす」と矢立より筆は出すが「花押」と呼ばれた印形は殿様ぐらいしか持っていなかった時代ゆえ、  掌に墨を塗って押したのが手形となったのである。 紙も筆も持ってない者は口約束だったからここに「武士に二言はない」「武士の一言金鉄の如し」と、武士たるものは嘘はつかないというモラル生まれたのである。    つまり江戸時代なっても武士は財布のことを「金入れ」と言わず、「紙入れ」と称して白紙を大切にみんな懐中へ入れて出歩いたのも、  その紙に万一の際に手形を押さなければならない武士としての貴重品だった訳である。
 
何も調べもしないで映画やテレビでは人を切った後血刀を拭っているが、格好良く携行していた訳ではないのである。  間違いと言えばこれまたとんでもない事で、江戸時代、刀は殿様からの預かり物で勝手に抜いて切り合いなどは無かったのが本当のところ。   「鯉口三寸抜いたら身は切腹」という不文律は何も殿中(江戸城内)だけのことではなく、厳しい武士の戒律だった。    「月賦」という文字に貝編(貝は金を意味する)に武が付くのも、差し出した約束手形の額面を一度に払いきれず、  分割払いしたの名残で、武士道とは決して恰好の良いものではなく、印籠にしても初めは薬入れではなく、印判いれだった。 又、現在、手形や小切手に「金○○円」とか「銀○○円」と書く習慣が残ってるこれの意味も、学校では教えないが、明治維新まで日本は箱根の関所から以西は銀本位制で、以東は金本位制だったから、当時は金で決済するのか、銀でするのかの違いを記したのである。