新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

太古の時代世界を航海した葦舟 阿修羅とは 安土城

2019-06-16 10:22:37 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
 
 
 「姪児を葦舟に入れて大海に流す」という神話から想像して、太古は人間を水葬にしたのかともする。 しかしこれは違って、アラブのナイル河のパピルス舟と同形の前部三角形、後部が角ばった扁平型の舟は、オーストラリアにも出土している。 さらに、南米ペルーのチチカカ湖にも残骸がみられるというから、古代海人族の有色人種は、まだ白人が文化度が低く野蛮人だった時代にも、 文化の高かった有色人種たちは、この葦船に乗って海流を利用して航海することを知っていたと想われる。 だからアラブの人たちは、日本だけでなく地球上の各地に流布して、それぞれの文化を築いていたらしい。
 
 阿修羅 
現在もこの阿修羅は、インドやアラブ共通の神々にて、ペルシャ拝火宗では、アフラ・マズダとし、仏としている。 しかしこれは、後の仏教側の作為で全く違う意味なのである。 「ア」というのは差別用語で、アの冠頭詞にシュラがアラブ語なのである。
日本ではコンピイラが海神ゆえ、「コンピラフネフネ追手に帆かけてシュラシュシュシュ」と唄に残っている。 巧く仏教川語にされてしまっているが、シュウラは今でいう起重機に当る。船の積荷をあげるクレーンでもある。 仏教側が日本に進駐してきて、延暦寺をを険しい山頂に建てた際は、清水建設も大林組のような建設会社は当時はなかった。 誰が造ったのかと言えば常識的に考えれば、強制的に駆り出された日本原住民である。 今でも行った人は良く解ると思うが、滋賀県大津市坂本本町にあり、標高848mの比叡山全域を境内とする寺院である。 今も当時も鉄鉱石が採れない日本は、鉄の鎖は作れなかった。だから、 イチビの樹皮で編んだ綱で修羅を曵っぱり上げる際、崖の岩で擦り減った綱が切れ、積んでいた巨石や大木が転がり、その下敷きになった。 さらには崖下に転落して、延べにすると何千人もの人間が下敷きになって死んだ。 こうした情景が修羅場であり、修羅の巷といった言葉を今に残しているのである。
ユネスコ世界文化遺産に登録され、観光収入で大いに儲かっている寺で結構なことであるが、 我ら日本原住民ご先祖様たちの、文字通り「血と汗と涙」の結晶で建てられた事を偲び、どうぞお参りの際には、一掬の花を手向けて頂きたいものである。
金毘羅に関して以前の記事を以下に重複するが再掲しておきます。
 
東大寺にしてからが、あれを建てるのに何万の奴隷が酷使され何千の人間が血を吐き虐殺されるみたいに死んでいったか。 こうした残虐な実態をどう考えるのか。そうした奴隷の群は、誰であったかを金達寿に考えてもらいたいのである。  「大仏建立のために落命せし屍は、山積みとなりて異臭甚だしくして、都大路息して通れず」と書き残されているくらい、  吾々の御先祖、即ち日本原住民は、彼らの権勢の見せしめのため、どれくらい殺されたか?  「比叡山中堂は、険わしき山頂の建立なれば、巨岩や大木を運び上げる修羅のイチビ樹皮縄ねじり切れ、谷底へ落下する人間数知れず、血の地獄とは、かくの謂いならん」 というのが「修羅の巷」の語源だといわれるが、今でも「修羅場」という言葉はよく使われている。 ピラミッド造営のシュウラは鉄鎖だが、日本では鉄は産出されないから、鉄鎖は作れないので、だからイチビの樹の皮を剥いで縒り合せた繩ゆえ、  曳っぱり上げる途中で切断すると、ドミノ倒しみたいに、何十人どころか何百人もが崖の途中から落下転落死をとげて血の池地獄になる。   この恨みつらみを伝承してゆくため、今も日本原住民の源氏名をつける芸者の花街では三味線の教え初めは、  「コンピラフネフネ、オイテに帆かけてシュラ、シュシュシュ」をを必らず、まっ先に習いこませるのである。(注)修羅とは、現代の起重機の事。  いくら氏でも、それらまで朝鮮人だとはいわないだろう。それら奴隷は、日本列島にそれまで平穏に暮らしていた何の罪もない、吾ら日本原住民に他ならないからである。
 
信長が作った安土城
淡水魚好きな信長
仏教嫌いの信長
織田信長は幼少から尾張五条川の清州城で育ち成人した。そして海の無いため海の魚には縁がなく、川や池の魚を多く食して成人した。 だから子供の頃の味覚は大人になっても変わるものではない。 五条川で捕れるボラやフナを大いに食べた。また、長良川のアユが美味だと知れば、近くに岐阜城も建てている。 さらに淡水魚の王とも称される鰉(ひがい)や姫鱒の群がる琵琶湖畔の弁天涯に築城したのが安土城なのである。 岐阜城にしろ安土城にしろ、全く地理的戦略上の必要性から建てられたものではない。
 
 信長が京に上って接待を受けた際、四条流の包丁方が、若狭湾で捕れた鯛の塩焼きや様々な料理を出したが、箸を付けてもらえず、 困惑した挙句、近くの小川で捕ってきた小鮒の味噌漬け焼きを出したところ、大いに美味だと喜ばれたという。 これは信長の淡水魚好きを現した逸話として有名である。
さて、この絢爛豪華と云われた安土城は、天正15年2月15日に焼払ったのは、講談では明智左馬之助こと明智秀光となっているが間違いである。 実際の放火犯は信長の次男の信雄(のぶかつ)なのである。 信雄は蒲生氏郷と共に、土山より出兵してきて、明智光秀が坂本へ引き上げた後、無人となった安土城には信長の奥方、奇蝶御前が残留していると知り、 「彼女こそ信長殺しの黒幕である」と思い込み、焼き殺すために火を付けたというのが真相である。 しかし今では、明智秀光が放火したもののごとく、現地では誤られてしまっているのである。
さて、信長の仏教嫌いで有名な「安土宗論」にも触れておく。 織田家というのは元々が拝火教だから、中国勢力の仏教とは対立の関係だった。 そして仏教には様々な流派が在って、浄土宗も日蓮が起こした日蓮宗も忌み嫌っていた。 そのため天正7年5月27日、双方の代表を呼んで対決させたのである。 信長としてはどちらが勝っても許す気などなく、共倒れを狙っていた。しかし浄土宗側は信長の意向を前もって察していて「全て上様の御意次第でございます」と 叩頭平伏した。ところが日蓮宗は僧兵まで伴って安土に乗り込んだものだから信長の逆鱗に触れ、宗論では浄土宗に勝ったが、 信長の武者共に叩きのめされて、京より追放となった。ここで哀れ日蓮宗は勢力争いで敗れ去ってしまったのてある。
 

謎の青葉城帝座の間 仙台の袋槍の秘密

2019-06-16 09:56:59 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
島原の乱に先立つこと五年、寛永十三年五月二十四日に伊達政宗は、七十歳で亡くなり、跡目は次男の忠宗がついでいた。 処で、青葉城の別名がある仙台城の大広間には、「上々段の間」又の名を、「帝座の間」ともよぶ、十六枚の菊飾りのついた御座所があった。  伊達家代々の殿様が、この大広間を用いるときは、その上々段にまず拝礼し、下った城主の段に座をしめ、絶対にそこへはあがらなかったという謎の御簾の問である。
 
これを「宮城県史」では、「豊臣秀吉の聚楽第の御座所を模して、そっくり同じに造営したもの」と説明するが、何故そうした御座所がもうけてあったかは、不明らしく言葉を濁している。
 これは、その聚楽第の解明が、今となってはもはや出来ていたいからだろう。  京の中央部、戻り橋先の十町四方の民家や社寺を強制的に取潰して、万博会場にも匹敵する宏大なものを秀吉が造営したのは、自分が即位し御座所とする為だったのが知られていないせいである。
 
このことは当時の奈良興福寺多聞院英俊も、「皇太子誠仁親王さまは、はしかでなくなられたというが、三十五歳の方が小児の病でなくなる筈はないから、秘かに伝えられるように殺されなすったか自害だろう。 が、もうこれで秀吉めが帝位につくのは、はっきり定ったようなものである」その日記にこうしたためて居る。
 しかし、まだ迷信が蔓延していた時代である。親王の怨霊がたたって天変地異が続き、秀吉の命さえも危いと脅された結果が、正親町帝の退位は強行したが、秀吉は自分では即位できず故親王の遺児をたて、 後陽成帝とし奉った。
 
しかし伊達家としては、この後またこうした不祥事が起きた節は、「この東北の城へお迎え奉って、柤伊達行朝以来の御奉公の心得を忘れるな」と、これを造営したものだろうとする説と、 原田甲斐が後西天皇のために作ったとする二通りがある。  しかし、御一新になると、新政府の首脳部となった薩長人は、旧幕時代は食うや食わずの軽輩で自分らの生国の事しか知らぬから、いと単純に、  (秀吉は反徳川ゆえ勤王だったろう)ぐらいに考え、彼が帝位を狙った不敬も知らず、豊国神社の再興を許し、「正一位」さえ贈り、 やがて国定教科書を作る時にも、明治軍部が秀吉の朝鮮征伐を自分らの都合で高く評価したから、どんどん義務教育で秀吉を賞めそやした。 また一般の人士も、「仙台や東北諸藩は維新戦争の時は、朝敵だったのだから、そこに帝の御座所とは何かの間違いではなかろうか」 と考えてしまい、そのため「伊達騒動」という討幕運動を、原田甲斐や伊達兵部は、徳川史観の引き続きで、そのまま悪臣にされてしまっている。
仙台の袋槍の謎
槍先とか槍首というのは、日本では二股とか三っ股も在るが、直槍が普通である。なのに仙台藩の武士達だけは戟とよぶのを樫の棒の先につけ、普段は袋に収めて、隠し戸棚に蔵っていたと言う。 ここに何故なのかという疑問がわいてくるが、歴史屋はこの疑問に、勉強不足で解らずなのか蓋をしている。 さて、大陸系の藤原王朝時代に「華城」(中華の城の意味)と呼ばれた多賀城の砦があったのは仙台だけである。だから此処は他と違う様相を呈している。
 
普通の武士達は、槍は長押にかけてあるが、仙台藩の武士達の家にはそうではなく袋に入った槍首が、それに差し込む樫の棒とは別個に蔵われていた。 といってもそれは日本式の槍先ではなく、凸型の中国の戟の尖端なのである。つまり棒の先にねじこんで冠せ、下にねじ釘を差し込んで固定させるものである。 つまり仙台藩士の家には、他と相違する中国製武器が代々伝わっているということは、八世紀に、勇敢に抵抗する日本原住民を討伐する為に建てられたアメリカのリオグランデ砦と同じように、 多賀城に進駐していた唐国兵の武器が残っていたということになる。
 
この頃の進駐軍の武器は、投石機の大石弓や袋槍の戟、日本刀と違う鋼製の青竜刀や両刃の剣だった。
これは<続日本紀>や<日本後記>に明確に記されている。 つまり、多賀城駐屯兵が土地の女に子を産ませたその子孫が、やがて後には仙台藩士となったと思われる。今では判らなくなっているが、江戸時代には、仙台には中国系の血が混じった人間が多いと、 誰もが知っていたことなのである。 そして仙台城だけが、何処の城だって樹木が青々と茂っているのに特に「青葉城」と呼ばれる訳も、かって東北へ追われた原住民が、アオと蔑まれ、 先住民達が多く住む土地の意味でセンダイといい、アオの城という意味で「青葉城」ともなった。
そして仙台城の本丸に十六枚の菊紋つきの上段の陰間が存在したり、伊達政宗が後西天皇の生母の妹を、銀二十貫で求め、仙台へ引取り倅忠宗の子供を産ませたのも、 大陸系皇室に対する今で言うシンパ的行為であろう。 それゆえ、その伊達綱宗が当主となり従兄に当たる後西天皇が、窮乏していた御所の為に、銀の無心に伝奏役の姉小路卿を使者に遣わせた。 しかしこの事が朝廷と結託して幕府に対し謀叛容疑となって、綱宗は「素行不良」の名目で閉門蟄居となった。
 
  後西天皇も、わずか十歳の次帝に強制的に譲位させられた。 そして、あろうことか仙洞御所に竹矢来を作って後西様を入れるのに、入費が嵩むからとけちって、今の京都御苑内に幽閉してしまった。  仙台人と京都人は同種の者と江戸表では警戒しての処置で、その当時での治安維持法である。  明治維新の際、仙台は大藩ゆえ、主となって結んだ奥羽越列藩同盟も、主軸の仙台が真っ先に錦旗に降伏して、為に東北を敗戦にさせたのも、 やはりどうも、それなりの血の流れによる訳であるらしい。
この伊達仙台藩は、政宗の時代、天下を狙っていた証拠がある。支倉常長を欧州へ派遣したのも、スペインから直接硝石の輸入を図った事が真相。
 
 しかしスペインのフェリッペ国王は、様々理由をつけ答えを引き延ばしたため、支倉はローマ法王にまで直訴したが雄図虚しく帰国せざるを得なかった。  帰国してみれば大阪合戦は終わっていて、徳川の天下となっていた。これが遠因で伊達騒動も起こり、幕府は伊達藩を取り潰そうとするが、原田甲斐らの犠牲で免れている。

日本ヤクザの発生史 神祇は仁義ではない

2019-06-16 09:33:57 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
かってこの日本列島へ、中国勢力が、国教として持ちこんできた仏教を強制信仰させるため各地に国分寺が作られた。 しかし、そんなものに見向きもせず、抵抗して反抗して始末の悪い日本原住民の騎馬民族系が東方系ゆえ「東方瑠璃光」の東光薬師を奉じさせた。 これは仏教は「西方極楽浄土」だが、原住民にも解り易くと「光は東方にもあり」としたものである。  がそれでも彼らは白頭山をしのび加賀の白山をもって「おしらさま」なる信仰を棄てなかった。
だから、やむなく仏教側は本地垂迹説がうみだされたのである。つまり仏陀が衆生を救済するために、各地に神と化身され現われたもうたのだから、 拝むのは一緒であると彼らを教化する為の神仏習合説である。
 
しかし騎馬系の源頼朝らと一緒に旗上げした拝火宗の、平の清盛一族より早くに日本の伊豆半島に漂着し定住していた、 古平氏である北条政子の時代が続いた鎌倉時代にあっては、仏教弾圧のため京の天皇や上皇を次々と配流にし、なむあみだと唱えることさえ禁じ、 逆に、「反本地垂迹説」までうちだした。つまり神が使いとして仏を遣わしたにすぎぬから、菩薩など拝むことはないとして、神社もカラ神つまり朝鮮半島からのものの他は、 みな平氏の民族色である赤色の、紅殻を塗って赤染めにしてしまった。
 北条九代が終って足利期になると「祗」とよばれる赤塗り社は弾圧差別された。祠堂の奉仕者は博士小太夫と蔑まれ、信徒や門徒は博徒と人外視されて、 犯行すれば橋のない川向こうの寄せ場へ入れられた。 後年、平姓を名のる織田信長は、彼らだけに商売を許し清洲を楽市とし無税にし、やがて課税のための諸国の関所も撤廃させた。 天下布武のため彼らは進んで各地を攻略してゆきヤ衆の名を広め、この者たちがやがて江戸時代になると、道の者となり、十手捕り縄を預かって、各地に定住する。 そして、捕り方を養うため、全国に博打場を開帳し、その寺銭(テラ銭)を当て、これがやくざとなっていくのだが、詳細は後段に譲るとして、
何度も続く山口組に代表される「やくざの抗争」についても触れておく。
 
 ここでヤクザの擁護論を開陳するつもりは無いし、勿論抗争事件で民間人の死傷等は論外である。 だが、 彼らが命がけで組織縄張りを守る行動の先には死や懲役覚悟の固い覚悟があるのだからヤクザどうしが殺し合いをする分には一向に差し支えは無い。 一方のカタギの世界だとて、企業間の乗っ取りや合併は権謀術策を駆使して熾烈な戦いを繰り広げ、そのための自殺も多い。これだとて間接殺人といえるだろう。 しかし、警察つまり国家権力のヤクザに対する暴対法のような悪法は指弾に値するだろう。  現行の法律で十分対応出来るのにこんな法律を作らなければ対抗できない現状は、警察権力の怠慢であるし、勝負あったという事である。
 
 そして暴力団員はゴルフをするな、部屋を貸すな、セキュリテーは受けるな等独裁国家でもあるまいし酷すぎる。 そのうち、道路を歩くな、息をするな、飯を食うなと始まりかねない。
 そもそもヤクザを暴力団という新語を造り、その範疇に味噌も糞も一緒くたに括ったのが間違いなのである。 ヤクザには賭博を生業とする博徒と、タカマチで商売をするテキヤが厳然と住み分け、その縄張りは双方侵さないという不文律があった。 やくざが表社会の様々な利権に関わるようになった原因は、彼らの収入源である、タカマチの商売と賭博権を取り上げたことに起因する。
そのくせ、政府のやっていることは競馬の寺銭25%、宝籤にいたっては、一兆円の売上げの中、政府総務省(籤に関連する各種天下り団体含む)、銀行、自治体などで五十三%以上ピンはねをしている。  従って庶民の射幸心を散々煽っておいて四十七%しか支払われていい。
 
こんな阿漕な商売はヤクザは絶対しないのである。何故なら江戸時代から現在モグリで開帳している博打の寺銭は五分と決まっている。  要は、オカミに寺銭が入るものは許可し、それ以外は認めないという誠に姑息な制度を作っているのが現政府自民党なのである。  自分達の取締の力不足を棚に上げ、ヤクザだけを悪と決め付ける現在の風潮を何と見るかである。  何故なら、表の世界、つまりカタギ社会の悪行は目を覆うばかりで、警察の不祥事は後を絶たないし、大企業の嘘や、誤魔化し、無責任、不正の隠蔽工作も近頃は目に余る。 さらに国会議員から、村の議員まで選挙違反、公費の乱費、女の問題等々その悪行と質の低下は数え上げればきりが無い。  全くこれは目糞鼻くその世界である。
 
     ヤクザの発生史
 さて、ここで少しヤクザの発生について考えて見たい。  江戸時代八代将軍吉宗の貞享二十年から、今で言うならハイウエーパトロール並の五街道目付という制度が作られ、この役目を担ったのが堂(道)の者と呼ばれていた拝火教徒の流れ遊芸人達である。 彼らは平氏の流れをくむ者であり、平氏の民族色は赤だから、目立つように赤い鞘の公刀と捕り縄を持たされ、街道目付となったのである。
そして、彼らに逮捕から裁判、処刑の一切の権限を与えたのである。  後には彼らは様々な土地に定着してヤクザとなり、日本全国の縄張りを決めて、博打のテラ銭で子分を養い、捕物の費用もそこから捻出したのである。 これは徳川幕府のズルイ政策で、人の嫌がるこうした謂わば「汚れ仕事」を彼らにさせ、その上給料も払わず、幕府の財政をけちったのである。
だからそれまで、徳川の御政道で差別されていて、日本各地の別所、つまり除地と呼ばれていた限定地に収容されていた者達が、同族が街道見回り目付となったものだから、  同族の助け合いの精神で、伝達をつけて貰い、各地から秘かに脱出して、仕事があって稼げる江戸や京、大阪へと次々と流入した。 彼らは街道や宿場で会うと、何処々の別所の人間だという、いわば同族の表明をするため神祇を切ったのである。 今は「仁義」という文字に変えられているが、敗戦後(昭和20年~30年代)のやくざのチンピラは粋がってこの仁義を(隠語でロズを通すという)よく切ったものである。 これが「花仁義」という。
「かよう大道、つま折りまして青天井、見晴らしの仁義失礼さんにございます。手前生国と発しますは関東に御座います。関東関東と申しましてもいささか広うござんす。 荒川関八州、水豊かに流れまして金波銀波も波高き花の大江戸、その名変わりまして大東京、手前生まれも育ちも東京神田に御座います。手前従いますは飯島連合会、立花一家にございます。 若頭務めます唐沢五郎若者、姓は笹島、名を剣史郎、若輩者に御座います。以後万端よろしくお頼み、お願い申し上げます」と、こんな具合である。
閑話休題、この先鞭をつけたのが誰あろう紀伊国屋なのである。
というのは、紀文(紀伊国屋)の生まれ住んでいた所は、紀州の湯浅別所でここは南北朝の頃、後醍醐天皇の南朝方の土地で、楠木正成や新田義貞らの残党が押し込められていた土地だから、 足利時代から「北朝の足利尊氏に敵対したふとどきな者達」と被差別地帯になっていた。  つまり奴隷扱いで死なせても構わない者達として、荒天の蜜柑船にに乗せられたが、船は難破し船主や船頭は死んだので、積荷の蜜柑も相馬で処分、金に変えて江戸へ出たのである。
 現在では紀文を蜜柑で大儲けしたと誤っているが、難破船で塩水を被った蜜柑を売ったとて高が知れている。  本当の所は江戸へ出てから、大火の際、復興の材木が高騰し、紀文は各地の山者も同族だから手付金なしの後払いで木材を集め、江戸へ運ばせて巨万の富をつんだのである。
 そして故郷の湯浅別所から次々との者達を呼び寄せ、金の力で寺人別も手に入れたのである。  産業も何も無い江戸の人口が130万を越えて当時世界一になった謎はここにある。
 こうしたヤクザの歴史は、古く、徳川幕府時代同様に、維新後も警察権が薩摩に移った後も新政府は「壮士」という美名で反政府運動に立ち向かわせ、大いに利用した。
さらに、第二次大戦の敗戦後も、疲弊した警察力を補うため、戦勝国でもない朝鮮人の横暴に、ヤクザや右翼を大いに利用した。 そして戦地から戻った特攻隊崩れや兵隊あがりが新興ヤクザとなり、安藤組の安藤昇に代表される「東興業」のように綺羅星の如く隆盛を誇った。  政治も反共の名の下に、彼らを利用した事実は、多くの書物に詳しく述べられている。
こうした歴史を俯瞰したとき、ヤクザに対する体制側と、それに迎合したマスコミの悪意と虚実に満ちた論評を真に受けて、差別に等しい現在の風潮に疑問を抱かざるを得ない。
従って、 ヤクザの反社会的行動(犯罪)を減らす特効薬として次の政策を実行すれば良い。 それは彼らの伝統職業であるタカマチの商売と賭博を認め、利益や寺銭は所得として申告させ、正当な課税をすればよいのである。  

韓国問題を歴史から掘り起こす 国辱的歴史学者

2019-06-15 08:38:59 | 新日本意外史 古代から現代まで
 
 
大分以前の話だが、国士館高校の腕白坊主共が先制攻撃のためか、朝鮮人高校生徒をぶん殴っては問題を起こした事があるが、在日の朝鮮文化人達も今やしきりと、 「日本の中の朝鮮文化」とか、「われらの中の朝鮮」をうたって、事前宣撫工作みたいな傾向を示しているやにも思われ、獄内の金嬉老でさえ、出刃包丁を写真にとらせて、 「真相をあばくぞ」とすごみをきかせ、そのため気の毒にも看守さん一人が自殺にまで追いこまれている。さらには、かって国外的にも故大島渚監督の、 「絞首刑」は、日本で差別待遇をうけ絞首刑になった哀れな朝鮮少年の悲劇を、ひろく海外キャンペーンして効果をあげている。
 
 
つまり、われらの中のコマとは、コマスタジアムではなく朝鮮の古名コマであるが、これに対し金達寿は、はっきりと、 「古代日本文化は帰化人を通じ朝鮮から多くのものを学んでいる‥‥と日本の歴史家たちはとく。が帰化人などというものは古代の、少なくとも七世紀以前の日本には一人もいなかった‥‥何故かなら、 彼らこそ古代日本を作ったそのもの自身、だったからに他ならぬからである」 とまで言い切って発表している。確かに、「いにしえの奈良の都」のナラが、朝鮮語の国を意味する「ナラ」と同じであることも、私は認めるのに反対はしない。しかし、 「日本の歴史家はデタラメである」とここまで中外に喝破されては立つ瀬がない。 私は戦国史専門で十五六世紀を主に研究しているから古代史は埒外である。
 
 とはいうものの、ロンドンデリーの囲み物連載にまで堂々と、「Korean culture induced Japan」(コリアによって日本は作られた)式のものを書かれて、日本の歴史家は阿呆や何も知りよらんと、 銭もうけの本ばかり作っとる、とまでケイベツされては黙っていられぬ。
まことに不得手な古代史だが、義をみてせざるは勇なきなりで、これに反論を加えたい。とは云うものの、しかし日本の歴史家も、もうすこし眼をさましてもらいたい。 なにしろ1970年6月9日の読売新聞では、大きな見出しで、 「わが国へきてまだ二年しかたっていない、二十六歳のハンガリー青年が、これまで日本歴史学会でも解明できなかった吾国最古の漢詩集「懐風藻」の編集者を研究中に発見し、 近く日本語で学会に発表する」と報道されていたが、オハヨウ、コンニチワくらいしかいえぬ青年に、日本歴史学会でも手がつけられていなかったものを解明されたとは、 これは国辱以外の何ものでもないというしかない。
 
 
これがもし英国あたりだったら、王立学士院会の大問題になって、その方面の研究者は詰問され学位まで剥奪されてしまうのである。なにしろ歴史学は天文学ではない。 空の新星なら素人の青少年に発見されても恥ずかしくないが、「懐風藻」のように昔からの物を放っておいたのは怠慢である。これは手がつけられなかったのではなく、 手をつけても一文も儲からんものゆえ歴史学者は知らん顔をしていただけだろう。  とはいえ、こんなオサムイ話はない。だいたい日本の歴史家なるものは、「歴史学」そのものを知っているのだろうかと疑いたくなる。  十八世紀に入ってヴォルテールが、それまでのスーパーマンや神人や英雄たちの古い話を‥‥歴史とする考えをすてるよう提説し、 「人間の群生形態が国家になってゆくのは、風土寒暖や民族の風習によって形成される」と唱えたモンテスキューによって、 「真実の歴史」こそ「歴史学」であると見直されてから、キゾーは階級制交替発展説。ヘーゲルは弁証法による歴史証明論。
 
これがミシュレからトインビーに至る、郷土史学の徹底的解明による専門分野の集成となった、という今日の「歴史学」となり、その実証的記述法としては、英国のスコットの歴史小説が、 レシ(記録体)の元祖とされた。
だからして日本で発行される世界文学全集の類でも、ドキホーテしかり、赤と黒しかり、戦争と平和にしろ、小説が歴史そのものの観を呈し、歴史を扱っていない文学書はないような有様で、オーギュスタンも、 「歴史、それは歴史小説家の書くもの。私共は彼らの記述に資す方法論を解明するのみ」とまでいっている。 しかし日本には、「時代小説作家」というのはいるが、歴史小説家があまりいないせいか、ハンガリーの二十六歳の青年に、とんだ赤恥をかかされるようなドンな目にもあったのだろう。
日本人を虐待したのは誰なのか。 東大寺、大仏建立で死んだのは日本人
さて、われらの中のコマは、馬を駒とよび、ポックリから駒下駄になり、彼らからの迫害が、「コマっちゃうな」として残っている。 金達寿のいうように朝鮮のクダラ人が、奈良朝だけでなく、朝鮮の新笠姫のうみ奉った御方が、開発された当時の平安京いまの京を都にした当初は、彼らクダラ人以外の原住日本人たちは、 人間でないような扱いかたをされたのではないかとも想えるのは、なにしろ私らは今日ですら「くだらでない」の言葉を無心に、「クダラねえ」とか「くだらない奴」と使って、 自分らの先祖が嘲られた罵言とも知らず、時たまはよく使用しているせいもある。
 
 
 そして、かつて吾々が義務教育として強制的に学ばされた、「小学国史、尋常科用」に、 「われら日本臣民は、つねに和気清麻呂のような心がけを持つことを忘れてはならない」 と書かれ、国民精神の手本とされた和気氏たるや戦後になって解明されたところでは、「百済人純蛇の裔」であるとされる。 第二次大戦後、日本に進駐してきて、お壕端の第一生命ビルを日本御座所にしていたマッカーサーが、いまダイジェスト社ビル前の和気清麻呂像だけを、他の像は撤去を命じたのに拘らず残しておいたのも、 あれは、(先輩の占領軍司令官に敬意を表してか)と判ってくると、阿呆らしくてものもいえぬ。
このクダラ人たちが、「今来ノカミ」として日本へ持ち込んできたのが、平野四神で、「三代実録」によれば、 「平野今来神正二位が、従一位」それが「祝詞式」の記録では、その今来ノ神様が、「皇大御神(スメラノオオカミ)」になったという。 「今来」というのは、のちの大和の国の高市郡のことだが、発音通り、「今来たばかり最新到来のクダラ人の神」のことであろう。だから、 「日本神祇史」などをみると、「玉海」からの引用で、「宮内省に坐す神は園神一座、韓(カラ)神社二座の三座なり」と明記されている。  また金達寿は、中島利一郎著をひき、 「大仏殿をこしらえた行基大僧正や、比叡山のてっぺんに延暦寺をたてた最澄上人。
 
 
東大寺を建立した良弁和尚が、みな朝鮮人であったことを、いまだに知らぬ日本人が多いのは情けない」
責任は怠惰にして研究心に欠如したわが歴史家にこそ帰せられるべきなのに、氏は何も知らされずにきた日本人を、真っ向から責めるのである。  しかし、そんな事をいわれたところで、「どうもおみそれ申しまして、済みません」とは私はいわない。云えはしないのだ。
何故なら、今日の奈良の大仏は松永弾正に焼かれたあと、豊臣秀頼によって修復され、また江戸時代にも改築されたものだが、行基大僧正らによって鋳造された時点、 起重機も電気溶接もガスバーナーも何もなく、すべてを人間の二本の手でやらなければならなかった時、あれだけ見上げるばかり巨大な物を作る場合には、どれだけ多くの人間が溶鉱炉の業火の中へ落ちて死んだか‥‥。 行基やそのブレーンは朝鮮人であったとしても、そこで使役された労務者は誰だったのか良く考えて貰いたい。
 
 まさか当時の朝鮮に、いまの清水建設や大林組のような建設会社があったとは思えぬ。 といって行基たちが、朝鮮から徴用で人を集めてくる筈もなく、また半島の季節労務者が、当時のことゆえ出稼ぎにきたとも考えられぬ。
何万人と集められ鞭打たれ、赤々と燃えるルツボの中へ足ふみはずし、次々と、「ヒェイッ」と悲鳴をあげ、火中に生きながら呑みこまれていった何千人の者たち。 もちろん労災保険もなかったこの人間共は、いったい何処の誰だったのであろうか。
 
十世紀の今でさえケーブルカーにのらなければ、とても登ってゆけぬ比叡の山頂に、大きな石や材木を担わされ延々と蟻のような行列を作って、這い上がってゆき、 すこしでももたつけば鞭や棒で乱打され、見せしめのため石で撲り殺された多くの人々。逃亡を防ぐために縄をつけられていた故、あの比叡の山の崖で一人でも足を滑らせたら、何十人も一度に曳きずられるよう、 「ワアッ」断末魔の悲鳴をあげて墜落し、粉々に谷底に死んでいったろう人々。
 
 東大寺にしてからが、あれを建てるのに何万の奴隷が酷使され何千の人間が血を吐き虐殺されるみたいに死んでいったか。 こうした残虐な実態をどう考えるのか。そうした奴隷の群は、誰であったかを金達寿に考えてもらいたいのである。 「大仏建立のために落命せし屍は、山積みとなりて異臭甚だしくして、都大路息して通れず」と書き残されているくらい、  吾々の御先祖、即ち日本原住民は、彼らの権勢の見せしめのため、どれくらい殺されたか? 「比叡山中堂は、険わしき山頂の建立なれば、巨岩や大木を運び上げる修羅のイチビ樹皮縄ねじり切れ、谷底へ落下する人間数知れず、血の地獄とは、かくの謂いならん」 というのが「修羅の巷」の語源だといわれるが、今でも「修羅場」という言葉はよく使われている。 ピラミッド造営のシュウラは鉄鎖だが、日本では鉄は産出されないから、鉄鎖は作れないので、だからイチビの樹の皮を剥いで縒り合せた繩ゆえ、  曳っぱり上げる途中で切断すると、ドミノ倒しみたいに、何十人どころか何百人もが崖の途中から落下転落死をとげて血の池地獄になる。
 
この恨みつらみを伝承してゆくため、今も日本原住民の源氏名をつける芸者の花街では三味線の教え初めは、  「コンピラフネフネ、オイテに帆かけてシュラ、シュシュシュ」をを必らず、まっ先に習いこませるのである。(注)修羅とは、現代の起重機の事。
 いくら氏でも、それらまで朝鮮人だとはいわないだろう。それら奴隷は、日本列島にそれまで平穏に暮らしていた何の罪もない、吾ら日本原住民に他ならないからである。  なにしろ日本人は、原爆を落としてよこしたトルーマンの手先が進駐してきても、レジスタンスどころか何の仕返しもできず、 「過ちはくりかえしません」と自らの手で原爆記念碑をたてるようなまねをしたり、 「ヘイ・ウェルカム・ユゥ」と、いまだに基地とよぶスペシャル・ランドで、一回50ドルで日本ムスメを公然と彼らに抱かせているのは、みな行基や最澄らの時点におい て、「占領軍にさからったら、どんな目に逢わされるか、よぉ覚えておけ」と散々にしごかれ、徹底して恐怖をしみこませられたためではなかろうか。
 
つまり日本人の、体制べったり志向とか、「長い物にはまかれろ」といった、ご無理ごもっともの奴隷根性を、今や国民性になってしまうまで浸透させたのは、彼らのせいでなくてなんであろうかと、それをいいたい。 「エエコーラ、エエコーラ、もう一つエエコーラ」といったヴォルガの舟唄が、かつての日本人に愛好されたり、アンクルトム達の、「黒人霊歌」が日本でもてはやされ、 亡国流浪ジプシーの「フラメンコ」が流行する下地もそこにあるのではないだろうか。
 
福岡徹の『軍神』をみると、旅順戦の日本軍は、「私らは消耗品ですから踏んで通って下さいと応招兵達は、児玉大将が見廻りにくると反抗ではなく、動けぬ身体をその靴の下におこうとした」といった場面がある。  最近もイオウ島の洞窟で、手つかずの一升瓶の水をそのままに、かわきと飢えで死んでいった日本兵の白骨の山が、遺骨蒐集隊によって発見されたと報道され哀れ人々の涙を誘ったものである。
 
 なんというべきか、この従順さ、そして命令されれば、 「死んで帰れと励まされ」の唄通りに挺身するけなげさ。しかし一旦だめとなって無条件降服してしまうと、またしても、「アメリカさんのためならエンヤコラ」と、火中の栗をひろうどころか、 六分間で一億一心総火の玉となってしまおうとも、あの憎っくきかつての敵さんにさえ、お仕えしようというその忠義ぶり。これは涙なくしては語れもしない。 つまり、こうした家畜人ヤポンスキーに、吾々を仕込んでしまったことを考えてくれるなら、 「加藤清正がきれいな女をもっていった」 「島津豊久が陶工を薩摩へ伴っていった」 「大震災のとき、町会自警団に撲殺された」 「伊藤博文によって、日韓併合を強行された」といった非難も勘弁してほしいものだが、そんなに非難するのなら、 世界一汚い国と言われた朝鮮に、橋や鉄道、ダムや火力発電所、上下水道のインフラの建設、学校をたくさん作り、高等教育のためソウル帝国大学を作り、ハングルも必修科目にした。 身分制度の撤廃もした。食料を増産して人口も増やしました。さらに、これら日本からの財政援助は大変な額で、普通植民地経営は収奪なのに、逆に援助をしました。 これらが現在韓国繁栄の基礎となっているわけですが、こうした事実を自国民に一切教えず隠しこんでいるのも、そちら様の自由ですから、余計なことだったのなら謝りましょう。
 
 
 朝鮮征伐のときに此方が荒らしたことばかりを、しきりにいうが、秀吉の急死による引きあげで休戦協定もできずの撤兵だったから、取り残され虐待された日本人がいかに多かったかを、 日本の歴史家は忙しいから、現地のそちらで、ぜひとも調べて頂きたいものである。 「日韓併合」も、あの時ああしなければ、韓露併合だったのではあるまいかと思うし、日本の自警団や町会のオッサンが権力側の手先になるのは、 かつてのクダラ人の教育というかシツケだったことも判ってほしいものである。  箱根権現神社も伊豆山神社も、コマのカラ神さまだというのならよくも参拝しよう。
 
だから北朝鮮(昔の高句麗)と、韓国(昔の新羅)が核弾頭を隠して朝鮮統一をはたしたら、東アジアでは中国、ロシアに次ぐ「核大国」になる。 北の老獪なロケットマンが、ICBMや核を放棄するなどという期待は大きな錯覚です。 そうなれば、向こうがまた日本に攻めてくるかもしれない。そうなった時はどうぞお手柔らかにと、今からせつに頼んでおきたい。
三橋貴明著「愚韓新論」(飛鳥新社) 以下に一部引用させて頂くと、
 1965年に日韓基本条約を締結して、わが国は韓国に対し無償で3億ドル、有償で  2億ドル、さらに民間借款として3億ドルを供与した。この金額は、当時の韓国の国家予算の3年分にも匹敵した。 しかも、日本はそれ以前、1951年9月8日に締結したサンフランシスコ講和条約により、1945年8月15日の敗戦までわが国が支那大陸、朝鮮半島、台湾、樺太、南洋諸島などに保有していた膨大な在外資産を放棄している。その規模は、当時の  評価額で3795億円にものぼる。ちなみに、わが国の1944年のGDP(国内総生産)は745億円であった。日本は敗戦後に、実に自国のGDPの5倍にも及ぶ莫大な資産を、 「戦時賠償」として放棄したのである。
 
 朝鮮半島に日本が残した資産価値は、GHQの試算によると約60億ドル、1945年8月15日当時の為替レート(Iドル=15円)を適用すると、およそ891億2000万円に  も及んだ(2002年9月13日『産経新聞』「財産請求権行使なら北の支払い超過[経済協力]転換の要因か」)。 日本の在外資産放棄分の内、およそ4分の1が朝鮮半島だった訳である。 ちなみに敗戦当時の891億円を現在の物価指数で換算すると、その額は約17兆円である。
 それ以前に、日本は日清戦争で朝鮮半島を「独立させた」以降、大韓帝国(李氏朝鮮)に莫大な資金援助をしている。朝鮮半島を事実上の保護国化した1907年の第三次日韓協約以降、 1910年までだけで「毎年」2、3000万円の支援を実施しか。大韓帝国が1906年に作成した国家予算は748万円に過ぎなかったことを考えると、日本の支援規模に愕然とせざるを得ないだろう。 しかも、これはあくまで日本が韓国を併合する以前の支援に過ぎない。
 
 韓国併合(考えてみると、日韓併合という呼称は奇妙だ。日本が大韓帝国を併合した以ヒ、韓国併合と呼ぶべきだろう)後も、日本の朝鮮半島に対する支援は続いた。 朝鮮半島から得られる税収は1300万円から1500万円に過ぎなかったが、同じ時期に日本からの支援が2000万円を超すことも珍しくなかったのである。大韓帝国末期から併合初期にかけて、 朝鮮半島は日本からの支援なしでは政治や経済が成り立たない状況にあったことがわかる。
 崔基鎬『日韓併合―韓民族を救った「日帝36年」の真実』(祥伝社2004年)によると、朝鮮半島に対する支援の累計は、総額で20億7892万円にも及んだという。現在の価値 に換算すると、なんと約63兆円である。 (中略) 「こうした情報を韓国政府は国民にひた隠しにしている」というのだから、「如何に日本にお世話になったか」など、国民は全く知らない。 この本は、正確な資料にもとずいた大変優れた本である。
「嫌韓」の方も「親韓」の方も一度白紙の状態で韓国を知るうえでも一読することを推奨する。
 

日韓同祖論を斬る

2019-06-14 11:08:56 | 新日本意外史 古代から現代まで
皇室の紋である、十六弁の菊を始め、総ての家紋はアラブからであるとは〈天皇アラブ渡来説〉にも明白であるが、大正期までは太古に皇祖は朝鮮からという史論が軍部御用の歴史だった時期があった。 当時は清国と戦うのには朝鮮半島を合併領有せねばならぬというのが、時の明治軍部の至上命題でした。 そこで政府の御用学者として、星野恒に軍命令で、研究費というか稿料というか明治二十年代で五千円と言う、現今では五千万円の交付金で、東大史学会雑誌11号に発表させました。
 
 これが有名な「本邦の人種言語につき」の一文でして、全文が〈日本歴史資史料集大成〉の97頁より117頁に収録されています。明治に世直しとなり、それまでは無実の罪で誅された怨霊が、 迷ってでてきて祟りをせぬようにと封じこめしていた、人間以下の存在に過ぎなかった神や神社をば改めて、「現人神」さまなる信念に評価を加えて、 神とは拝むものなりといった義務教育を創始していた新政府としましては、従来は百済の古文書のみ紹介されてきて、 新羅や高麗のものはまったくかえりみられてこないのは、〈神皇正統記〉に、日本は三韓と同種の民なりと記載されし古書は、桓武の昔にみな焚書されてしまった結果であると発表させ、 日韓両国はもともとは、一にして他境ではなく、まったく別国のようになっだのは、天智帝の頃からであるとし、堂々と合併論の開き直りをした。
 
 「日韓の人種一言語同一なりというも、いささかも国体を汚すの嫌いなきのみならず、かえって吾が皇猷神算の広大深遠なりしを、窺うにたれり」と発表させ一世を愕かせたのである。
つまり、<釈日本紀〉に「任那新羅同種也」とあるように、今の慶尚道高霊県が「加羅任那」であったのは、〈東国輿地勝覧〉にもあるし、 その当時にあって「辛国」とよんでいたのが、何を隠そう新羅国であったからして、しまいには「からくに」とよび、唐国と後世では誤ってしまったものとした。 〈豊後風土記〉にある処の「新羅国神」や〈続日本後紀〉や〈延喜式〉にても(辛国)の二文字さえ冠称すれば〈忍穗耳のミコト〉は「新羅国神」であった事は間違いはないようであるとしました。
 となると〈古事記〉や〈日本書紀、神代下巻〉の「天照大神が、豊葦原瑞穂の国は、わが子孫の忍穂耳のミコトのしらしめ治める国なり」と天降したというのも、これなら判ってくるとあります。 〈新撰姓氏録〉の「右京皇別」にでてきます処の、「新良貴」の姓にして明瞭に新羅なのでして、「わが太古皇祖の新羅に国王であらせられたのは事実であって、これこそ真実な歴史的な一大要件」とし、 よって日韓両国語は発音こそ今では多少相違するものの、かつてはまったく同じでして、「みまなの地名が、御開城天皇」とならせたもうたと、同じく星野恒博士は力説します。
 
 
 そして〈倭訓栞〉に「朝鮮の読法、字にして助声。日本のテニヲを、向こうでは今は、オンモンとよぶ」、  よって、雲、道、郡、釜、熊のごときは、今も両国とも同一発音なのは同一民族のせいでもあり、王仁が詠じた難波津をよめる歌と、スサノオノミコトが八雲だつとよまれたのとが、 同調なのも彼我の語格が同一の為なれば、任那と新羅が争った崇神王朝には、吾国より塩乗律彦を将軍として派遣し鎮圧したのが、そもそも任那日本府の始まりで、 彼地より出でし皇統が彼地を統治したのたと致します。
 ついで星野説は、韓国は元来が我が旧国ゆえ言語風俗も昔はまったく同一ゆえ、よく服従したから、「安東将軍」と宋にも認められたのだと、「倭五王」の例を次々と援用しているのです。 そして、「王政改新、征韓の議やかましく、ついに江華島の事あり、よって今では敵国のごとくに視るけれど元来が同種にして、昔は隷属させていたのであるから、吾国人が属国としてみるは当然」と主張。
 
 
明治十五年七月二十三日に京城の日本公使館が暴動騒ぎにて襲撃をうけたとし、即日日本軍が朝鮮へ進駐した。 そして、武力を背景に講和条約を締結。翌年七月二十日に岩倉具視が死去。急ぎ八月三日に伊藤博文がヨーロッパから戻ってきたが、またもや十七年十二月には京城で暴動が勃発。 日本公使館が焼き討ちされる事態となった。
伊藤博文は内閣をつくり首相になると、それまでは政府批判だった新聞を、国有地払い下げや、新社屋建設に便宜を図ってやり、懐柔し、戦争止む無しの世論づくりに協力させた。   十八年十一月に入ると自由党大井憲太郎らが、会津小鉄ら博徒千名による朝鮮ヘの殴りこみを企画したとして一斉に逮捕。それを土佐派の自由党を弾圧する口実にしました。     
 なんとしても朝鮮を領有せねば大陸へ進出の足場がもてぬ、とする軍部の要望のもとに書かれた星野恆の、今なら一字一万円にあたる大論文です。 ゆえに日韓併合こそ当然の最良の途なりとして、「豊臣秀吉が八道を併呑せし余威あるをもつにあらずや。邦人の朝鮮を属国視するは皇祖の大御心数千年の後に到るまで深く人心にしみ消散せざるによる、 と言うてもよいのであろう」とし、「吾輩は右の諸証により断じて、上世は日韓一域なりと言わんとす。皇孫かつて新羅を統治し賜うというのも、  ニニギノミコトが西州宮へ移られたのと変りなき話。忍穗耳ミコトが辛国より御渡りあるというのも、神武天皇が日向を発して大倭に赴きたまうと異ならざるなり、 何故かというのに一地域を彼我往来あらせられる迄の御事なればなり。例えば松前氏が本州から海を渡ったとしても異国人のせいとせしや、 また黒田伯爵が北海道開拓長官となって赴任した時、北海道の人は彼を外国人の渡来として迎えたかという事である。
 
 
同一版図内にあっては、外国の称などないのは当然」と、 星野恆博士は〈日本歴史資史料集大成〉の115頁にものべていますが、これではコジツケと申しますか、ゴリ押しみたいなものでしたが、当時はこれが対外PRとして英文に翻訳されて、 在外各公使館に配布をし、事前に日韓同種同根をしきりに宣伝したものだから、金玉均を上海で殺しても問題にならず、東学党の乱のため、大鳥圭介が軍隊と共に京城入りをしても問題になりませんでした。 「朝鮮半島は、吾が日本と同一同種の民族の住む地域だが、清国は異国。よって領土権侵害なり」と朝鮮半島へ進駐してきている清国人を追払うために、武力行使をあえてしました。 これが日清戦争の始まりなのである。
日清戦争
日清戦争の原因は、中国にある広開上王碑文を削ったり歴史古文献を焚書するのが目的の一つであったとも言われるが、邪魔ものは討てと清国に向かって明治軍部は総力をあげて挑戦を敢行。 そしてあっという間に、成歓や牙山に進駐した清国軍を撃破。豊島沖で清国艦を撃沈。これにより明治二十七年八月一日に清国に宣戦布告。 平壌を占領、黄海海戦で清国北洋艦隊撃滅。十月二十六日には九連城を占領。翌月六日に大連湾を包囲。
 相撲の世界ではかつて指導してくれた恩人を土俵で突き落して勝つのを「恩を返す」と申しますが、星野恆の論文では朝鮮半島だけが皇祖発祥の地であったが、ついでに清国をも攻略です。  よって三国干渉も、日韓併合はそのままで問題にもされなかったのです。しかし前述したように、「朝鮮を属国視するは、皇祖の大御心」といくら大論文を発表しても、 属国にされた方は面白かろう筈はありません。安重根によって伊藤博文は元兇としてハルピンでついに暗殺されました。
 
 
しかし、やがてその次の、日露戦争も終りをつげる世となりますと、星野恆博士大論文の内容そのものが、「太古皇祖の新羅に主たる事実は、歴史上の一大要件」というのでは困ると、 昭和軍部になると、「星野恒の論文は、日韓併合に利せんとする為に発表されたにすぎぬものである」と、皇国史観の故黒板勝美博士によって抹消させてしまい、 今では〈日本歴史資史料集大成〉にしか収録されていません。 日本の歴史家が宮内省御用みたいに、権力べったりで、その時々の都合で変るこれはその好例の一つです。  日本の歴史屋さんには主体性がなく、軍部やおかみの言いなりに変えてしまうのは万国無比です。
 
つまりそれゆえリースでさえも日本人に「歴史学博士」の称号は不可、ときめつけたのでしょう。  しかし明治軍部は日清戦争の、あっけない大勝利におごってしまい、奴隷根性の国民全般に、「復讐」という観念をうえつけようとして、 三国干渉によって奪いそこねた遼東半島を取り戻すため、国民を戦争に駆り立てるため、「何とかして仇討の物語を探せ」となり、当時街頭で語っていた、デロレン祭文に目を付け、 『赤穂義士銘々伝』を桃中軒雲右衛門に、浪花節として語らせ広めさせ、日露戦争へと突き進んだのである。