愛知県出身の織田信長と豊臣秀吉、が天下をとった時代は、当然その時代の公用語は「おきやあせ」「あかんでよう」の名古屋弁だったのである。 北は東北、南は九州まで、日本は六十余州というぐらいだから、様々な言葉が在って大変だったろうことは想像できる。 今でも青森と鹿児島人が方言で話せば全く意味が通じない。だから諸大名は随分と苦労したらしい。 さて、足利時代には、原住民が体制側の仕事に就こうとすれば、強制的に仏教に転宗し、坊主のように頭を丸めて「何アミ」と称さなければ奉公できなかった。
また、官庁に出仕を許されても、反乱されては困るので武張った務めは許されず、安全な能、茶、花、画とか美術に限定されていて、これは信長や秀吉の時代にも続いていた。 しかしここに、彼らが信長という原住民解放軍のおかげで自由人になり、おおいにその才能をのびのびと花咲かせたのが日本最初のルネッサンスなのでである。 日本史ではこれを「安土桃山文化」というが、次のルネッサンスともいうべき文化の爛熟期は元禄時代だった。 ここで、学校歴史では教えないルネッサンスの裏面史(真実)を考究してみたい。
元禄ルネッサンス
悲劇の水戸光圀
講談では、徳川家光が辻斬りに出歩き、それを光圀が止めたことに作り変えられている。又嘘と言えば<武野燭談>では、水戸家を立てるため京から宮様を迎えようとする酒井忠清に、 あくまで光圀が反対したようになっている。だが実像の光圀は京派であり、勤皇精神に溢れていたのである。
光圀は吉良上野介によって青蓮院へ押し込めになった有栖川幸仁親王へ、衣服類や銀を水戸京屋敷を通じて、度々今で言う差し入れをし、 前後西帝の擬華洞へも何度も自作の詩の「添削料」の名目で、半紙百帖とか、墨百挺といった納入の他に、「採暖」にと冬は桜炭、夏には団扇をかかさず差し入れたので、 幽閉された後西帝は「六国史」を今日に書き改めも出来たのである。 つまり光圀は何人も辻斬りこそしているが、「後西帝に唯一人の忠臣として奉仕」している。そのため吉良上野介に嫌われ、柳沢吉保に憎まれて、その血脈を皆絶たれてしまい、 今では虚像の黄門様にされてしまっている悲劇の人である。
(光圀を大納言の唐名で黄門と言うが間違いで、水戸はちなみに中納言である)
さて、元禄時代の背景を知ってもらいたいため、光圀の実像を解明しながら長々と稿をさいたが、この時代の立役者はなんと言っても徳川綱吉と柳沢吉保である。 綱吉が上州館林十万国から将軍職になると「側近の小納戸役を申しつける」と柳沢も五百石取りに立身する。時に綱吉三十四歳、吉保二十二歳と、おおいに気のあったところである。 だから二人で何かでっかいことをやろうと、話しあったのかも知れない。
というのは江戸時代の代表的文化人や財産家はみんなこの時代に出現しているからである。
そしてこのため、今日になると対比する如く並べてみられ、ルネッサンスと呼ばれダヴィンチ、ラファエロ、ミケルアンジェロ等が輩出した絢爛たる世界と、 日本の元禄時代とは同一視されがちである。
何しろ絵画の浮世絵でも有名な英一蝶の他にも菱川師宣、鳥居清信、西川裕信といった今日の芝居絵の元祖の鳥居派が誕生。 蒔絵の小川破立、中村宗哲、光琳派の元祖の尾形光琳、陶器の尾形乾山、彫金の横谷宗眠、当時の新興文学の俳人としては松尾芭蕉、向井去来、内藤文草、服部嵐雪、室井其角、桑岡貞佐、作家の井原西鶴。 また、天下の権勢を一人で押さえていた柳沢吉保の側室で町子の実家の正親町公連に青侍奉公していた近松門左衛門が、柳沢のたてた神仏混合政策に迎合して「この世には神も仏もないものか」と <心中天の網島>の中で堂々とPRしている。
ジェームズ一世のお抱え作家で、その母メアリ・スチュアート女王がエリザベス一世に斬首されるのを見殺しにしたのを対外的に弁護するため<ハムレット>等を書いたシェークスピアが 今日でも名声を保ちうるのは、英国王室御用作家だったためで、国家権力でずっと守られてきたためであるが、 近松も立派なものを書いたに間違いないが、柳沢在世の元禄期において「町子のお方様の御実家の旧臣」というレッテルでその評価が定まったようである。
悪辣非道な綱吉と柳沢
本来、作家とは庶民の側に立って反体制であるべきなのに、ともすれば御用作家になってしまうのは、権威の裏付けが評価を左右するかららしい。現代でもこの手の作家は実に多い。デビュー時には文学的に鋭いものを持っていたのに、儲かるとなればエロや体制迎合物も平気で書きとばす。
さて、近松によって、竹本義太夫や新内の岡本文弥、役者では坂田藤十郎、初代片岡仁左衛門、水木辰之助、初代市川団十郎、中村七三郎が出現し、いわゆる名優が東西一斉に舞台を飾ったのは、 元禄ルネッサンスといえる。この他にも熊沢蕃山新井白石、室鳩巣、太宰春台、伊藤仁斎、世界的な和算の大家の関孝和もこの時代に続出している。 赤穂浪士が討ち入りの時、生卵を届けて激励に行った細井広沢。討ち入りが済むと「全員死刑」をあくまで主張した荻生徂来らも学者であるが、二人共柳沢の家臣である。
つまりその言動や主義主張は主人の代弁と見られるから、赤穂事件も柳沢がマッチで火を付け、ポンプで鎮圧した政治的配慮に依るらしい。 そして学者としての評価が、今日でも不動の物となっているのは、三十年におよぶ柳沢体制の中ではっきりと体制(おかみ)で位置づけられたからだろう。
なにしろ宝永三年には隠匿されていた古金銀貨を国家権力によって強制供出させ、銅や錫を半分以上混ぜた元禄通貨よりなお質の悪い宝字貨を鋳造流通させ、 「初物くばり」と新貨を人脈の配下へ柳沢は惜しみなく配ったという。現代はお手盛り立法の政党助成金を自党の陣笠連中に数百万円当て分配するが、柳沢は宝永通宝を今の金額に換算して十億円ずつばらまき、 その後も従来の二朱金を徹底的に回収し、やはり十億見当の配分を幕閣の主立った者に配っている。
普通賄賂というのは百万贈れば千万ぐらいの見返りを願うものである。柳沢の凄いところは賄賂を取らず、逆に自分の方から金を撒いていたことである。 だから誰に足をひっぱられもせず、悠々と天下の権勢を独り占めにし、全てを蔭で仕切り、晩年は駒込六義園で悠々自適していた。
その子孫は郡山十五万石で幕末まで続いている。 彼は庶民にとってはとんでもない男だが、政治家と見るより徳川家の官僚としては最高の人物だったといえよう。この時代、次々と金銀の含有量が希薄になるインフレの波に乗り、 柳沢に劣らず巧く立ち回って財を作った傑物達も多い。
三井の開祖八郎右衛門、住友の元祖の吉右衛門、鴻池の善右衛門などが輩出して壮観を示している。だが、こうした柳沢のインフレ政策で弱い者は打ちひしがれ、 江戸でも行き倒れが多かったという事実を何と見るかだが、そうした乱世こそが金儲けの時代だったのは三井や住友が今なお健在なのでも判る。何と現代と似ていることだろう。 何時の世も体制(おかみ)のやることは一緒である。科学の発達は素晴らしいのに、平成も新令和の時代も、政治の手法は旧態依然のままである。
ヨーロッパのルネッサンスとは
さて一方の欧州のルネッサンスはなにも後世の、世界美術全集を賑わすため起きたのではない。 イスパニアのカタリーナ女王のイザベルが、自分より美しく見える女はみな魔女であると、トマス・トルケマダ司祭に命じ、片っ端から捕らえさせて殺戮してのけた。
ヨーロッパの王家の男女の肖像画はみな美男美女に描かれているがあれは美化しているだけである。バイキングや海賊あがりの連中が武力で王になっただけで、 当時のイザベラ女王が美人だったとはとても思えないし、発端はいわば女の嫉妬からといえよう。
そこでトマス司祭は己が行為を正当化するため「異端審問長官」の肩書きをバチカン法王庁に乞うた。 それに「片っ端から捕らえて拷問にかけ、魔女として焼き殺したり水漬けにして処分しては免罪符が売れなくなり、法王庁の財政に響く」と、 魔女として処刑する場合には、女の所有財産を没収し、その献金をレオ十世は命じた。 トマス異端審問官は女の財産を裁判所と教会で折半する案を出した。そこで法王は、 その拾得分の内の半分を女王へ差し出し、教会もやはり半分を法王庁へ献金と定めた。
だから、なんと当初はイザベラ女王の妬情から起きた魔女狩りが、儲かるからと、各地の王や教会の奨励するところとなってしまった。 そこで金のある女が老幼を問わず狙われ「魔女」とされて欧州全土で次々と火炙りや、生き埋め、四つ裂きに殺され、全部で四百万とも言われている。記録では1854年、ドイツの トレバースだけでも七千人、スペインのトレドでは三千二百人が蒸し焼きの大量処分とある。
だからそれらの女達の遺産はもの凄かったろう。
「これは凄い、思いもよらぬ金がどんどん入ってきて使い切れぬ」とレオ十世猊下も各国の王もすこぶる満足した。 そこでこの泡銭のおこぼれが仮需要となり、装飾用にと絵画や彫刻が求められ、芸術家を潤しルネッサンスとなったわけである。 つまり日本の元禄時代も、柳沢吉保が次々と古貨を回収し、水増し改鋳で利得を上げ、このアブク銭が彫金師や絵師に流れ歌舞伎や俳句の興隆となり、日本版ルネッサンスとなったのである。
「おかみの印さえ有れば、金銀でなく石ころや瓦でも天下の宝として通用する」と豪語した柳沢の家臣の荻原重秀。 「国民をだましても消費税をガッポリ取るのだ」の自民党。どちらも国民のことなど一切考えていない点で同根である。 現在政治に幻滅した国民はスポーツやオリンピックのお祭り騒ぎに幻惑され、グルメブームに踊らされ、美味を求めて狂奔する。
求める豊かな生活(土地や家やレジャー等)には手が届かないため、即物的なものが人々の精神を支配している。 これでは怒る権利を自ら放棄したことになってしまう。人間らしい生活、誇りと言う奴は即物的な物に有りはしない。よりよい社会へのロマンへの渇望ではないか。 さてヨーロッパのザクセン侯やラプール王達が、教会と結託して次々と女を捕らえ火あぶりにし、 あぶく銭を儲け、ミケランジェロらに己の肖像画を描かせたりしたのに比べれば、<殺しの金>でないだけでも、柳沢の方がはるかに紳士的(陰謀での生殺し)であったと言える。