新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

不倫の考現学、戦前と戦後の違い

2019-06-19 10:02:13 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

以前、渡辺淳一の「失楽園」がブームだった時期があった。  この「失楽園」は紛れもなく「不倫」の物語ですが、原作者の渡辺淳一も「不倫はいかん」と言っています。物書きの癖に自分で書いておいて道徳家ぶっていては噴飯物だが、この不倫に関しては多くの識者が様々な論評をしておるので、現代の不倫問題については、後段で少しふれる。  しかし、戦前、戦中のお上もこの不倫行動を厳しく弾圧しました。   何故でしょう?この事を考察してみましょう。

  戦後の若い人には想像も出来ないでしょうが、国民全てが尊い天皇陛下のためにこそ生き、死なねばならぬと徹底的に叩き込まれていました。 おそらく現代の北鮮もこの思想教育を真似をしているのでしょう。 そして女性と言えばこれまた酷いもので、お上の為に働く出征する兵士を産み育てる存在としての位置づけだったのです。 だからお上に届け出て婚姻をなしたる男女の性交は、出生児をもうける国益として大いに認められました。

 (産めよ増やせよ国のため)とおおいに出産の奨励もしました。   戦時中は町内のおっさんが鵜の目鷹の目で町内の後家や未婚者を探し、そして強引に仲人を買って出て結婚させたものです。 するとお上は「ご苦労であった」とばかり清酒一升とタバコの金鵄を下しおかれたものである。 だから飲みたい一心で、おっさん達は頑張ったのである。御節介もここまで来ると迷惑でしかない。 しかし、婚姻届無しの男女交渉は禁じられていました。 東京でも今より交番所は沢山あって、川が埋め立てられず橋が多くて、交番は大体その橋のたもとに在りました。   そこを男女同伴で通ろうものなら、たちまち「おい、こら!!」と呼び止められ、男女別個に不審尋問され、姓が違おうものなら、その不心得を長々と厳重に訓戒されたものです。そして「臨検」が旅館には抜き打ちにあって、疾風の如く刑事が飛び込んでくるなり、寝ていても構わず敷き布団をさあっとめくる。 当時はテイッシュポンの世ではなく懐紙で、拭いて隠し込む習慣だったゆえ、これを性交の証拠品として真っ先に押収する為である。

   私が口答えしたのが悪かったか、 一緒だった女性が綺麗すぎて嫉妬と反感をもたれたか、拘引され、今なら青少年育成条例違反罪というのだろうが、「挙動不審」の容疑で留置された。正式には、何という法律か定かでないが  【第二国民製造原液未届け放出反国益行為罪】とでも称すべきお咎めでありました。   翌朝になって「近く正式に結婚して子供を作り、お国の為に役立つよう育てます。必ずそれ迄は無駄な放出は二度と絶対に慎みます」と宣誓してやっと放免された。ただ一緒に歩いているだけで見咎められ、すぐ不審尋問で疑われて取り調べられるゆえ、街路へ出る時は男女供用心して必ず離れて歩いたものである。   俗説では儒教からの慣わしで「昔は女性が男より三歩離れて歩いた」というが、嘘である。即ち、女が慎ましやかで、奥ゆかしく、男を立てるためなのではない。 本当は交番所で、コラコラと誰何されては煩わしいからの用心の為だったのです。

 だから日本女性はお淑やかで、慎ましく、優しいというのは大いなる幻想。現在、自分の恋人や妻を良く観察すれば、誰もが納得するだろうものである。 昭和前期は映画館も男子席女子席と分離されていました。 だから、自慰さえも、第二の国民製造原液洩らし、として厳しく罪悪として教育されていた時代だったのです。 国民は御国のために出征兵士か産業戦士の時代でしたから、従ってそれらのモトとなる胎児を勝手に処分するがごときは、反逆罪にも当たると今で言えば吉永小百合なみの評判の美人女優、志賀暁子が、田坂監督との間に身籠もったのを堕胎して摘発され、国賊として懲役二年の実刑を受けた時代でした。 以上が昭和二十年までの「不倫不道徳説」の歴史上の実体であります。

  ひるがえって現代は、 『大の大人だもの、家族への責任も経済的、社会的リスクや批判を覚悟の上なのだから、どうせ窓際族、先も見えた。世の中もツマラン。人生の後半を賭けるに価する女が現れれば俺だってやるかも知れない。ただし、青酸カリは飲まない』という<失楽園仮定願望症>の男女が多く、性愛のみの関係でおおいにラブホテルは繁盛している。
また、現在、ろくに芸もない、芸能人の不倫が大きく取り上げられていて、苦々しい限りだが、この連中軽薄で、不倫という行動に「覚悟」や「責任感」が全くない。男も女も、やることをやって、ばれれば仕事を干されるから「ごめんなさい」と上辺は取り繕うが、一年もすればまたぞろデカイつらしてテレビ復帰。
 
 こういうのは「蛙のツラにしょんべん」という。ベッキーなんていう、ギョロ目で貧弱な体の女など、なかなかもって小ざかしく、「シタタカなアバズレ」である。 天網恢恢疎にして漏らさず、という箴言の通り、本人達は世間をナメきっていた結果、文春に暴露されたのは当然の報い。
その点、戦前の不倫はスケールが違い、激しい愛憎と、社会から糾弾されてもやりぬくという、強い意志の力が感じられる。 戦前の世上を賑わせた映画女優で岡田嘉子は凄かった。なにしろ相手の男は、日本共産党員で演出家の杉本良吉で、二人は樺太から当時のソ連に密入国しての壮大な逃避行をやりのけている。 現在のチンピラタレントや大根役者たちは、彼らの爪の垢でも煎じて飲ましてやりたいものである。
 

戦国時代女城主は沢山いた 上杉謙信も女城主

2019-06-19 09:16:54 | 新日本意外史 古代から現代まで
「上杉謙信」と謂われる画像。江戸時代、想像で描かれたもの。
謙信は死後の戒名である。
本名は「長尾於虎」大柄で醜女の女城主だった。仏教勢力の武田と戦い旗印に毘沙門天の「毘」を使っていた彼女が、数珠など持つはずがない。
無精髭など、泉下の彼女に礼を失する。
 
 
   現在NHKの大河ドラマ「女城主井伊直虎」を観て読者から、戦国時代の女城主についての質問があり、以下はそれへの回答である。 この井伊家は複雑な家系だが、有名な徳川家の重臣「井伊直政」を取り上げず、全く無名の、井伊直盛の娘「直虎」を主人公にして視聴者の受けを狙ったのだろう。今川氏との関係に視点を当てているが、全く面白くない。 現政府が「女性活躍社会の構築」を提唱しているため、時局柄高視聴率が取れると踏んだ作者の思惑が透けて見える。
       ◎女城主について。  
 
   <文禄二年。朝鮮征伐名護屋渡海乗船衆>の名簿には  「三万七千石、堀田が女房。女武者>と記載があります。  夫は堀田権兵衛といい、秀吉が近江長浜五万貫に出世した時、権兵衛も二百貫に出世する。   名古屋鉄道に堀田と言う駅があります。今は名護屋の繁華街ですが、秀吉の頃は掘割に囲まれた痩せ地でした。名護屋駅の裏が中村で秀吉の出生地とされているから、縁辺だったかも知れません。 彼は相当強く手柄も立てたが、今で謂うアル中で、酒毒が改まらない。呑まないと苦しがってのたうち廻る。
 
 だからやむなく酒を与える。もし呑ませなければ刃物をふるって暴れる。まるで狂人沙汰である。そこで女房は伊吹山の女神様に願をかけた。    生まれたばかりの赤子を背負って登山し三七、二十一日の願を掛けた。これを何年も必死に堀田の女房は行った。 秀吉が天下を取ると堀田も二万石になった。 それでも、北の方、奥方と呼ばれる身分になっても、女房はこれまで通りに夫が酒乱になると素足に草鞋を履き杖をついて登山する。
 
秀吉はこれを聞いてすっかり感心し「女房の分として一万七千石」を加増してくれた。しかし長年の深酒がたたって半身不随。往年の豪傑もとても朝鮮などへ  出陣出来ないから、そこで女房が夫の代理として遥か海の彼方へ出陣し、秀吉に奉公した。これは<伊吹山神霊記>というのに出ている話しです。 はっきり三万七千石の堀田の女房とは書いてないが<名護屋御陣渡海帖>に彼女の名があるので、渡海とよぶ海外出兵はこれしかないので、  間違いないと思います。「戦国女性のがむしゃらぶり」というのは、これでも一端は判ると思います。  
この時渡海した女大名に「一万石、池田セン女」の名があります。  池田勝入斎の一族か、それとは違うのかも知れませんが、留守部隊だった女城主まで入れると、未だこの時代は「男系相続制」に定まっていなかったから女性が家名を継いでいたものも多かったらしいです。「当代記」には信長の武田攻めに、高遠御前が槍をふるって群がる織田勢を防いだ話しや、その姪の祝女という女人の力戦ぶりも出ているし、また「駿州志」には、「飯尾豊前守連竜の妻が今川氏真の兵に織田方へ裏切りの疑いで屋敷を囲まれると  手に米の粉を血止めに付け、押し寄せる者を片端から薙ぎ倒して奮戦した」  という「小路合戦」の模様が詳しく出ています。
 
  こうした例証は数が多すぎてきりがないので、徳川四天王の一人、本多平八郎忠勝が書き残した物を1793年に子孫の忠顕(ただあき)が珍しがって木版刷りで頒布した物の中から関係部分を引用して紹介します。            
 
 本多平八郎文書  
 
「わしが若い頃には未だ戦国時代の名残があって、女ごが豪い様で男に一々下知をされた。言うことを聞かぬ者には罰として、食物を渡さぬから、男は言いなりになって槍や刀を持って出かけたものだ。勿論いざというときは、女子も己の顔はやさしく見えてはいかんと、眉を落とし、鍋墨で書き眉を大きく付け、口にかねを含んで鬼のように歯を染め、ワアッと敵陣へ攻め込んだものだ。 だからその名残で今でも武家の女房は眉をすり落とし、口にはお歯黒をつけとるがさて近頃は、男並に弱くなったのではあるまいかと思われる」  と、当時の女は相当に凄まじかったことがこれでも偲ばれます。  尚、前記したように有名な<上杉謙信>も女人であったと八切止夫氏は解明しております。 近頃はようやく、謙信女人説に関心が向き、歴史書にも「上杉謙信は女の説も在る」としぶしぶ書かれているものもあります。
 
さらに秀吉に対面するため、小田原に現れた伊達政宗とその以前の政宗は別人であったらしいと、遺骸発掘によっても明白になったと、 「武家意外史」に詳細です(三春から嫁に来た政宗の妻が政宗の身代わりで戦場を駆け回り、奥州に伊達政宗在り、とおおいに名を売ったとあります)  だから政宗は己の虚名を利用して、来るべき東西対決の時には自分が天下を取ろうとしたらしい。 その為には何と言っても火薬が必要だから、当時スペインのフェリッペ王が抑えていたチリーの新硝石を何とかして手に入れようと、支倉常長を派遣したが、失敗した。 そして、関が原合戦には間に合わなく、これが後の伊達騒動の遠因ともなるのです。

武士は食わねど高楊枝

2019-06-18 16:47:30 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

これは江戸時代、関西発祥のカルタなのである。  この訳として現代の理解では、  

 ◎ 武士は貧しくて食事に困るときでも今食べたばかりのように装ってゆうゆうと楊枝を使う。  ◎ 武士はたとえ貧しくとも清貧に安んじ、気位が高いことをいう。また、やせがまんすることにもいう。 さらに以下のような全くトンチンカンな解説さえもある。

武士は、内職をしていても誇りがあるため、めったな弱音は吐けません。それで、実際には食べていなくとも、食後のように悠然と楊枝を使って満腹を装う姿を、「武士は食わねど高楊枝」といって表しました。武士の気位の高さを象徴していますね。現在の内職の起源は、江戸の武士にあると言われています。 こんな具合で、ウイキやデジタル辞典等に書かれているが、これは知ったかぶりの大間違い。
さてここからが本当の話になる。 江戸時代というのは、徳川の施政方針で御所を軽視して、天皇はじめ公家たちも大変に貧しかった。 そして二代将軍秀忠の娘の和子が入内した時の、所謂持参金の化粧料として一万石で御所の台所料は増えたといっても以前の二万石に足しても僅か三万石だったのである。
 
これで公家から下働きの諸官を養うのだから、天皇でさえ好きな酒などめったに飲めないほど苦しい台所事情だった。 一方の徳川家は、過酷な諸大名の取り潰しなどで四百万石も在った。  しかも御所を威圧するために、御三家を初めとして、各大名達に京屋敷を持たせ、武士たちを待機させていた。
 
 だが大阪には、米を銀に替えるため、大藩の蔵屋敷しか置いていなかった。つまり大阪は「町民の町」と謂われるように、武士の数は極めて少なかった。 それゆえに出来た、これは武士に対する悪口なのである。  「雑兵物語」という兵学者と称する者の本には、 「城が兵量攻めで囲まれたる時は、寄手に弱みを見せぬため、雑兵どもは、さも満腹しているように、これみよがしに長いツマ楊枝をくわえさせて、食料が十分にある如く恰好付けること」と、尤もらしい事が書かれている。
 
 これが現代信じられて上記したような解釈がまかり通っているのである。 しかし常識で考えてみるがいい。
篭城ともなれば、時は戦国時代である。望遠鏡も無かったのに、長くても口に咥えた爪楊枝などまさか城外の寄せ手に視えよう筈が無い。  江戸時代の兵学者とか兵法家と称して、講演料を稼ぐため廻っていた連中たるや 全くいい加減なものである。  こういう与太話を信じる歴史屋はどうかしている。  従って、このカルタは江戸期に大阪で出来たものだから、米をはじめ諸物価が年々高騰しても、武士たちの俸給は全く換わらず生活は火の車。  武士だ武士だと威張っていても、内実は苦しい世帯で内職に明け暮れていた武士階級を侮蔑した嘲笑ものなのである。
 
 

江戸のよもやま話 身振り手振り 手妻の語源

2019-06-17 16:53:27 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

現代、この言葉は「大袈裟な身振り手振りで話す」等と使われている。だが江戸時代は「棒てぶり」の名前で、江戸日本橋に在ったアマダナと呼ばれ繁盛していた商売で、魚を売り歩く者たちのことを言った。  又、旅人が川を渡るとき、蓮台や肩に乗せて運ぶ者たちを川越人足と呼んだが、彼らのことを「肩てぶり」といった。  そして川の渡守を小舟を長い竹竿で操るから「竿てぶり」と呼んだ。    江戸享保年間に、映画やテレビでお馴染みの大岡忠相(越前守)が五街道目付を新設するにあたって、食い扶持、即ち  今で言う給料を払わなくて済む方策として「祇」を信仰する、日本原住民系の内の海洋渡来民族の、流れ職人や旅芸人を堂(道)の者として目付にし、 幕府公認であることの目印に朱鞘の大刀と逮捕、捕縛、処刑の特権をを与えたのである。

(この者たちに幕府は扶持は出さない代わりに博打の権利を与えたのである。そして次第に彼らが日本各地に定住するようになり  博打のてら銭で、西部劇の補助シェリフにも当たる捕り方や子方を養い、やがて日本全国を勝手に区割りして縄張りと称し親分子分の  関係を築きこれがヤクザの源流となる。現在ヤクザを一括して暴力団として排斥しているが、昭和の50年代までヤクザはタカマチで物を売る  テキヤと博打を打つ博徒は厳然と分かれていたし、博打のテラ銭は昔から一割と決まっていた。日本政府は博打のテラ銭ほしさに彼らから  賭博の権利を奪ったので、ヤクザは止む無く様々な裏稼業に手を染めざるを得なくなったのである。

そしてお上が開帳する競馬のテラ銭たるや  二割五分もとっているのは周知の事実で、全くヤクザより阿漕なのが現在のお上である。近頃は全国にカジノを作り、国民から更に銭を巻き上げようとしているのだから、全く残酷な話しである) さて、この時代日本各地では凶作で、別所、院内、院地、山所と呼び名は様々あるが現代ではという、被差別の原住民の囲い地から「江戸へ行けば 何とかなるだろう」とこの限定囲い地から次々と抜け出し、西は名古屋、大阪、東は江戸と続々と流入した。

この時代から何の産業もない江戸が130万という世界一の人口になったのもこれが原因なのである。  この囲い地を抜け出した部族も、街道目付の部族も同じ「祇」を信仰する同族だったため伝達をつけからの脱出は容易だったらしい。しかし無事に脱出して江戸へ来たものの、そうやすやすと仕事(職)はない。そこで江戸でも同信心で弾佐衛門配下の日本橋アマダナで魚を売るため 天秤棒を借りて江戸町内を売り歩いた。  講談や映画で有名な大久保彦左衛門の腰巾着のような一心太助はベランメイ調でベラベラしゃべっているが、あれはあくまでもフィクションである。

日本は往古より六十余州というくらいで、その地方独特の言葉があり、これは現代でも青森と鹿児島ではまるで言葉が通じない。  だから当時でも江戸へ北から南から流入した脱出人間は江戸言葉が上手く使えず、言葉に難儀したらしい。 そこで客に呼び止められ「今日の魚は何があるんだい?」等と聞かれると、天秤棒を下ろし、身振り手振りで魚を売ったのが語源なのである。 ヨーロッパも多くの国が国境を接していて言語もバラバラな所は、意思疎通も大変だから、身振り手振りの大袈裟な所作で会話をするのと同じことである。

 戦国時代後期の信長、秀吉時代、彼らの出身地である尾張弁が公用語だったから、「ここにきゃーたる」「そうだなきゃも」等の言葉に面食らわされ  地方の大名は慣れるのに随分苦労したらしい。  関が原で多くの大名が徳川に付いたのも、仏教系の三成を初めとする西国大名と、祇や白山(神信心)を奉じる徳川の   いわば宗教闘争の側面は正しいが、再度豊臣の天下なればこの尾張弁に又悩まされるのはかなわんと、徳川を勝たせたという大名心理も 大いに関係があるのである。
 
江戸時代、馬で人や物を運ぶ商売は騎馬民族系の末裔で、駕を担いだり大八車で荷物を運ぶ方は、太古飛鳥人と呼ばれた古代海人族の  限定職業で厳しく決まっていた。   そして騎馬民族系(源氏)の民族色は白で海洋渡来古代海人族(平氏)は赤とこれもまた決まっていた。  大井川などで蓮台や肩に乗せ人を運んでいた者たちは赤ふんどし、一方街道で雲助とも呼ばれた馬方や荷物運びの人足は白ふんどしで はっきり見分けが付いた。
 
さて、こうした資本や、たいした技術のいらない仕事に各地のを抜け出して就労したが、言葉が上手く通じないため、やはり身振り手振りで話したらしく 苦労したらしい。    今でこそ学校教育で標準語が定まっている。だが江戸時代はそうは行かず、関東のイは中部地方ではシになり、関西ではアとなる。  例として関東の「いかん、いけない」が関西では「あかん、あきしまへん」となる如く。津軽弁と越後弁は同種同族だから、似通った言葉で通じるが、九州となると古代朝鮮新羅系人間が多く住む北部と、 古代朝鮮高麗系人間が多い薩摩ではやはり身振り手振りを入れなければ会話が出来ない。前述したように、人種が入り交じり、国境が錯綜している欧米人が会話の合間に大袈裟なジェスチャーを挟むのもやはり同じことである。  つまり日本原住民を差別し、限定居住地に押し込めていた日本では、この手振りが会話の中で幅を利かすようになったのは、  徳川八代将軍吉宗の時代に日本各地のから大挙して着の身着のままの人間が都市に溢れ出した為である。
      手 妻の語源
奇術の中に「和風奇術」という分野がある。 現在の説では、水芸や南京玉すだれやの手品をなす芸人を手妻使いといったとなっている。これは江戸期近松門左衛門の<三国志>の中の「さらば拙者が手妻を御覧に入れん」という口上からである。 十返舎一九の<東海道中膝栗毛>の中にも、「ありぁ釜七という有名な手妻使いじゃねえか」と出てくるから、これは徳川綱吉以降の用語らい。 というのは、先住民族である日本原住民の女は奴隷とされ、大陸勢力の豪い様は、妻を連れて進駐してきた訳ではないから、単身赴任の彼らに強制的に召し上げられていた。さらに奴隷化された男といえば、生涯嫁とりは出来なかったから、先住民を「セン」として、これが「センズリ」の語源ともなっている、誠に哀しい言葉なのである。
 
処が、若い間は自分の事は自分で済ましても、次第に自分でしては済まされないようになった時。つまり男は、歳をとると中々勃起はしない。しかし、哀しいかな男の性(さが)でそうした要求は無くなりはしない。こうした男達の要求を満たすため、代行してくれる器用なのが出てた。
昭和初期まで浅草や大阪通天閣にも「かきや」とよぶ商売人が居たもので、これは文字を書く代書屋とは違って、他人の一物を舌等を使い、巧く操って用をたたせて銭を取っていたという。
 
 奴隷制が小作百姓とか水呑み百姓の名称で続いた江戸時代までは、手を人間の妻の代わりにする手妻使いが居たというのが、真実なのである。
つまり、シュツシュツと水が噴出す有様が男の射精に似ていたり、ぐんにゃりして頭を垂れている玉すだれが、突如として勃起する如く立つ有様が似ているので、手妻を連想してそうした呼称が始まったものなのである。 だから、私達日本原住民のご先祖様たちの、悲しくも憐れな話なのである。井原西鶴の「俗つれづれ」に、魚釣りの説明のくだりで、「手妻のききし人は、間もおかず次々と数多く釣りける」と、やはり水から魚が跳ねつつ飛沫をあげて釣り上げる情景を説明している。
処が、手妻の本当の意味を隠さなければ、昔の施政者の残酷な原住民差別が解ってしまう。 これでは具合が悪いと、歴史屋共が「手品」「手先の仕事」だと意味を変え、国語学者も同調して辞典もこうなっている。 日曜大工とか、指物師という家具職人なら、それでも当てはまるだろうが、魚釣りは手先の器用さや不器用で数多く釣れるものではない。 これは常識で判りきった事なので、嘘だと理解できるだろう。

元禄ルネッサンス 悲劇の人「水戸光圀」 ヨーロッパのルネッサンスとは??

2019-06-17 08:21:09 | 新日本意外史 古代から現代まで

 

愛知県出身の織田信長と豊臣秀吉、が天下をとった時代は、当然その時代の公用語は「おきやあせ」「あかんでよう」の名古屋弁だったのである。 北は東北、南は九州まで、日本は六十余州というぐらいだから、様々な言葉が在って大変だったろうことは想像できる。 今でも青森と鹿児島人が方言で話せば全く意味が通じない。だから諸大名は随分と苦労したらしい。 さて、足利時代には、原住民が体制側の仕事に就こうとすれば、強制的に仏教に転宗し、坊主のように頭を丸めて「何アミ」と称さなければ奉公できなかった。

 また、官庁に出仕を許されても、反乱されては困るので武張った務めは許されず、安全な能、茶、花、画とか美術に限定されていて、これは信長や秀吉の時代にも続いていた。 しかしここに、彼らが信長という原住民解放軍のおかげで自由人になり、おおいにその才能をのびのびと花咲かせたのが日本最初のルネッサンスなのでである。 日本史ではこれを「安土桃山文化」というが、次のルネッサンスともいうべき文化の爛熟期は元禄時代だった。 ここで、学校歴史では教えないルネッサンスの裏面史(真実)を考究してみたい。

元禄ルネッサンス 
悲劇の水戸光圀  
講談では、徳川家光が辻斬りに出歩き、それを光圀が止めたことに作り変えられている。又嘘と言えば<武野燭談>では、水戸家を立てるため京から宮様を迎えようとする酒井忠清に、 あくまで光圀が反対したようになっている。だが実像の光圀は京派であり、勤皇精神に溢れていたのである。
光圀は吉良上野介によって青蓮院へ押し込めになった有栖川幸仁親王へ、衣服類や銀を水戸京屋敷を通じて、度々今で言う差し入れをし、 前後西帝の擬華洞へも何度も自作の詩の「添削料」の名目で、半紙百帖とか、墨百挺といった納入の他に、「採暖」にと冬は桜炭、夏には団扇をかかさず差し入れたので、 幽閉された後西帝は「六国史」を今日に書き改めも出来たのである。 つまり光圀は何人も辻斬りこそしているが、「後西帝に唯一人の忠臣として奉仕」している。そのため吉良上野介に嫌われ、柳沢吉保に憎まれて、その血脈を皆絶たれてしまい、 今では虚像の黄門様にされてしまっている悲劇の人である。
 
(光圀を大納言の唐名で黄門と言うが間違いで、水戸はちなみに中納言である)
さて、元禄時代の背景を知ってもらいたいため、光圀の実像を解明しながら長々と稿をさいたが、この時代の立役者はなんと言っても徳川綱吉と柳沢吉保である。 綱吉が上州館林十万国から将軍職になると「側近の小納戸役を申しつける」と柳沢も五百石取りに立身する。時に綱吉三十四歳、吉保二十二歳と、おおいに気のあったところである。 だから二人で何かでっかいことをやろうと、話しあったのかも知れない。
というのは江戸時代の代表的文化人や財産家はみんなこの時代に出現しているからである。
 
そしてこのため、今日になると対比する如く並べてみられ、ルネッサンスと呼ばれダヴィンチ、ラファエロ、ミケルアンジェロ等が輩出した絢爛たる世界と、 日本の元禄時代とは同一視されがちである。
何しろ絵画の浮世絵でも有名な英一蝶の他にも菱川師宣、鳥居清信、西川裕信といった今日の芝居絵の元祖の鳥居派が誕生。 蒔絵の小川破立、中村宗哲、光琳派の元祖の尾形光琳、陶器の尾形乾山、彫金の横谷宗眠、当時の新興文学の俳人としては松尾芭蕉、向井去来、内藤文草、服部嵐雪、室井其角、桑岡貞佐、作家の井原西鶴。 また、天下の権勢を一人で押さえていた柳沢吉保の側室で町子の実家の正親町公連に青侍奉公していた近松門左衛門が、柳沢のたてた神仏混合政策に迎合して「この世には神も仏もないものか」と <心中天の網島>の中で堂々とPRしている。
ジェームズ一世のお抱え作家で、その母メアリ・スチュアート女王がエリザベス一世に斬首されるのを見殺しにしたのを対外的に弁護するため<ハムレット>等を書いたシェークスピアが 今日でも名声を保ちうるのは、英国王室御用作家だったためで、国家権力でずっと守られてきたためであるが、 近松も立派なものを書いたに間違いないが、柳沢在世の元禄期において「町子のお方様の御実家の旧臣」というレッテルでその評価が定まったようである。
悪辣非道な綱吉と柳沢
本来、作家とは庶民の側に立って反体制であるべきなのに、ともすれば御用作家になってしまうのは、権威の裏付けが評価を左右するかららしい。現代でもこの手の作家は実に多い。デビュー時には文学的に鋭いものを持っていたのに、儲かるとなればエロや体制迎合物も平気で書きとばす。
さて、近松によって、竹本義太夫や新内の岡本文弥、役者では坂田藤十郎、初代片岡仁左衛門、水木辰之助、初代市川団十郎、中村七三郎が出現し、いわゆる名優が東西一斉に舞台を飾ったのは、 元禄ルネッサンスといえる。この他にも熊沢蕃山新井白石、室鳩巣、太宰春台、伊藤仁斎、世界的な和算の大家の関孝和もこの時代に続出している。 赤穂浪士が討ち入りの時、生卵を届けて激励に行った細井広沢。討ち入りが済むと「全員死刑」をあくまで主張した荻生徂来らも学者であるが、二人共柳沢の家臣である。
 
 
つまりその言動や主義主張は主人の代弁と見られるから、赤穂事件も柳沢がマッチで火を付け、ポンプで鎮圧した政治的配慮に依るらしい。 そして学者としての評価が、今日でも不動の物となっているのは、三十年におよぶ柳沢体制の中ではっきりと体制(おかみ)で位置づけられたからだろう。
なにしろ宝永三年には隠匿されていた古金銀貨を国家権力によって強制供出させ、銅や錫を半分以上混ぜた元禄通貨よりなお質の悪い宝字貨を鋳造流通させ、 「初物くばり」と新貨を人脈の配下へ柳沢は惜しみなく配ったという。現代はお手盛り立法の政党助成金を自党の陣笠連中に数百万円当て分配するが、柳沢は宝永通宝を今の金額に換算して十億円ずつばらまき、 その後も従来の二朱金を徹底的に回収し、やはり十億見当の配分を幕閣の主立った者に配っている。
 
普通賄賂というのは百万贈れば千万ぐらいの見返りを願うものである。柳沢の凄いところは賄賂を取らず、逆に自分の方から金を撒いていたことである。 だから誰に足をひっぱられもせず、悠々と天下の権勢を独り占めにし、全てを蔭で仕切り、晩年は駒込六義園で悠々自適していた。
 
その子孫は郡山十五万石で幕末まで続いている。 彼は庶民にとってはとんでもない男だが、政治家と見るより徳川家の官僚としては最高の人物だったといえよう。この時代、次々と金銀の含有量が希薄になるインフレの波に乗り、 柳沢に劣らず巧く立ち回って財を作った傑物達も多い。
三井の開祖八郎右衛門、住友の元祖の吉右衛門、鴻池の善右衛門などが輩出して壮観を示している。だが、こうした柳沢のインフレ政策で弱い者は打ちひしがれ、 江戸でも行き倒れが多かったという事実を何と見るかだが、そうした乱世こそが金儲けの時代だったのは三井や住友が今なお健在なのでも判る。何と現代と似ていることだろう。 何時の世も体制(おかみ)のやることは一緒である。科学の発達は素晴らしいのに、平成も新令和の時代も、政治の手法は旧態依然のままである。
ヨーロッパのルネッサンスとは
さて一方の欧州のルネッサンスはなにも後世の、世界美術全集を賑わすため起きたのではない。 イスパニアのカタリーナ女王のイザベルが、自分より美しく見える女はみな魔女であると、トマス・トルケマダ司祭に命じ、片っ端から捕らえさせて殺戮してのけた。
ヨーロッパの王家の男女の肖像画はみな美男美女に描かれているがあれは美化しているだけである。バイキングや海賊あがりの連中が武力で王になっただけで、 当時のイザベラ女王が美人だったとはとても思えないし、発端はいわば女の嫉妬からといえよう。
 
 
そこでトマス司祭は己が行為を正当化するため「異端審問長官」の肩書きをバチカン法王庁に乞うた。 それに「片っ端から捕らえて拷問にかけ、魔女として焼き殺したり水漬けにして処分しては免罪符が売れなくなり、法王庁の財政に響く」と、 魔女として処刑する場合には、女の所有財産を没収し、その献金をレオ十世は命じた。 トマス異端審問官は女の財産を裁判所と教会で折半する案を出した。そこで法王は、 その拾得分の内の半分を女王へ差し出し、教会もやはり半分を法王庁へ献金と定めた。
だから、なんと当初はイザベラ女王の妬情から起きた魔女狩りが、儲かるからと、各地の王や教会の奨励するところとなってしまった。 そこで金のある女が老幼を問わず狙われ「魔女」とされて欧州全土で次々と火炙りや、生き埋め、四つ裂きに殺され、全部で四百万とも言われている。記録では1854年、ドイツの トレバースだけでも七千人、スペインのトレドでは三千二百人が蒸し焼きの大量処分とある。
だからそれらの女達の遺産はもの凄かったろう。
 
「これは凄い、思いもよらぬ金がどんどん入ってきて使い切れぬ」とレオ十世猊下も各国の王もすこぶる満足した。 そこでこの泡銭のおこぼれが仮需要となり、装飾用にと絵画や彫刻が求められ、芸術家を潤しルネッサンスとなったわけである。 つまり日本の元禄時代も、柳沢吉保が次々と古貨を回収し、水増し改鋳で利得を上げ、このアブク銭が彫金師や絵師に流れ歌舞伎や俳句の興隆となり、日本版ルネッサンスとなったのである。
「おかみの印さえ有れば、金銀でなく石ころや瓦でも天下の宝として通用する」と豪語した柳沢の家臣の荻原重秀。 「国民をだましても消費税をガッポリ取るのだ」の自民党。どちらも国民のことなど一切考えていない点で同根である。 現在政治に幻滅した国民はスポーツやオリンピックのお祭り騒ぎに幻惑され、グルメブームに踊らされ、美味を求めて狂奔する。
求める豊かな生活(土地や家やレジャー等)には手が届かないため、即物的なものが人々の精神を支配している。 これでは怒る権利を自ら放棄したことになってしまう。人間らしい生活、誇りと言う奴は即物的な物に有りはしない。よりよい社会へのロマンへの渇望ではないか。 さてヨーロッパのザクセン侯やラプール王達が、教会と結託して次々と女を捕らえ火あぶりにし、 あぶく銭を儲け、ミケランジェロらに己の肖像画を描かせたりしたのに比べれば、<殺しの金>でないだけでも、柳沢の方がはるかに紳士的(陰謀での生殺し)であったと言える。