稲敷資料館日々抄

稲敷市立歴史民俗資料館の活動を広く周知し、文化財保護や資料館活動への理解を深めてもらうことを目的にしています。

特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(7)

2022年02月25日 | 日記
関連寺院に残されたもの(1)

今回の不動院展では、多くの関連寺院の皆様のご協力を
頂いております。

その中から、こちらで情報提供可能なものをいくつか
ご紹介させていただきます。

まず、北須賀山満願寺所蔵品をご紹介いたします。
満願寺は、天平12年(740)年、行基が法相宗として開山し、
弘仁2年(811)最澄が天台宗に改めたといい、
承久2年(1220)北条政子が鹿島神宮参詣の折に立ち寄り、
三浦義村に地蔵菩薩を奉納させ、供養料百貫文を奉納し
たという古刹です。

満願寺は、文禄4年(1595)、肥前名護屋城で朝鮮出兵
をひかえていた江戸崎城主・芦名盛重より、特に御祈祷
精誠であるにより、不動院法会において甘江院が荒廃し
ている間、第二席に座すことを許されています。

そうです、満願寺は、江戸崎不動院の末寺頭の第二席なん
です。

まず、開山の年代ですが、大変古い年代を挙げられる寺院
が多い中で、満願寺は寺の草創の時期よりも100年ほど古い
時代の仏像が存在しています。

それは、銅造如来立像(№119)です。


このお像は、茨城県最古の「白鳳期」(西暦600年代後半)
の制作とされ、茨城県指定文化財になっています。

火災の被害が痛々しいお顔は、上顎から下が焼け落ち、
上半身も熱を受け少し溶けて表面が荒れているようです、

それでも頭部のお団子のように高い肉髻(にくけい)、
アーモンド様のくりっと浮き出たおめめ
(宇宙人みたい!とのご意見もありました)、
下半身裏側の衣の稜線に連続して鏨(たがね)を打ち
込んだ模様、台座の返り花など、白鳳時代にさかのぼる
古い特徴を充分に鑑賞することができます。

実は、このお像、レプリカの展示は、当館の常設展で
いつでも見られますが、実物は、秘仏中の秘仏なので…
展示公開されるのは…
恐らく「48年振り!」のことなのです!!

今回、満願寺ご住職の特別のご配慮により、公開させて
頂いております!!

次は、いつ見られるか分かりませんので…是非、今回の
展示にご来館なさり、茨城最古の白鳳仏にお会いください!!





特別展「常刕江戸崎不動院」の見どころ!(6)

2022年02月25日 | 日記
江戸崎不動院の草創について(6)

静久は、不動院5世として、巨大な不動院本堂の移築や
両界曼荼羅図の整備など、江戸崎城主・土岐治英を壇越
に大事業を進め、不動院を土岐氏の祈願寺として整備し
たと考えられます。

また同時に江戸崎の土岐氏はこの頃、美濃の土岐宗家を
継承する時期と重なっています。

それまでの不動院の住職は、幸誉・幸儀・幸淳・幸憲と
皆、「幸」の字がつく僧侶でしたが、5世静久から
「幸」のつく僧侶が見られなくなります。

このようなことを、色々考えますと…この時期の江戸崎
は、一大転換期を迎えていたのでは?と考えられます。

江戸崎城は、舌状台地の先端に位置する戦国時代の城郭
ですが、その台地の付け根の部分に不動院が置かれ、
26.4m×13.6mもの巨大なお堂が移築されているのです。


江戸崎城主土岐治英の叔父、土岐頼香(よりたか)は、
天文13年(1544)、尾張の織田信秀の美濃進軍を防ぐ
ため、岳父斎藤利政(道三)の命により寺院を城塞化し
た、尾張無動寺城で防戦に当たりますが、夜襲を受け、
自害します。

治英が、この戦いを知っていたかは、分かりませんが、
その父、治頼は兄の土岐頼芸などから実弟の戦死を
伝え聞いていたかもしれません。

江戸崎城の絵図面を見ても、不動院は舌状台地の付け根
に位置し、ここが急所と見受けられます。

ですから、土岐治英は、そのような要所に軍事上の拠点、
かつ霊的守護として不動院を配置したのかもしれませんね。

実際に、天正18年(1590)の江戸崎城落城の際、攻め手
の神野覚助は、真っ先に不動院を占領し、その翌日には
江戸崎城を落としています。

この時、不動院にどのような被害があったのか記録は
残っていませんが、同年、随風(天海)が芦名盛重と
共に江戸崎に入りましたが、不動院が荒廃して入院でき
ず、不動院修築の間、江戸崎新宿の華蔵院に住んだと
地元では伝えられています。


華蔵院には、慈眼大師加持井銘の碑が建立され、その井戸
は星見井の名もあるそうです。

こうして、天海が修築を終えた不動院に入ったのは、
翌天正19年(1591)のことと伝えられています。