関連寺院に残されたもの(2)
今回も、不動院の関連寺院として、現在、当館にて公開
中の北須賀山満願寺の資料をご紹介いたします。
前回の記事で、満願寺が大変古い歴史と、行基や最澄、
北条政子、そして三浦義村などの縁起を有す、格式高い
古刹であることを述べました。
そして、戦国時代の終わりに江戸崎城主となった芦名盛重
は、信太庄江戸崎にある不動院の末寺頭の第二席に、
東条庄阿波崎の満願寺を取り立てました。
これは、南北朝期ごろには地域のお坊さんたちが、
「信太庄下條祈祷衆」といった団体を作り、
一致団結して領主と交渉などしていたことから考えると、
そこに他所の東条庄から末寺頭「№2」を招き入れた
訳ですので…中世的なルールを壊す
ちょっとした「事件」だったと推測されます。
では、何故、芦名盛重は、そのような宗教政策をおこ
なったのでしょうか?
ズバリ!…それは「天海」が関与していた、と考えられ
ます。
天海が、信太庄・東条庄をまたいで、自らを頂点とした
本末制度の構築を試みた、
その一環では…と考えられています。
実は、満願寺と天海と芦名氏には、
意外な因縁があるのです…。
満願寺に、北条政子が鹿島参詣の折に立ち寄り、由緒ある
古刹故、三浦義村をして地蔵菩薩を奉納したお話を覚えて
いますか?
この「三浦氏」こそ、
天海や芦名氏のルーツなのです!!
そして、天海は、自分のルーツである三浦氏、芦名氏を、
とても大切に想っていたのです!
もちろん、満願寺が行った御祈祷が、大変に効果があった!
…ということも充分に考えられるのですが…。
ご祈祷は、密教の作法に則り修法が行われますが、その
本尊とされるものとして「両界曼荼羅図」(№117)が
あります。
画像は、会期の前半に展示中の胎蔵界曼荼羅です。
この曼荼羅には裏書があり、天正16年(1588)8月24日
に作られ、当時の満願寺住職英伝が法華経三万部読誦
供養を成し遂げたとあります。
天台宗、特に山門派では、法華経の教え(教相)と、
密教の修法(事相)が、どちらも等しく大事なもの
とされています。
そこで、満願寺の英伝和尚は、密教の本尊である
両界曼荼羅図に三万回も
法華経を読誦し、供養したというのです!
また、芦名盛重が肥前国名護屋城に在陣した時に、満願寺
が御祈祷したのも、まさにこの両界曼荼羅図だったと
思われます!
そういう意味では、満願寺や芦名氏の歴史に、とても
大きな意味を持つ資料なのです。
もう一つ、満願寺の胎蔵界曼荼羅図には大きな特徴があります。
それは、東国において数少ない天台宗系の作例では?と
考えられていることです。
茨城県内では、このような様式の両界曼荼羅図は、
他に作例が知られていません!
3月下旬には、展示替えをして金剛界曼荼羅図になります
ので、どうかお早いうちに、満願寺の胎蔵界曼荼羅図を
是非ご覧ください!!
今回も、不動院の関連寺院として、現在、当館にて公開
中の北須賀山満願寺の資料をご紹介いたします。
前回の記事で、満願寺が大変古い歴史と、行基や最澄、
北条政子、そして三浦義村などの縁起を有す、格式高い
古刹であることを述べました。
そして、戦国時代の終わりに江戸崎城主となった芦名盛重
は、信太庄江戸崎にある不動院の末寺頭の第二席に、
東条庄阿波崎の満願寺を取り立てました。
これは、南北朝期ごろには地域のお坊さんたちが、
「信太庄下條祈祷衆」といった団体を作り、
一致団結して領主と交渉などしていたことから考えると、
そこに他所の東条庄から末寺頭「№2」を招き入れた
訳ですので…中世的なルールを壊す
ちょっとした「事件」だったと推測されます。
では、何故、芦名盛重は、そのような宗教政策をおこ
なったのでしょうか?
ズバリ!…それは「天海」が関与していた、と考えられ
ます。
天海が、信太庄・東条庄をまたいで、自らを頂点とした
本末制度の構築を試みた、
その一環では…と考えられています。
実は、満願寺と天海と芦名氏には、
意外な因縁があるのです…。
満願寺に、北条政子が鹿島参詣の折に立ち寄り、由緒ある
古刹故、三浦義村をして地蔵菩薩を奉納したお話を覚えて
いますか?
この「三浦氏」こそ、
天海や芦名氏のルーツなのです!!
そして、天海は、自分のルーツである三浦氏、芦名氏を、
とても大切に想っていたのです!
もちろん、満願寺が行った御祈祷が、大変に効果があった!
…ということも充分に考えられるのですが…。
ご祈祷は、密教の作法に則り修法が行われますが、その
本尊とされるものとして「両界曼荼羅図」(№117)が
あります。
画像は、会期の前半に展示中の胎蔵界曼荼羅です。
この曼荼羅には裏書があり、天正16年(1588)8月24日
に作られ、当時の満願寺住職英伝が法華経三万部読誦
供養を成し遂げたとあります。
天台宗、特に山門派では、法華経の教え(教相)と、
密教の修法(事相)が、どちらも等しく大事なもの
とされています。
そこで、満願寺の英伝和尚は、密教の本尊である
両界曼荼羅図に三万回も
法華経を読誦し、供養したというのです!
また、芦名盛重が肥前国名護屋城に在陣した時に、満願寺
が御祈祷したのも、まさにこの両界曼荼羅図だったと
思われます!
そういう意味では、満願寺や芦名氏の歴史に、とても
大きな意味を持つ資料なのです。
もう一つ、満願寺の胎蔵界曼荼羅図には大きな特徴があります。
それは、東国において数少ない天台宗系の作例では?と
考えられていることです。
茨城県内では、このような様式の両界曼荼羅図は、
他に作例が知られていません!
3月下旬には、展示替えをして金剛界曼荼羅図になります
ので、どうかお早いうちに、満願寺の胎蔵界曼荼羅図を
是非ご覧ください!!