全国六善光寺で絶賛開催中の御開帳!
もちろん、お館さまのお膝元、甲斐善光寺でも!
信玄公の下で建立された甲斐善光寺。
その時、絶対秘仏で生身(生きてる!)仏の善光寺如来さまも甲府にいらしたワケで、
そんなご縁もあり、今春の特別展示室企画展は「甲斐国領主と善光寺」がテーマ。
善光寺関連の貴重な書状をご紹介しております。
↑甲斐善光寺のご本尊はこちらから!
第一弾では、武田氏の時代、
第二弾では、徳川氏、羽柴氏による甲斐統治の時代にタイムスリップ😉
創建から善光寺のもろもろを担当した栗田氏に、新領主が宛てた書状が展示中。
国の領主が変わっても、栗田さんの統治権に変更ないよ(!)という内容。
第一弾では、「武田二十四将図」(個人蔵)もご覧いただいておりましたが、、
今回は、「徳川十六将図幅」(山梨県立博物館所蔵)がお目見え。
「武田二十四将図」も、「徳川十六将図」も、江戸時代にさかんに制作された、
戦国時代までは見られないタイプの集団肖像画、またの名を軍団絵。
「武田二十四将図」で言えば、最初は甲州流軍学の書「甲陽軍鑑」に刺激を受けて、
武田家家臣の子孫が、先祖供養に描かせた図像だったとも。
どんな集団肖像画になったのかと言えば、それが仏画さながらで、
お釈迦さまのように描かれた信玄公や家康公を頂点に、
「武田二十四将図」であれば、親族衆、家臣団、国人衆の順にずらり。
仏教の守護神には「十二天」、「十六善神」、「二十四諸天」などがいらっしゃいますが、
「二十四」や「十六」という数字も、仏画の影響によるものかもしれません。
でも、カメラも何もない時代です。
お顔がわからない方々の肖像画は、どうやって描いたのでしょうか。
信玄公の場合は、お館さまが生きていらっしゃったころの肖像画や、
合戦図に描かれたお姿などが元になったと考えられています。
お館さまをご存知の方に、生前のお姿をリサーチしたのかもしれません。
長命の家康公の場合は、肖像画などの記録には事欠かなかったかと。
武田の武将たちの肖像画は、と言えば、
甲州流軍学の書「甲陽軍鑑」が、人選含めてインスピレーションの源。
描かれた武将たちは、軍議の真っ最中と言わんばかりに、あっち向いたり、こっち向いたり。
武田二十四将が、大衆文学、芸能の人気キャラクターになったのもわかる気がします。
それじゃあ、「徳川十六将図」は?
というところで、、本日はこちらで失礼いたします。
次回も、ぜひお付き合いください🙇
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