ちょこっと比較♪「武田二十四将図」と「徳川十六将図」(その2)

2022-05-25 13:15:34 | 紹介
特別展示室にて展示中の「徳川十六将図幅」(山梨県立博物館所蔵)を、
「武田二十四将図」と比較しつつ、ご紹介しております。

前回は、カメラのない時代、何を元に武将たちのお顔を描いたの、なんて話を。
その続きです。

肖像画にクローズアップすると、戦国の終わりから近世の初めごろは、一つの転換期。
戦国大名が、生前に自分の肖像画、寿像(じゅぞう)を描かせ、
菩提寺に奉納することは珍しくありませんでしたが、
それが、配下の国衆などにも派生し始めたのがこの頃。
理由はさまざまだったと思いますが、地元の禅寺などの創建の時、
寺を開いた僧だけでなく、経済的支援者の肖像も秘蔵したようで、
それで国人衆も自らの像を描かせた・・という例も多かったようです。

国衆の肖像画の1例が、武田の御一門衆・穴山梅雪こと信君(1543−1582)の遺像。
本能寺の変の後に命を落としますが、その翌年に描かれ、静岡の墓所に奉納されました。

ごめんなさい💦画像はただ今準備中都のことです!(2022.5.22現在)

対して「徳川十六将図」で描かれた武将たちは、
「徳川軍功記」(1661〜1673ごろ成立)などの記録を元に、
誤解を恐れず言うならば、幕府創建の功を”正式に”評価された方々。
軍団絵にどこまで参考にされたかはわかりませんが、
菩提寺に奉納した遺贈や寿像が現存する方もちらほら。
本多忠勝(1548−1610)は、関ヶ原の戦い後に描かせたという肖像画を遺していますが、
とても印象的なお姿ですので、もしかして軍団絵にも影響を与えたかもしれません。
(↑こちらは、忠勝の死後に写したもの。千葉県立中央博物館大多喜城分館保管)

図像上では、武田氏の家臣とは違って、それぞれにクールに泰然と、
それこそ高僧や、仏法・仏教徒を守護する護法善神のごとく。
同じスタイルで「徳川十六”神”将図」と呼ばれるものもあるくらいですから。
ただ、「徳川十六将図」は「武田二十四将図」よりもバリエーションが豊富なようで、
あるパターンででひとくくりするのは難しいかもしれません🙇
浮世絵の題材となればなおさらで、皆さま歌舞伎役者然と描かれた作品も多く、
初期の「徳川十六神将図」とは全くの別物になっています。

とはいえ、両者の違い。やはりそこは、一度は廃絶した武田家の脚色のしやすさと、
現在進行形の将軍家とその家臣団の描写の難しさかと。
武田の家臣たちはそれぞれに、「お館さまのため!」とばかりに、軍議に夢中。
家臣たちの間で交わされる視線は四方八方でも、
家臣全体に注がれる信玄公の視線が、軍団絵をひとつにまとめているようにも・・感じます。
まさに徳川幕府が理想とした、忠義で結ばれた主従関係が体現されていますが、
今回展示の「徳川十六将図」は、「東照大権現」として祀られた家康公と家臣団の肖像画。
徳川氏が、三河の一大名による幕政をどのように正当化していったのか・・・
その一端を垣間見ることもできる図像。
こちらは、仏画的雰囲気、かつ秩序を感じますが、どうでしょう。

図像に何を観て、感じるかは人それぞれ。
丁寧に彩色された作品で、個人的にはルーペ(p_-)片手に鑑賞したい作品です。

おまけ🍭
現在、当館で展示中の「徳川十六将図幅」(山梨県立博物館所蔵)
こちらは、江戸時代中頃に活躍した狩野派の絵師、狩野柳雪(1647?−1712)の作。
狩野派といえば、室町から江戸にかけて日本絵画史上最大の画派。
金泥✨もふんだんな障壁画のイメージですが、あらゆる分野の絵画を制作しました。
江戸時代の狩野派は、旗本同格の「奥絵師」四家を頂点に、
「表絵師」十二または十五家、そして「町狩野」と明確に格付けされていましたが、
「表絵師」の柳雪は、京都御所や江戸城の障壁画などを手がけました。
その他の柳雪作品は、仁和寺(京都府)や大英博物館などにも所蔵されています・・・。

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