一部都府県の緊急事態宣言、山梨県も複数の自治体が、まん延防止等重点措置の適用で、
武田神社、当館のまわりも、さらに静かになりました。
そうなると・・のびのび、のんびり、しちゃうんです🐈
警戒して、こちらから目を離さないけれど、
でも、どっかで「だいじょうぶ」と思っているお顔😉
そして、こっちにも🐈💤
・・・
猫さんたちの、のびのび~にかこつけて、
当館、常設展示室で繰り広げられている「武田二十四将 ドラフト会議」で、
ちょっと「のびしろ」を感じる武将をおひとり、ご紹介。
その名も、仁科盛信。
昨年度の「24将総選挙!」ではエントリーのなかった武将ですが、
今回は、武田家御一門衆が集結する「本陣」に堂々エントリー。
初出馬ながらも、本陣の名だたる武将の中でも、勝頼公、武田信繁、かわらけ君に続き第4位!
仁科盛信(弘治3年(1557)~天正10年(1582))は、信玄公の5男。母は油川夫人。
同じ母を持つ弟妹に、葛山信貞(こちらも「本陣」グループにエントリー)、
松姫(織田信忠婚約者)、菊姫(上杉景勝正室) がいらっしゃいます。
信濃国安曇郡の仁科氏を継承。
御一門衆として、大事な越後国との国境警備を担いますが、
信玄公の死後、勝頼公の下では、織田・徳川勢の再編成など厳しい情勢の中、
天正9年(1581)、それまでの城に加え、高遠城(長野県伊那市)の城主になります。
天正10年(1582)、信長嫡男・信忠が開城するよう勧告しますが拒否。
5万もの織田軍の猛攻を受け、激戦の末、自刃します。享年26。
御一門含め、寝返り、逃亡が後を絶たなかったこのとき、最後まで奮闘した若き武将です。
ちなみに、同母妹で、信忠の許嫁だった松姫を庇護し、高遠城から新府城に逃したのも兄、盛信。
松姫は、その後、勝頼公一行と別行動をとり、武蔵国多摩郡(東京都八王子市)に逃れたとか。
盛信は長野県の県歌の中で、土地の著名人として挙げられたり、
県歌では「信盛」だけど、別の書籍には「盛信」だったり、
改名したの(!?)どっちなの(!?)と静かな議論を呼んでいたり、
当館にも、(とってもまれですが)「盛信ファン」が飛び込んできたり。
そんな息の長い人気が、当館の「武田二十四将 ドラフト会議」の投票にも表れているのかも・・しれません。
・・・
あれ!?
ここは、旧堀田古城園の窓枠のところ。
こんなところでも、大胆気ままにのびのびしちゃってます。
猫🐈ですね~。
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