武田信玄公ご生誕500年記念の特別展示にご協力いただいている大泉寺さんのお話のつづきです。
永正16年(1519)12月、信虎公は川田館(甲府市)から、躑躅が崎館に転居。
城下町も整備されていき、多くの寺社が創建されますが、中でも、大泉寺の建立がいち早く始められました。
その理由として、信虎公が大泉寺を自身の菩提寺と定めたことや、
禅を大衆にも浸透させたい曹洞宗寺院の社会との関わり方が、
時代のニーズに応えるものだったから(?)など、さまざま考えられます。
水道の蛇口をひねれば24時間いつでも水が出る、ありがたい時代に私たちは生きていますが、
当時の水事情を考えれば、僧侶が灌がいにたずさわったり、水脈を見つけてくれたりするなんて、こんなにありがたい話はなく、
そういう伝承が各地で語り継がれたとしてもふしぎではありません。
大泉寺。その名称にいつわりなし。聖泉の伝説が、信虎公の菩提寺にもあるんです。
それは・・・
甲州太守の嫡男(=信玄公)は、曽我五郎の生まれ変わりだということ。
甲城東(=大泉寺エリア)に「おほいづみといふ池」がある。
ぎゅっと握って生まれた子(後の信玄公)の右手は、その池で洗えばよい。
・・・洗ってみたら、あんなに開かなかった右手がちゃんと開いた!
その手には”目貫”もにぎられていて・・・
「おほいづみといふ池」の存在を教えたのは誰だったのか。
それは、後に大泉寺を開く天桂禅師が諸行行脚の途上、富士の麓で出会った曽我十郎(兄)の霊!?
十郎は、弟・五郎の生まれ変わりが後の信玄公というの話だけでなく、
自分はまだ修羅の苦しみにあるので、法華経1万部読誦してほしい・・
このことを、信虎公に伝えてほしいと、天桂に先の”目貫”の対を渡して頼んだとか。
まるで謡曲のようですが、曽我十郎、五郎とは、日本三大仇討ちもの「曽我物語」の兄弟のこと。
源頼朝が富士で大規模な巻狩りを行った時、曽我兄弟が父の仇討ちを果たしたという伝説をもとにした物語。
信玄公が曽我兄弟の弟の生まれ変わりという話、実は信虎公も夢の中で聞いたとか。(夢見山の故実)
それがきっかけとなり、もとは真言宗の大川寺を改宗・改称して大泉寺を開いた・・とも伝承されています。
でも、残念ながら「おほいづみといふ池」は、いつの頃か無くなってしまったようなんです・・・。
歴代のお館さまとともに歩み、江戸、明治の神仏分離、廃仏毀釈を乗り越えて、
信虎公の菩提寺として、そして、武田氏に関わる文化財を守り伝えている大泉寺。
当館特別展示室で公開の、大泉寺所蔵の文化財、ラストを飾るのは、
「疣麿」(いぼまろ)という名を持つ、信玄公の茶臼です。
(展示期間:1月1日(土)~1月31日(月))
☆武田氏館跡の御城印も、年末年始は信虎公の「虎」の朱印を
押印させていただいたものをお渡ししております。
寅年の虎朱印御城印、記念にいかがでしょうか?
(明日1月6日(木)まで)
皆さまのご来館をお待ちしております🙇
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます