家康自立の陰に上杉謙信のアシストあり!?

2023-01-21 17:26:36 | 紹介
大河ドラマの各パネル展も来館者の方には概ね好評で、増設した解説も
この週末は多くの方がご来館し、ゆっくりご覧頂いています。
これから武田家人々の登場回数も増え、いずれ激戦を交えていくと思いますので、
今後の展開に期待したいところです。

現在のストーリーは、まだ家康が松平元康を名乗り、ようやく本領の岡崎に帰って
自立を目指すか、引き続き今川家に従うか、どうする家康?という選択の岐路を
描いています。
桶狭間で敗れたとはいえ、冷静に見れば、今川氏の勢力は依然として大きく、
三河国内の情勢も周囲の国衆は、敵か味方かもわからないほど混乱。
そんな状況の中、永禄4年(1561)4月頃に家康が今川氏の勢力下から自立し、
三河一国を治める大名に出世していく背景を諸勢力の動向から見てみます。

今川義元存命時は、武田信玄・北条氏康の3者がお互いの実力を認め、
強固な同盟関係を築いていました。
後顧の憂いがなくなった義元は、永禄元年(1558)に家督を氏真に譲って
自らは三河平定に力を注ぐようになり、永禄3年(1560)5月に2万余の大軍を率いて
三河から尾張方面へ侵攻を開始。
その矢先に桶狭間で織田信長に討たれ、今川勢は総崩れに。
ここで当主の氏真が家臣らの動揺を沈め、体制の立て直しに成功していたら、
今川氏は存続し、家康は独立の道を選ばなかったのかもしれません。
ですが、今川氏真の資質の問題だけでなく、
家康が決断に至った背景には
諸大名の動向も大きく影響を及ぼしていた可能性があります。


義元の死後、永禄3年8月には越後の上杉謙信が関東へ遠征し、北関東の諸勢力を
従えながら南下して、永禄4年3月には北条氏本拠の小田原を包囲しました。
そして、その動きに呼応して、北条氏救援のために武田氏・今川氏も援軍を送り、
武田勢は北信濃で上杉方の城を攻略するなど、後背を脅かして牽制しました。
今川氏も桶狭間の敗戦で自領国が不安定化した中でも援軍を送っていたようです。
こうして同盟者たちが上杉謙信への対応に追われ、今川氏を救援する
余力がない間隙を突いて、家康は独立へ向けて着々と行動していったようです。

桶狭間の戦いでの今川義元の討死に端を発し、
三国同盟の一画が崩れた隙を見逃さずに仕掛けた
上杉謙信の隠れたアシストによって、
家康は、天下人への第一歩となる三河国平定の地固めができたのかもしれません。
さらに後の時代には、その上杉家討伐が発端となった関ヶ原の戦いでの家康勝利
により、徳川の天下がほぼ確定することに。
そこまで考えると、上杉家は家康の天下取りの第一歩と確定をアシストした
隠れた功労者になるのではないかと・・・。
奇妙な巡り合わせですが、未発表の上杉謙信や北条氏康などの諸勢力は、
今後、どなたが配役で出演され、どのように関わってくるのか楽しみです。


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大河ドラマ関連パネル展増設

2023-01-19 14:43:15 | 紹介
先日から大河ドラマに関するパネル展のご紹介をしてきました。
おかげさまで、出演者の等身大パネル展の前では連日、写真撮影会が絶えません。

出演者パネルは自由に撮影いただけますので、パネルに触らないよう気をつけて、
遠慮なくご一緒に撮影してください。

そして、昨日から展示がさらにパワーアップ。
NHK 甲府放送局様のご提供により、
新たに大河ドラマの始まりや概要、登場人物相関図、制作秘話などをご紹介した
解説パネルを常設展示室に増設しました。


パネルは全部で6枚。
常設展示室入口側から、
①ドラマ初回のストーリー概要
②主演松本潤さんのフォトと今回の家康像の設定
③登場する徳川家の人々、その演者さんの紹介
④徳川家と関係する勢力、今川・織田・武田勢の演者さんの紹介
⑤制作側の人物の描き方や見どころなど
⑥制作秘話や制作の意図など
「どうする家康」の世界を制作側の思いも感じながらご覧いただき、
楽しく歴史にふれ、他の展示もご覧いただく一助になればと願っております。

当初は、常設展示室で大河ドラマ放送に合わせて、徳川家康との関係を武田側の
出来事を中心に紹介する武田家視点のパネル展でスタートしましたが、
そんなこんなで、展示物が後から諸々充実してきまして、今ではミニ大河ドラマ館の
様相を呈してきました。
今回は徳川家康が主人公で、その生涯を描くストーリーですが、
家康という人物を描く上で武田信玄・勝頼との関係は無視できません。
作品を通じて少しでも武田氏の歴史、武田氏三代が居住していた館跡についても
興味を持っていただければ幸いです。
もちろん、史跡武田氏館跡を語る上でも徳川氏領国下の歴史を語らないわけには
行きませんので、この先の展開で武田宗家が滅び、家康が甲斐国を治め、
甲斐国がどうなっていったのか、あるいは、武田家臣団はどうなったのか、
今後、家康時代の甲斐国、そして館跡についてもご紹介できればと思っています。



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兜はお守りでもあり、「私」でもある!? 

2023-01-18 14:28:19 | 紹介
徳川家康を主人公とした大河ドラマが始まり、信玄ミュージアムでも出演者の
パネル展などを始めました。

ドラマは、家康がかわいい瀬名と結婚して、子どもをもうけ、
あっという間に、桶狭間の戦いの前哨戦(永禄3・1560年)に突入。
この時、御年19才。ヘルメットのような金のカブトがとても印象的でした。
頭のラインに沿った頭形兜(ずなりかぶと)は
平安末期には既に存在したそうですが、
室町時代末期になると、鑓や鉄砲への衝撃にも耐えられるように進化。

ドラマにも登場した、金をふんだんに使ったあの甲冑は、
金陀美具足(きんだみぐそく)または金溜塗(きんためぬり)具足と呼ばれ、
今日、重要文化財にも指定され、静岡県の久能山東照宮博物館に所蔵されています。
ちなみに、実物は、2015年に東京国立博物館で、1年かけて修復されたようです。

渋めに輝く金色は、漆を塗った後、金粉、または金箔を施した上で、
透明の漆を重ね塗る「溜塗」の技法によるもの。
漆は透明とはいえ、本来の茶褐色がプラスされるため、金ピカになりません。

19才の家康が、どんな気持ちで、あのカブトをかぶり、出陣したのか・・・
華麗な甲冑は、自らの存在を、周囲に知らしめると同時に誇示するもの。
更に言ってしまえば、死装束です。
年齢・経験問わず、どの武将も甲冑に特別な思いを寄せていたに違いありません。

それをストレートに(!?)表現しているのが、戦国ならではの「変わり兜」。

兜のモチーフは、ビッグサイズの毛虫、ウサギ、ナマズ、タコ、エビ、サザエなどなど。
断崖の「一ノ谷」はかなり個性的ですが、まだまだ驚くなかれ。
上杉謙信の兜は「三宝荒神」のお顔だったようですし、
煩悩を打ち砕く金剛杵(こんごうしょ)を握り、天に突き上げられた「拳」もあって、
被ったが最後、大きすぎて動けないよね(゜o゜;という「麒麟」の前立て付き兜まで様々。

変わり兜は、個性炸裂、面白いこと間違い無し。
でも、多分、当時は大真面目に兜が考案され、
武将の皆さまそれぞれに、自らを支え鼓舞してくれるものを、
兜で表現されたのではないかと思います。
家康もまたしかり。

☆「歯朶(しだ)具足」
家康が、関ヶ原の戦いや大阪冬の陣でも用いた、徳川家「吉祥の具足」。
財福の大黒天の「大黒頭巾」型兜+薬用植物のシダの葉形の前立てです。
家康の夢に出てきた甲冑・・・ということで「御夢想形」とも呼ばれます。
通常より、鉄に厚みがあり、当時の具足は15kg前後でしたが、こちらは22kg。

収蔵されている甲冑は、「歯朶具足」を模した「貫衆(=シダ)具足」と呼ばれるもので、
御神体にも準ずる(!)として、四代将軍の命で、久能山東照宮に納められたもの。

☆「諏訪法性兜(すわほっしょうのかぶと)」
信玄公が使用したと伝承される、前立てに金色の角をもつ獅噛、
頭頂部から後頭部にかけ、ヤクの白い毛があしらわれたもの。
ヤクは牛科の動物で、黒く長い毛が特徴ですが、
この兜に使用されたのは、チベット地方に生息する、全身が金白色のヤクの毛。
海外から取り寄せた素材というだけで、背景の財力を感じさせます。

兜の名の「諏訪」は、信玄公も軍神として崇拝していた諏訪明神のこと。
「法性」とは、仏教用語で「真の姿」あるいは「本来の姿」といった意味。
なので「諏訪法性」とは諏訪明神そのもの。

信玄公は、戦のたびに諏訪大社に戦勝を祈願し、
神の加護を祈ったと言われます。
自らも「諏訪法性兜」をかぶり、
「南無諏訪南宮法性上下大明神」の旗も掲げていますので、
信玄公が諏訪明神を崇敬したのは間違いありません。
『甲陽軍鑑』には、武田軍を守護するために掲げられた、
諏訪明神の神号の「御旗」や、「諏訪法性兜」の記述もあります。
ただ、『甲陽軍鑑』の兜=信玄公の持物(アトリビュート)化している「諏訪法性兜」
・・・かどうかは???のようです。

とは言え、この兜、江戸時代以降、人々が抱いてきた信玄公のイメージそのもの!?
だからこそ、多くの絵画に「諏訪法性兜」の信玄公が描かれ、人気を博したのでしょうね。

「諏訪法性兜」(レプリカ・一部)長野県下諏訪町立諏訪湖博物館所蔵
2021年、信玄公生誕500年の当館特別展示室にて展示させていただきました。

・・・
最後に、信玄公の近習の言葉!?
「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭(とうのかしら)に本多平八」
「唐の頭」は、ヤクの毛をあしらった兜のこと。
本多平八とは本多忠勝のこと。この方の「鹿角脇立兜」もなかなかの存在感です。
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第48回藤村学校「研究発表~今日は新紺屋小学校3年生が先生です!~」

2023-01-17 13:26:08 | イベント

1月16日(日)
甲府市藤村(ふじむら)記念館で
新紺屋小学校3年生が、
地域の歴史などを研究し発表しました。


★舞鶴城のヒミツ
★甲府市の神社・寺・お祭りについて知ろう
★武田信玄の歴史
★新紺屋地区・元紺屋地区について

4班がテーマにそって、担当した内容を発表しました。
今日の生徒は、保護者とご応募いただきました市民です。



歴史は、難しい漢字や専門用語が多くあり
調べるのは大変な作業だったことでしょう。
そして、大勢の前で発表することは
とても緊張したと思います。

新紺屋小学校3年生の頑張りと
明るく元気な声のおかげで
藤村記念館が睦沢学校校舎だった頃の様子を
感じることができました。

素敵な発表をありがとうございました。
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まんまるな神さま 甲州の道祖神

2023-01-16 16:03:44 | 紹介
1月14、または15日の夜、どんど焼きが行われた地域も多いかと思います。
どんど焼きは道祖神のお祭りですが、小正月の行事のひとつでもあります。

鏡開き、そして、その年の稲の出来を占う筒粥(つつがゆ)や雪中田植えが終わって、
正月飾りや縁起物をどんどん燃やす、どんど焼きが行われます。
その時舞われる獅子舞は、疫病退散、悪魔祓いのためですが、
かつては「疫病者予定人名簿」を作り、
村を疫病から守るため、どんど焼きで燃やす地域もあったとか。

現在は、公民館や小学校などの広場で行われることが多いようですが、
道祖神祭りは、道祖神を祀った村の境などの道祖神場であったり、
変わり種としては、江戸時代、大々的に行われた甲府道祖神祭りで、
幕を張った、甲府城下の大通りで行われました。

狂言、大迷路、人々の仮装(!?)による名所風景の再現(!?)など、
現在の道祖神祭りと比べ、かなり様子が異なりますが、
歌川広重なども腕をふるった幕絵を、甲府の大通りの両側を張りめぐらすことで、
結界がはられ、清浄だけど、外に向けて開かれた場が設けられました。
華美さ故に幕府からは禁止令が出ましたが、実際には明治4年(1871)まで続きます。

道祖神祭りは、村や町に関わるあらゆる”良いこと”を願うものであり、
それは、厄払い、家内・村内安全、夫婦和合にとどまらず、
子授け、五穀豊穣、養蚕満足などの繁栄も願うもの。
町の繁栄は当然のことながら大切で、その源は人やモノの流れ、往来ですから、
甲府道祖神祭りの、道をふさがない会場は、案外理にかなったものだったと言えます。

・・・
道祖神信仰は、日本の民俗信仰のひとつ。
道祖神は、道の分かれ道、集落の境などに祀られます。
村に繁栄をもたらす村の守り神であると同時に、
災いが村に入り込まないように、さらに道行く人や旅人を災いから守る神さま。
そういう意味で、「通過」を専門とされる神さま・・でもあったのでしょうか。
成人式のような通過儀礼との関わりも指摘されています。

そんな道祖神ですが、どんなお姿をイメージしますか。
石の祠に、男神と女神が寄り添う姿でしょうか。
地域によっては、石碑にわらの神面や、巨大なわら人形でしょうか。

石碑に刻まれる男神女神は、『日本書紀』の一場面で、
天照大御神の孫であるニニギノミコトが高千穂に降臨される時、
道案内をした猿田彦命と天鈿女命(アメノウズメノミコト)が、
後に旅人の守り神、道祖神になったという説。

また、兄妹婚伝承という説も。
これは、伴侶を探しに、それぞれに家を出た兄と妹が、
皮肉にも男女として出会い、互いに惹かれ合い契を結ぶも、
お互いの村に帰る際に、兄と妹であることがわかり、川に身を投げるという伝説。
村人たちが、二人を憐れみ石碑が立てられ、それが道祖神となったとか。

逆に、洪水で二人だけ残った兄と妹が”結婚する”という伝説が起源とも。
これは、一旦滅びた世界が、二人(=始祖)によって再び創造される、
「イザナギとイザナミ」や「ノアの方舟」のような「国生み」伝説に似ているとのこと。
そこから「夫婦結合」、「子孫繁栄」、「五穀豊穣」などにイメージが広がり、
また、兄と妹という関係から、夫婦になるという、関係性の転換が、
「通過」というイメージに発展したのかもしれません。

いずれにしても、道祖神の変遷は案外に複雑💦

・・・
山梨の道祖神は丸石で、県内の約790ヶ所で祀られているとか。
丸石は、形はシンプルですが、山梨ならではの道祖神。
なぜ丸石に道祖神を見たのか!?負けず劣らず謎めいています。
道祖神の圖 『甲斐の落葉』(山中共古)より

人が祀らなければ、ただの石!?
・・かもしれませんが、丸石の形成は未だよくわかっていないようです。
上流から流れ流れて丸みを帯びたものになったのでしょうか。
でも、道祖神と見立てられた丸石は、”まんまる”だったり、たまご型だったり。
この形に至るのマレで、こんなにたくさんの丸石が祀られているのも不思議です。
(中には、人為的に作られた丸石もあります。)
また、火山活動で生まれた溶岩が、長い年月の変遷の末に、
丸石に結晶化する現象もあり、
日本が火山国であることを考えると、ありえなくもない説です。

いずれにせよ、丸石の形成は、自然の驚異であることに違いなく、
人々が、丸石に神さまを感じてお祀りしたとしても、なんの不思議もありません。

また、丸石道祖神が分布する地域は、
いくつかの文化圏が存在する地域であるなどの指摘もあって、
この丸石信仰、一筋縄ではいきません😅 
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