歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

特攻「回天」の島・大津島

2024-08-21 16:07:50 | 山口県
NHK「戦争遺産島」を欠かさず観ている。

先日、録画してあった「大津島 特攻兵器の訓練基地となった島」を
夫と一緒に観た。

夫は、わたしの戦跡めぐりに付き合ってくれはするものの、
基本的に、戦争に関わる番組は観たがらない。

でも「大津島」は特別。
2019年8月に訪ねているからだ。



「回天」の島、大津島
山口県周南市、徳山港から高速艇で20分ほどだっただろうか。
かつて秘密裏に、回天の訓練基地が置かれ、出撃地でもあった。

人間魚雷・回天
全長長14.75m、直径1m、重量8.3t、乗員1名。

本来、魚雷は潜水艦から敵艦めがけて発射されるが
「回天」は人が操縦し、体当たりする、いわゆる特攻兵器だ。

昭和19年11月から20年8月までの間に、大津島他の基地から
出撃し、戦没者140名余(訓練中の事故含む)



2019年の旅では、「周南市回天記念館」の、館内見学はもちろん、
島内の戦跡見学を予約、館長さんに案内していただいた。




館長さんの戦跡案内は、↑回天記念館をスタートし、
回天坂を下る。
当時、現・回天記念館のある場所は、練兵場だった。



住民など外から見えることを警戒し、
↑高い壁が築かれていたことは
番組でも紹介されていた。(通称「地獄の階段」かも)



わたしたちが船を下りて、
まず眺めたのは廃校となった大津島小学校跡の原っぱ。
「回天」の頃は兵舎や炊事棟、整備工場跡などが置かれていた。

(番組を観なが「記念館には、ここを上っていったね」と
記憶が蘇ってくる。)




館長さんの案内で「訓練基地までのトンネル」にすすむ。

ここは見学時、一番、わたしが印象に残っていた戦跡だ。

長さ247m、高さ4m、あまりにもきちんとした作りで驚いたのだ。
なんと8tもある回天は人力で運んでいたという。
今も、運搬に使っていたトロッコのレールの跡は、
埋め戻してあるものの、その跡が、はっきりと残っていた。



トンネルを抜けると、回天訓練基地(魚雷発射試験場)が見えてくる。
基地として使っていた頃は、このプラットフォームに
金属製の屋根で覆われていたという。



もともとは、回天の原型である「酸素魚雷」の発射試験場なので
今も発射口が遺っている。


ここまでは、番組のおさらい。


今朝、あらためて、記念館で買い求めた
「回天記念館と人間魚雷『回天』」
(周南市回天記念館開館50周年記念誌)に目を通した。

ありゃ!

思わず声を上げたのは、誌上に岩井忠正さんを見つけたからだ。

岩井さんは「私と『回天』、回天記念館」にお写真と共に
文章を寄せられている3人のうちのおひとりだった。

岩井忠正(1920ー2022)さんは、
慶應義塾から学徒出陣し、海軍に入隊、
特殊兵器・搭乗員募集に応じた、元搭乗員だ。

忠正さんの弟・忠熊さんも、京都大学から学徒出陣しており、
ご兄弟は、拙ブログにも、たびたび登場なさっている。



わたしが岩井ご兄弟を知ったのは、↑この書籍などを読んだ、
ここ数年のことだと思っていたが、
実は、回天記念館の、この冊子から知っていたことになる。

冊子には、岩井さんが回天を目にしたとき
「これが貴様達の棺桶だ」と、上官に言われゾッとしたという
エピソードが掲載されている。

「どうしてあの戦争に反対しなかったのか、
わたしの戦争責任だ」
「遺筆や遺書は、家族を不安がらせないため、自身を説得、励ますもの。
そのように見て下さい」10頁

ああ、最晩年の岩井さんがおっしゃっていたことが
ここでも述べられていることに、いまさらながら気づく。


岩井さんが訓練を受けたのは、大津島ではなく
山口県の光基地だった。
ここへ訪ねてきたのが、同じ慶應の学生だった、塚本太郎だ。

塚本は、面識がないにもかかわらず岩井忠正さんに会うため
訓練中の大津島から光基地へとやってくる。
「私が慶應出身だからだろう」と、晩年の岩井さんはおっしゃっていた。



塚本太郎も、何度も拙ブログに登場している。
あの「声の遺書」ともいえる録音を遺した人物だ。

先週は慶應義塾三田キャンパスの「福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館」で
去年3月、呉市の大和ミュージアムで、太郎の「声の遺書」を
聞いているが、初めて聞いたのは、ここ回天記念館だった。

「声の遺書」の存在に驚き、想い出話から始まる録音は
みんなともっと一緒に暮らしたかった」と言いながらも
最後はまさに「自身を説得、励ます」かのように
勇ましい言葉を述べる。

この落差は本音を隠すための言葉であると思え、
忘れられなかったのだ。 


あらためて先の冊子を見返したら・・・
資料として掲載された当時の新聞にも塚本太郎を見つけた

昭和20年3月24日、海軍省は、それまでの回天隊の概要と戦果を公表、
翌日、新聞各社は、これを一面トップで搭乗員の顔写真とプロフィールを
掲載していたからだ。

当時は、回天に搭乗した(つまり戦没の)士官および准士官クラスは、
二階級特進が勅令で決まっており、布告することも勅令で決まっていたので
新聞に掲載されたのである。

塚本太郎は、予備学生だったので、少尉から大尉へと進級している。



言い訳になるが、こういったことに気づかなかったのは
当時は、いまほど、歴史に関心があったわけではないからだ。
歴史は好きだったが・・・ここまでではなかった。

まさか、自分がこれほど歴史にのめり込むとは
当時の自分が知ったら驚くはずだ。

もし、今、回天の島を訪ねたら、もっと貪欲に吸収し、
理解も深められるだろうに・・・残念。


ともかく、番組をきっかけに、
あらためて「回天」について考えることができたことは
満足している。

************
おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
以下の資料を参考にまとめましたが、
間違いや勘違いもあるかもしれません。
素人のブログと言うことで、お許し下さい。

参考:
周南市地域振興部文化スポーツ課編集
「回天記念館と人間魚雷『回天』」(周南市回天記念館開館50周年記念誌)
平成31年3月初版

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