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NHK「戦争遺産島」を欠かさず観ている。
先日、録画してあった「大津島 特攻兵器の訓練基地となった島」を
夫と一緒に観た。
夫は、わたしの戦跡めぐりに付き合ってくれはするものの、
基本的に、戦争に関わる番組は観たがらない。
でも「大津島」は特別。
2019年8月に訪ねているからだ。
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「回天」の島、大津島。
山口県周南市、徳山港から高速艇で20分ほどだっただろうか。
かつて秘密裏に、回天の訓練基地が置かれ、出撃地でもあった。
人間魚雷・回天。
全長長14.75m、直径1m、重量8.3t、乗員1名。
本来、魚雷は潜水艦から敵艦めがけて発射されるが
「回天」は人が操縦し、体当たりする、いわゆる特攻兵器だ。
昭和19年11月から20年8月までの間に、大津島他の基地から
出撃し、戦没者140名余(訓練中の事故含む)
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2019年の旅では、「周南市回天記念館」の、館内見学はもちろん、
島内の戦跡見学を予約、館長さんに案内していただいた。
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館長さんの戦跡案内は、↑回天記念館をスタートし、
回天坂を下る。
当時、現・回天記念館のある場所は、練兵場だった。
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住民など外から見えることを警戒し、
↑高い壁が築かれていたことは
番組でも紹介されていた。(通称「地獄の階段」かも)
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わたしたちが船を下りて、
まず眺めたのは廃校となった大津島小学校跡の原っぱ。
「回天」の頃は兵舎や炊事棟、整備工場跡などが置かれていた。
(番組を観なが「記念館には、ここを上っていったね」と
記憶が蘇ってくる。)
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館長さんの案内で「訓練基地までのトンネル」にすすむ。
ここは見学時、一番、わたしが印象に残っていた戦跡だ。
長さ247m、高さ4m、あまりにもきちんとした作りで驚いたのだ。
なんと8tもある回天は人力で運んでいたという。
今も、運搬に使っていたトロッコのレールの跡は、
埋め戻してあるものの、その跡が、はっきりと残っていた。
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トンネルを抜けると、回天訓練基地(魚雷発射試験場)が見えてくる。
基地として使っていた頃は、このプラットフォームに
金属製の屋根で覆われていたという。
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もともとは、回天の原型である「酸素魚雷」の発射試験場なので
今も発射口が遺っている。
ここまでは、番組のおさらい。
今朝、あらためて、記念館で買い求めた
「回天記念館と人間魚雷『回天』」
(周南市回天記念館開館50周年記念誌)に目を通した。
ありゃ!
思わず声を上げたのは、誌上に岩井忠正さんを見つけたからだ。
岩井さんは「私と『回天』、回天記念館」にお写真と共に
文章を寄せられている3人のうちのおひとりだった。
岩井忠正(1920ー2022)さんは、
慶應義塾から学徒出陣し、海軍に入隊、
特殊兵器・搭乗員募集に応じた、元搭乗員だ。
忠正さんの弟・忠熊さんも、京都大学から学徒出陣しており、
ご兄弟は、拙ブログにも、たびたび登場なさっている。
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わたしが岩井ご兄弟を知ったのは、↑この書籍などを読んだ、
ここ数年のことだと思っていたが、
実は、回天記念館の、この冊子から知っていたことになる。
冊子には、岩井さんが回天を目にしたとき
「これが貴様達の棺桶だ」と、上官に言われゾッとしたという
エピソードが掲載されている。
「どうしてあの戦争に反対しなかったのか、
わたしの戦争責任だ」
「遺筆や遺書は、家族を不安がらせないため、自身を説得、励ますもの。
そのように見て下さい」10頁
ああ、最晩年の岩井さんがおっしゃっていたことが
ここでも述べられていることに、いまさらながら気づく。
岩井さんが訓練を受けたのは、大津島ではなく
山口県の光基地だった。
ここへ訪ねてきたのが、同じ慶應の学生だった、塚本太郎だ。
塚本は、面識がないにもかかわらず、岩井忠正さんに会うため、
訓練中の大津島から光基地へとやってくる。
「私が慶應出身だからだろう」と、晩年の岩井さんはおっしゃっていた。
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塚本太郎も、何度も拙ブログに登場している。
あの「声の遺書」ともいえる録音を遺した人物だ。
先週は慶應義塾三田キャンパスの「福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館」で
去年3月、呉市の大和ミュージアムで、太郎の「声の遺書」を
聞いているが、初めて聞いたのは、ここ回天記念館だった。
「声の遺書」の存在に驚き、想い出話から始まる録音は
「みんなともっと一緒に暮らしたかった」と言いながらも
最後はまさに「自身を説得、励ます」かのように
勇ましい言葉を述べる。
この落差は本音を隠すための言葉であると思え、
忘れられなかったのだ。
あらためて先の冊子を見返したら・・・
資料として掲載された当時の新聞にも塚本太郎を見つけた。
昭和20年3月24日、海軍省は、それまでの回天隊の概要と戦果を公表、
翌日、新聞各社は、これを一面トップで搭乗員の顔写真とプロフィールを
掲載していたからだ。
当時は、回天に搭乗した(つまり戦没の)士官および准士官クラスは、
二階級特進が勅令で決まっており、布告することも勅令で決まっていたので
新聞に掲載されたのである。
塚本太郎は、予備学生だったので、少尉から大尉へと進級している。
言い訳になるが、こういったことに気づかなかったのは
当時は、いまほど、歴史に関心があったわけではないからだ。
歴史は好きだったが・・・ここまでではなかった。
まさか、自分がこれほど歴史にのめり込むとは
当時の自分が知ったら驚くはずだ。
もし、今、回天の島を訪ねたら、もっと貪欲に吸収し、
理解も深められるだろうに・・・残念。
ともかく、番組をきっかけに、
あらためて「回天」について考えることができたことは
満足している。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
以下の資料を参考にまとめましたが、
間違いや勘違いもあるかもしれません。
素人のブログと言うことで、お許し下さい。
参考:
周南市地域振興部文化スポーツ課編集
「回天記念館と人間魚雷『回天』」(周南市回天記念館開館50周年記念誌)
平成31年3月初版