歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

「モノから人へ」~後期展示

2024-08-20 16:44:05 | 東京都

前期(→過去記事)に続き、後期の展示を観てきた。



私の感覚だが、後期の展示の方が胸に迫り、より印象的だった。

前期が「大学と戦争」のあゆみを、そのときどきを象徴する
用語やモノから「人」を語らせる展示だったのに対し、
後期は、もっとモノと人が密というか、
早い話が、モノから人を想像しやすいのだ。
その分、人の想いが直接に迫り、苦しかったともいえる。



展示のはじめに「後期展示の見方」が掲げられていた。

「...ここに並んだモノは...添えられたキャプションがなくなったとき、
ただの汚い紙切れになり、単なる石ころになります。
 この空間では、ひとつの有体物としての“モノ”を意識し、
その背後にいた人を想像して下さい...」


キャプションが絶妙なのか、
モノと共に人がたちのぼる。胸が痛い。

たとえば、「39遺書」

前記事でも、遺書に本心は書けなかったとの証言に触れたが
ここでは「命により遺書を書くことになりました」と
はっきり書かれた「39-01軍命で書かされた遺書」を見る。



少しも深刻な気持ちになれない」彼は
ただ次郎という者があった」ことだけを「家の記録」に残すよう伝え
この遺書の届いた翌月、昭和19年サイパンで戦死する。

彼と同じように学徒出陣で出征した兵士の多くが、
まだ訓練を受けていた頃のことだった。




声の遺書ともいうべき、音声を残した者もいる。
塚本太郎・・・

僕はみんなと一緒に暮らしたいんだ」と言いながらも、
2分半の録音を「みんなさようなら。元気で征(い)きます」と
締めくくっている。

父親のスタジオで録音したという「声の遺書」だ。

山口の回天記念館で初めて聞き、
呉の大和ミュージアムでも聞いた、
慶應義塾の学徒出陣兵だ。

それだけに、塚本太郎には強く惹かれている。

水球部で活躍したという太郎、
今回は学生服の姿と共に家族写真も展示されていた。



別の資料だが、特攻出撃命令が間近に迫る頃、
同じ慶應出身の故・岩井忠正氏を面識もないのに
太郎が訪ねていたことを知った。

同じ慶應出身だからではなかったか」と、
生き残った忠正氏は、後に語っている。

慶應に限らず、同じ学校の学生への想いは
学徒兵には、いっそうつよかったのだろう。


その他、ひとつひとつのモノから立ち上る人、人・・・

「後期展示の見方」によると、
「この体験を通し、戦争を多面的に感じ、考え続けること、
それこそが戦争の歴史に学び続ける
『モノから人』への営為ではないか」と・・・

まさしく。

最後に、学徒出陣後、無事に戻り、戦後日本で活躍した人に
ゆかりの「モノ」を・・・


35.特攻」より「写真 飛行服姿の石川忠雄」。


石川(1922-2007)は、慶應商業学校(夜学)から
高等部を経て、経済学部に学んだという珍しい経歴を持つ。
終戦時は、特攻出撃命令の待機中だったという。

昭和52年から平成5年、慶應義塾長を務めた。(1922生-2007没)


「38.遺影」より「古屋眞二肖像画」。


古屋は昭和18年の卒業後、昭和20年5月に特攻死している。

三島由紀夫は、あの事件を起こす一ヶ月前に
江田島の教育参考館を訪れ、古屋の遺書に号泣したという。

戦後、この肖像画を書いたのは、藤城清治である。
藤城は、古屋の弟と慶應普通部時代からの親友で、
依頼されたという。

影絵作家として、今も活躍を続ける藤代は、
広島をはじめ戦争関連の作品は元より、
3.11をテーマに作品をも描き続けている。

藤城自身も、慶應予科から海軍予備学生となり、
終戦時は、九十九里浜の沿岸警備
(本土決戦に備えていたのだろう)にあたっていた。

それを思えば、100歳を迎えた現在の活動が腑に落ちる。


まだまだ続けたい内容なのだが、
きりがないので、この辺で。
またの機会にまとめたい。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
展示のキャプションを元にまとめましたが、
思い違いや間違いがあるかもしれません。
素人の備忘録と言うことで、どうぞお許しください。

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