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慶應義塾大学三田キャンパス、
「福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館」の2024年度春期企画展は
「慶應義塾と戦争ーーモノから人へーー」。
「福澤諭吉記念 慶應義塾史展示館」の2024年度春期企画展は
「慶應義塾と戦争ーーモノから人へーー」。
前期(→過去記事)に続き、後期の展示を観てきた。
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私の感覚だが、後期の展示の方が胸に迫り、より印象的だった。
前期が「大学と戦争」のあゆみを、そのときどきを象徴する
用語やモノから「人」を語らせる展示だったのに対し、
後期は、もっとモノと人が密というか、
早い話が、モノから人を想像しやすいのだ。
その分、人の想いが直接に迫り、苦しかったともいえる。
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展示のはじめに「後期展示の見方」が掲げられていた。
「...ここに並んだモノは...添えられたキャプションがなくなったとき、
ただの汚い紙切れになり、単なる石ころになります。
この空間では、ひとつの有体物としての“モノ”を意識し、
その背後にいた人を想像して下さい...」
キャプションが絶妙なのか、
モノと共に人がたちのぼる。胸が痛い。
たとえば、「39遺書」
前記事でも、遺書に本心は書けなかったとの証言に触れたが
ここでは「命により遺書を書くことになりました」と
はっきり書かれた「39-01.軍命で書かされた遺書」を見る。
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「少しも深刻な気持ちになれない」彼は
「ただ次郎という者があった」ことだけを「家の記録」に残すよう伝え
この遺書の届いた翌月、昭和19年サイパンで戦死する。
彼と同じように学徒出陣で出征した兵士の多くが、
まだ訓練を受けていた頃のことだった。
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声の遺書ともいうべき、音声を残した者もいる。
塚本太郎・・・
「僕はみんなと一緒に暮らしたいんだ」と言いながらも、
2分半の録音を「みんなさようなら。元気で征(い)きます」と
締めくくっている。
父親のスタジオで録音したという「声の遺書」だ。
山口の回天記念館で初めて聞き、
呉の大和ミュージアムでも聞いた、
慶應義塾の学徒出陣兵だ。
それだけに、塚本太郎には強く惹かれている。
水球部で活躍したという太郎、
今回は学生服の姿と共に家族写真も展示されていた。
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別の資料だが、特攻出撃命令が間近に迫る頃、
同じ慶應出身の故・岩井忠正氏を面識もないのに
太郎が訪ねていたことを知った。
「同じ慶應出身だからではなかったか」と、
生き残った忠正氏は、後に語っている。
慶應に限らず、同じ学校の学生への想いは
学徒兵には、いっそうつよかったのだろう。
その他、ひとつひとつのモノから立ち上る人、人・・・
「後期展示の見方」によると、
「この体験を通し、戦争を多面的に感じ、考え続けること、
それこそが戦争の歴史に学び続ける
『モノから人』への営為ではないか」と・・・
まさしく。
最後に、学徒出陣後、無事に戻り、戦後日本で活躍した人に
ゆかりの「モノ」を・・・
「35.特攻」より「写真 飛行服姿の石川忠雄」。
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石川(1922-2007)は、慶應商業学校(夜学)から
高等部を経て、経済学部に学んだという珍しい経歴を持つ。
終戦時は、特攻出撃命令の待機中だったという。
昭和52年から平成5年、慶應義塾長を務めた。(1922生-2007没)
「38.遺影」より「古屋眞二肖像画」。
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古屋は昭和18年の卒業後、昭和20年5月に特攻死している。
三島由紀夫は、あの事件を起こす一ヶ月前に
江田島の教育参考館を訪れ、古屋の遺書に号泣したという。
戦後、この肖像画を書いたのは、藤城清治である。
藤城は、古屋の弟と慶應普通部時代からの親友で、
依頼されたという。
影絵作家として、今も活躍を続ける藤代は、
広島をはじめ戦争関連の作品は元より、
3.11をテーマに作品をも描き続けている。
藤城自身も、慶應予科から海軍予備学生となり、
終戦時は、九十九里浜の沿岸警備
(本土決戦に備えていたのだろう)にあたっていた。
それを思えば、100歳を迎えた現在の活動が腑に落ちる。
まだまだ続けたい内容なのだが、
きりがないので、この辺で。
またの機会にまとめたい。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
展示のキャプションを元にまとめましたが、
思い違いや間違いがあるかもしれません。
素人の備忘録と言うことで、どうぞお許しください。