憧れている歴史学者の先生とめぐる、
「岡崎、家康公の人生の岐路めぐり」バスツアー。
最初の観光ポイントは大樹寺。
徳川家・松平家の菩提寺だ。
まちがいなく「家康の頃にも存在」と、先生が太鼓判を押す、
大樹寺、多宝塔(国重要文化財)。
とても、一介の国衆レベルでは造れない、立派な建築物。
家康の祖父、松平第七代・清康が武力によって三河を統一し、
力を持っていた証。
家康が、今川に「人質」として出された時、
今川の都・駿河に連れて行かれたことからして既に別格の扱い。
将来、今川一門を担う、重要な存在として将来を
嘱望されていたからだろうとのこと。
だからこそ今川義元も重臣・関口家の瀬名姫(築山殿)と
娶せたのだもんね。
全ては、祖父・清康の存在があったからこその
家康への優遇なのだとか。
さて多宝塔の心柱には「世良田清康」と刻まれていたとのこと。
清康は松平ではなかったのか?
「世良田」姓は、あの新田の流れを汲む名門。
新田と言えば、足利と並ぶ源氏の一門だ。
どうやら、清康の先祖・松平家に「世良田」を名乗る人物がいたらしい。
こうして、祖父・清康の時代から「新田」の末裔と名乗ることで、
ライバル吉良家(末裔に吉良上野介も)との差別化をはかったのだろう。
では、いつから徳川になったのかというと、
近衛前久(コノエサキヒサ)の手紙に
「松平では任官できないから、徳川と名乗るよう」と
アドバイスがあったとのこと。
先生も、最近、初めてご覧になった貴重な史料と、おっしゃる。
そもそも、徳川というのは、
本来、将軍職を譲られた秀忠と、
晩年に誕生した二人の男児(溺愛♥)にしか許されない名字だった。
嫡男は自刃の時点では「松平信康」だ。
ここに、当時は歴然たる区別があったとのこと。
この寺には、松平徳川両家のお墓だけでなく、
お位牌も安置されている。(撮影不可)
家康公のお位牌は身長に合わせて作られたそうだ。
尾張名古屋の初代藩主・徳川義直公が望まれてのこと・・・
これにならって代々の将軍の位牌は等身大のサイズとされるが・・・
それは伝承ということらしい。
だいたい、ご遺体が、そのまま大樹寺に送られるとは考えられず、
お骨になってからだろうしね・・・
そして、大樹寺と言えば、わすれちゃならない、
「厭離穢土(オンリエド)欣求浄土(ゴングジョウド)」。
「土」に「点」がつくかどうかは大問題なのだそうだが、
ここでは先に進むw
これは家康公の旗印でもある。
桶狭間の合戦で、若き日の家康公が岡崎・大樹寺へ逃げ帰り、
先祖の墓前で自刃を図ろうとした。
そのとき大樹寺の住職である登誉上人が
この言葉を教え「戦国の世から、泰平の世を」と諭したとされる。
大河ドラマ「どうする家康」では、
杉野遥亮さんが演じる榊原康政に、
この役を持って行かれてしまったけれど・・・w
大樹寺は、家康公の人生の岐路となった、大事な寺なのだ。
そして、ここで、見るのを楽しみにしていたのがビスタライン。
ご覧になれるかな?(↑)(↓)
遠くに見えるのが岡崎城。
大樹寺から岡崎城までの約3㎞には、今も高い建物がないから
見ることができるのだ。
家康公の孫、三代将軍家光が、祖父の17回忌で
大樹寺の伽藍を造営するとき
「祖父生誕の地(岡崎城)を望めるように」と考えられ、伽藍を配置。
以来400年近く、その想いが受け継がれているとのこと。
さすが、岡崎!!
家康公の孫、三代将軍家光が、祖父の17回忌で
大樹寺の伽藍を造営するとき
「祖父生誕の地(岡崎城)を望めるように」と考えられ、伽藍を配置。
以来400年近く、その想いが受け継がれているとのこと。
さすが、岡崎!!
だが、さしもの大樹寺も、明治維新で、幕府からの財政支援を喪った。
その良い例が、境内の一角に
明治6(1873)年小学校(現・大樹寺小学校↑)が開校したことだろう。
前年の明治5(1872)年の学制頒布を受けているから
全国的に、明治6年開校という小学校は多いはず、
お近くにも、今年開校150周年という学校がおありでは?
お近くにも、今年開校150周年という学校がおありでは?
とにかく、明治になって6年、
徳川の世が終わったとは言え、徳川の菩提寺が削られるわけで・・・
「神君・家康公、生誕の地」の誇り高き岡崎の民は
どんな想いだったのだろう?
当時、引き続きビスタラインが守られ、
今も、その伝統が生きていることこそ、答えのような気がする。
・・・ということで、備忘録のつもりで書いている、
家康公・人生の岐路をめぐる、バスツアー旅行記、第一弾、
これにて幕引きとあいなり候。
★岡崎市民の皆さま、勝手なことを書き連ねたこと、
どうぞ、お許しあれ。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
いただいたパンフレットやご説明を必死で記録したメモを
元に記事にしております。
間違いや勘違いもあるかと存じますが、
素人と言うことで、ご容赦を。
だいじゅうじ、地元ではそう呼びます。
テレビ番組でだいじゅじと「う」抜きで紹介されて、
正式にはそう呼ぶんだと初めて知ったと同時に、違和感も感じました。
岡崎の発音記事を前に書かれていましたが、「か」にアクセントが
あるのが標準語と知ったときも、かなりの違和感でした。
もっとも、今は岡崎を離れて50年以上経って、あまり気にならなくなりました。
ビスタラインを知ったのは数年前のテレビ番組ででした。やはり一度確認して
おきたいですね。
続き楽しみです。
なんて嬉しいコメント!
ご出身のsyuuさんから、こんなお言葉をいただけると
何やらホッとして、励みになります。
どうぞ、これからもご意見などお聞かせいただければ都存じます。
ああ、やっぱり、アクセントには違和感がおありだったのですね。
小田原のシンポジウムでも、各先生方がアクセントを岡崎流に言い直していらっしゃいました。
「どうする家康」の流れになっているんでしょうね。
家康公の出身・三河に敬意を払って♫
「だいじゅうじ」の発音も、ありがとうございます。
地元ならではの発音ってありますよね、横浜の私ですらありますものね。
そういったお話が大好きです。
とはいえ、今やsyuuさんは、すっかり東京の素敵なおじさま、
松本にもお詳しい方でいらっしゃいますけれどね~~♫