1月26日付「読売新聞」の横浜版。(冒頭画像)
「『青線』からアートへ」という連載が始まった。
その中で担当する24歳の女性記者が書いている。
「街を彩るアートにひかれて取材を始めてみたら、
何とこの街は、終戦間もない頃には
非合法の『青線地帯』だったという」
・・・ええ、知らなかったの!?
新聞記者さんでも・・・?
生まれも育ちもハマっ子のわたしは仰天・・・
ああ、でも、それだけ、あの街が変わったということなら
喜ばしいことなのかな、とも思う。
時の流れのフィルターを通して、街の歴史を知る。
それは一方で大事なことなのかもしれない・・・と、
いうことで、わたしのわずかばかりの記憶をメモしておく。
2000年代はじめ、関西への転居転勤から戻ることとなり、
横浜で、借り上げ社宅の物件を探したときのこと。
会社を通し、何軒かの不動産業者から
紹介されたマンションを見て歩いていた。
条件は横浜駅へのアクセスが良い私鉄沿線の駅近物件・・・
そのなかに、偶然、
別々の会社が同じマンションの物件を紹介していた。
ここ、いいね!
二人揃って、第一候補にした物件の最寄り駅は
京急(京浜急行)の黄金町駅。
さっそく、不動産会社に連絡をとると、
そのマンションの内覧を体よく断られた。
もう一社が同じマンションを紹介してくれるからと
深く考えず、そのマンションを内見した。
確かに駅近物件、間取りも悪くなく、部屋もまあまあ・・・
ただ、気になったのは、エントランスの各部屋のポストに
名前が表示されていないこと。
令和の今ならアルアルかもしれないが、
当時は、少々異様に感じられ、住人はワケアリなのか???と
感じてしまった。
マンションに近い路地は小体な店が並ぶが、
ほとんどが営業していない。
これまた一種独特の雰囲気。
ここは第三者の意見を聞こう・・・と
やはりハマッ子である実家の両親に電話をした。
電話に出た母に住所を言うと・・・
「ええっ!?それは止めた方が良いと思うわよ・・・
お父さんに訊いてごらんなさい」と父に代わる。
父は金融関係に長く勤め、たいていどの街にも詳しいからだ。
話を聞くなり父は「・・・青線だぞ、よせ!」と一言。
「青線」。
知識として知っていても、こちらはピンとこない。
夫も同じく。
参考までに言うと、どちらも1946年から1958年までのもの。
売春行為を許容・黙認する特殊飲食店の並ぶ区域が「赤線」、
特殊飲食店の許可をもっていないのに、
売春行為をする店の地域を「青線」という。
さて、これは我が目で確かめるしかないと、
夜、暗くなってから、再び件のマンションを見に行った。
・・・春先、土曜日の夜だった。
さきほどまで閉じてた小さな店は皎々と灯がともっている。
それも、はたらとピンクが目立つ。
店といっても、ほんの一畳ほど。
ああ、これが「ちょんの間」か・・・と、ようやく気づく。
「ちょっとの間に性行為をする」から来た言葉だ。
路地を歩くのは男性ばかり。
女性がいる店先もあるのだが、前を歩く夫を見た後、
後にいる小柄なわたしに気づくと、
女性は、皆、一瞬にして不機嫌な表情を浮かべる。
こちらだって居心地が悪い。
街を歩いていて、あれほど、いたたまれない想いをしたことはない。
素人であるわたしが夫と歩いていたら、
どう見たって、これ見よがしの野次馬だ。
商売の女性にしたら、不快に決まっている。
とにかく逃げるようにして、路地を抜けた。
表通りに出れば、なんのことはない、普通の繁華街なのに・・・
それだけに衝撃的な路地だった。
もちろん、マンションはお断りをしている。
不動産業者も断られるのを見越していたような返事だった。
してみると、もう一社、同じ物件を紹介しつつも
内見をさせなかった業者は、これを見越したか、
はたまた、良心的だったのか・・・。
後日、別のエリアのマンションに引越した。
転居通知を出し、横浜の友人達に
その路地歩きの顛末を話し始めると・・・
駅名を言っただけで、全員が全員、ぎょっとした。
当時は、そんな風潮だったのだ。
冒頭の新聞記事に、娘さんの同級生の親から
「あんな街に遊びに行っちゃダメ」と言われたとのエピソードがあった。
その時代と重なるのだろう。
その後・・・
街では「官民一体となっての悪戦苦闘」があった。
マンション探しから数年後、その近くのミニシアター
「シネマ・ジャック&ベテイ」に通うようになり、
ここまで足を延ばした。
もう、アートの街として「悪戦苦闘」の最中だったのだろうが、
あの夜、わたしが衝撃を受けた街は、なくなっていた。
それから二十年近くの歳月が流れ、
もはや、この記事のように新聞記者さんですら若い人は
「アートの街」として見ているのである。
見事・・・
と言いたいところだが、いくつか。
まず、この街が「悪戦苦闘」を終える頃、
県内のある市へ「洋館見学ツアー」に出かけたときだった。
ガイド氏は言った。
「横浜が追い出したせいで、こっちの繁華街へ移動してきて・・・
街が一気に変わっちゃって、われわれは困っているんですよ」と。
(実際は、もっと激しい言い方をなさったが、ソフトな表現に修正)
それもどうなのだろうか・・・と
横浜市民としては複雑な気分になったものだ。
今、その市が、どうなっているのか、御縁がなく、わからない。
先の新聞記事では、
「環境浄化」を進める女性の言葉が印象に残る。
女性が10代の頃、父と一緒に歩いていたとき、
「青線」の女性が、父に声をかけてきたという。
「年齢を経た今、
ウクライナやガザの映像を見て、あの頃街に立っていた女性たちは
『親を亡くした戦争孤児だったのかもしれない』と
想像することもある」
極限状況で、生きていく術がないとしたら・・・
女性は性を売るしかないのだろうか。
胸が痛む。
もうひとつ。
今、相可文代『ヒロポンと特攻』(論創社)を
読み終えたところなのだが・・・
その中にあった、鹿児島県・鹿屋(かのや)基地の例を思い出した。
鹿屋は、後に海軍の特攻拠点となるが、
それ以前、完成間もない頃の話らしい。
「基地周辺では兵士が近隣の女性を襲う事件がたびたび起きた」ことから
隊長が、鹿児島県警察部長に「赤線」を作るよう頼んできたという。
既に、新しく「赤線」、合法的な遊郭を作ることは難しかったが、
署長は一計を案じ、ダンスホールを作ることにした。
各ダンサーと航空兵が意気投合したら、「別室にご案内」、
つまり「恋愛関係の成立」と、見なす。
売春行為にあたらないというわけだ。
まさに「青線」!
この警察部長は、
敗戦後、警視総監となった坂信弥(さかのぶよし)だ。
占領軍向けのRAA(特殊慰安施設)」の成立にも関わっている。
鹿屋の「ダンスホール」もRAAも同じだ。
「一般の日本女性を守るために『性の防波堤』となる女性を集め...
兵士による『性暴力』をしかたのないことととらえ、
一部の女性を犠牲にするのもやむをえないという
差別意識が根底にあった」109頁
よくわかる。
肝心なのは次だ。
「一般女性の多くも、自らを守られるべき女性側におき、
犠牲になる女性のことは見て見ぬふりをしたのである」112頁
おっしゃる通りだ。
たとえば戦時中、満州からの逃避行の折、
ソ連兵に女性を出すよう脅され、水商売の女性に行ってもらった・・・
というような話をよく聞く。
そもそも、赤線・青線は、一般女性を性被害から守るため
設置したともいう。
自分の身を守るため、犠牲となる人を見て見ぬふりをするばかりか、
差別意識を持って、その人達を見ていた・・・
そんな時代があったこと、
そして、人間は、そんな風に他者を見る、
弱い者であることは記憶に留めておきたい。
(わたしも、人間として、
弱いな、ずるいなの自覚を持つので書いています)
横浜だけではなく、どこの街にもある記憶。
関西に住んでいた頃も、大阪のあの街、この街について
たくさん聞かされた。
もしかしたら、記者のように、
知らないだけということだってあるかもしれない。
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おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
以下の資料を参考に記事をまとめましたが、
間違いや勘違いはあるかと存じます。
素人のこととお許し下さいませ。
参考:
●「読売新聞」地域・横浜 2024(令和6)年1月26日付朝刊
●相可文代『ヒロポンと特攻 太平洋戦争の日本軍』論創社
今日の記事も読み応え有りました。本当にそのような地域はどこにも残っていたのでしょうね。実際行ったことはありませんが、本の世界では沢山読みました。底辺女性史を扱ったノンフィクションを沢山読んだ事があり、まさにそんな感じでした。ぴあ野さんの記事本当に面白いです。また、楽しみにしています。 なおとも
ひっそりと、備忘録を兼ね、綴っている記事なので
読んでいただけるだけでも嬉しいのに、
本当に感謝です。
なおともさんも、やっぱりいろいろ、お読みになっていらっしゃいますよね。
わたしも知識や情報としては、頭の中にごっそりあったのに、
現実とつながっていなかったことを思い知った、
何ともお恥ずかしい体験でした。
市内の別の場所で、いわゆる「たちんぼ」の外国人女性のエリアに
車で紛れ込んでしまったこともありました。
当時は怖いとしか思わず、本当に恥ずかしい・・・
あの方達こそ、もしかしたら戦争孤児だったのかもしれないなと、ようやく思えるようになっています。