昭和の学生時代、東横線に乗っていて、ふと目をあげると満開の桜。
ホームのすぐ脇に坂道があり、桜並木が続く。
停車中の車内からも、はっきりとわかるほど、見事な桜だった。
「ああ、幸せだなぁ」と、多幸感に包まれたことを覚えている。
それが大倉山の駅。(↓画像は令和の大倉山駅)
桜の坂を上れば大倉山記念館があると知ったのは、もう少し先、
洋館に夢中になって、あちこち歩き出してからになる。
冒頭画像、大倉山記念館は白亜の洋館だ。
見事なヒマラヤスギがそびえ、建物を囲む。
コロナ禍には、ここで、景色をながめながら、
坂の途中にある人気ベーカリーのパンで
ピクニックランチを楽しんだ。
あの閉塞状況の中、身近で楽しめる「お出かけ」だった。
平時であれば、コンサートや、観梅、
おりあらば訪ねる、大倉山公園と記念館。
あの桜がなければ、気に留めなかったかもしれない駅だ。
今、大倉山界隈と、こんなに御縁ができようとは・・・
学生の頃は、考えもしなかった。
東急東横線、大倉山駅。
その坂道を登った先にあるのが大倉山公園、
鶴見川を望む小高い丘に位置する。
もともとは、昭和7(1932)年、
大倉山精神文化研究所の本拠地として創立された。
創立者の大倉邦彦(1882-1971)は教育者・実業家であり、
この地を精神文化研究の拠点と考えていた。
建築家・長野宇平治によるプレヘレニズム様式の白亜の洋館は、
その精神の現れであろう。
建築については、横浜大倉山記念館のHPに詳しい。
今、建物は横浜大倉山記念館と大倉山精神文化研究所が
同居している形だ)
今回注目したいのは、
どちらのHPにも触れられていない戦時下でのことだ。
東横線、大倉山駅の渋谷寄り、二つ先の駅に日吉がある。
駅の前は、広大な慶應義塾大学日吉キャンパスと慶應義塾高校だ。
戦時中、慶應義塾は海軍と賃貸借契約を結び、
なんと海軍は、日吉に地下壕まで掘ってしまった。
それが海軍連合艦隊司令部の地下壕である。
戦争末期、壊滅状態だった海軍連合艦隊は陸にあがり、
ここから太平洋上に広がる戦場への指揮を執った。
実は、この大倉山精神文化研究所も、その移転先の候補地だった。
首都・東京と海軍の横須賀鎮守府の中間に位置し、
幹線道路である綱島街道と東横線の鉄道が走る・・・
立地とアクセスの点では、大倉山も日吉も互角だろう。
だが、いかんせん、日吉と比べると、大倉山は狭かった。
結果、海軍連合艦隊司令部は日吉を選んだ。
大倉山は、どうなったか。
海軍が有望視した土地である。
ここには海軍気象部の分室が入った。
高台であることが好条件となったのである。
(↑画像 中央奥にスカイツリーが見える!)
海軍気象部は東京駿河台に本室があり、
神田界隈には他にも分室が置かれていた。
しかし、戦局が厳しくなったからだろう、
郊外の大倉山の分室を最後の拠点とすることに決め
「第五分室」として設置している。
同時に、気象部員は、H字型水平壕と呼ばれる、
特殊な地下壕も掘っている。
昭和19(1944)年8月、敗戦のちょうど一年前、
海軍気象部と大倉山精神文化研究所の間に、借家契約が結ばれた。
当時は、「大倉山の図書館」と通称されていたが
「大倉山精神文化研究所」のことである。
その賃料は本館だけで、一ヶ月5000円だったという。
参考のために挙げると、公務員の初任給は昭和12年に一ヶ月75円、
小学校教員の初任給は、昭和16年に一ヶ月50円から60円である。
(週刊朝日編『値段の明治・大正・昭和風俗史』より)
とてつもない賃料であることが知れる・・・
では、ここで気象部は何をしていたのか?
元気象部員だった方によると、
海霧のデータを集め、整理や分析をしていたそうだ。
千島や北海道の海岸には、よく海霧が発生し、
海軍の作戦の支障となっていた。
そのため発生のメカニズムや予報の研究がなされたのだ。
また気象部の特務班では、
外国の気象通信(暗号電文)を読む、つまりは暗号解読も行われた。
解読はアメリカとソ連の暗号を担当する班に別れていた。
一日中、暗号電文は入るのだが、昼間は生活雑音が入り聞き取りにくく、
もっぱら夜に活動したという。
勤務していた人は30人から40人。
中には女子挺身隊もいたそうだ。
昭和20(1945)年8月15日の敗戦の後は、
海軍気象部の資料を燃やす煙が数日続く。
とはいえ、実際に海軍との借家計画が解かれるのは8月31日付。
更に荷物の整理は続き、結局、翌年1月までかかったそうだ。
戦後、海軍気象部の大倉山を舞台にした戯曲「日本の気象」が
劇団民藝によって上演されたという。
執筆は久保栄(1900-58)。
小山内薫に師事した新劇の劇作家、演出家であり、
その最後の作品が「日本の気象」だそうだ。
2004年に51年ぶりに東京アンサンブルによって再演されている。
その後の上演はわからないのだが、もしも機会があれば、
ぜひ観劇したい。
海軍以外にも、外務省や神奈川税務署もが
戦時下の移転先として、大倉山を検討していたそうだ。
もっとも、海軍の候補地と聞いてしまったら、
当時は遠慮せざるをえなかったのかもしれない。
大倉山記念館は、海軍が使用したのであるから、
まぎれもなく戦争遺跡である。
これはきちんと伝えていくべきではないだろうか。
ましてや今はウクライナやガザでの戦争もあり、
平和への関心が高まっているときであるから、なおさらだ。
大倉山で、白亜の美しい洋館を眺める度に、
建物がたどってきた歴史に想いを馳せている。
わたしが参考にした資料『わがまち港北』(全3巻)の
著者・平井誠二氏は大倉山精神研究所の研究職員でいらっしゃる。
明らかになった事柄を、その都度書いて下さり、
興味深く拝読したことを感謝と共に付け加えたい。
最後にもうひとつ。
大倉山に海軍が置かれた戦争末期には、
一般人は立ち入れなかったことだろう。
だが、その前後は?
以前、社会学者にして芥川賞候補にもなった
古市憲寿氏の『ヒノマル』(文藝春秋)を図書館から借りた。
だが、期限内に読み切れず、返却してしまった。
小説の舞台は、まさに戦時下の大倉山であり、
当時の大倉山を調べ上げて書かれたものだという。
さわりから大倉山商店街の様子が生き生きと描かれていた印象が残る。
気になっていながら、ずっと読めないままだったが、
この記事をアップしたら図書館に予約をいれ、今度こそ読了したい。
(追記:予約をしました)
◆書影は文藝春秋Booksよりお借りしました。
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長々とおつきあいいただき、どうもありがとうございます。
以下の資料をもとにまとめましたが、
間違いや勘違いもあるかと存じます。
素人のことと、どうぞお許し下さいませ。
📖参考:
平井誠二『わがまち港北』(全3巻)『わがまち港北出版グループ』
今日も読み応えのある文章に感心したり感動したりです。まさに人に歴史有り、建造物にも歴史有りですね。このシリーズ、いつか書籍化出来そうですね。また、楽しみにしています。なおとも
いつもおつきあいいただき、嬉しいです。
洋館でも城でもそうなのですが、建築の技術的なことよりも、
そこにいた人達の歴史に興味があって・・・
もしも私に理系頭脳が備わっていて、その面から批評できたら、
書籍化もできたかもしれませんねw