歴タビ日記~風に吹かれて~

歴タビ、歴史をめぐる旅。旅先で知った、気になる歴史のエピソードを備忘録も兼ね、まとめています。

「女の子たち」は続く

2024-06-01 07:59:42 | 歴史 本と映画
先週末の「オンライン対談イベント」(→過去記事)から
『女の子たち風船爆弾をつくる 
ーThe Paper Balloon Bomb Follies』(文藝春秋)』
を読み始め、
先日、読了。

目の負担を考え、一気読みしたい気持ちを抑え、
1日一章・・・大事に大事に読もうと決めた。

とりわけ第三章(昭和20年 1945年)から
エピローグにかけては、涙、涙、涙だった。



かつて、日比谷の東京宝塚劇場で風船爆弾作りに
動員された雙葉 、跡見、麹町
今もよく知られる私立学校に通う女学生が、
ときに「わたし」「わたしたち」と自称する「女の子たち」だ。
本書では、その「女の子たち」の日々を追う。

「女の子たち」の日常に、「少女たち」と称す一群も織り込まれる。
宝塚歌劇団のメンバーだ。
舞台は「不要不急」と見なされ、劇場は軍隊に接収され、
風船爆弾を造る工場と化してしまう

劇場を取り上げられた「少女たち」は、大陸の軍隊のために
慰問の旅を続ける。
読み進めれば、当時の宝塚の姿も浮かび上がる。

つまり、東京宝塚劇場を軸に、劇団員の「少女たち」と
風船爆弾の「女の子たち」はつながっているのだ。



正直、小林氏の文章は独特で、引っかかりを感じるが、
それをおしてなお惹きつけられる。

短い事実を述べる一文が、淡々と重ねられていくだけ。
感情表現の類いは、一切ない。
圧倒的な事実の力か。

ヒリヒリと胸が痛んでならない。

既に、何度か、読後の想いをまとめようとしたのだが、
まとまらず・・・
そこで、いくつか、備忘録を兼ね、印象的なことだけを挙げておく。


●風船爆弾、「ふ号」兵器、風船爆弾製造計画。
風船爆弾とは、巨大な風船を造り、
水素ガスで膨らませ、爆弾をつけたものだ。
偏西風に載せ、太平洋上約8000キロを飛ばし、横断させる。
風船の素材は、和紙とコンニャク糊。どちらも国内で入手できる。

この書影の巨大な球体が風船、ご参考までに。


手先の柔らかい若い女学生が和紙の貼り合わせに適しているから、
と、女学生が選ばれたという。
満州新京をはじめ、その工場のあった地域は、日本全国20を越える。

中脇初枝『伝言』<講談社>の主人公は新京の女学生、
風船爆弾造りに励んでいた)

大半の女学生は、何をさせられているかわからないまま
「お国のため」と過酷な労働をこなしていたのだが・・・

小倉造幣局で働く「学徒特攻隊」と名付けられた少女らは
寮生活で、睡眠時間も数時間、なんと「白い錠剤」を
飲まされながら、風船爆弾のための作業を続けたという。
錠剤は、おそらく「ヒロポン」(覚醒剤)。

(相可文代『ヒロポンと特攻--太平洋戦争の日本軍』 <論創社>に詳しい)

結果、多くの命が喪われたが、正確な人数はわからない。



●アメリカへ飛んだ風船爆弾

風船爆弾は、1944(昭和19)年11月から翌年4月まで、
千葉県一宮、茨城県大津、福島県勿来から風船爆弾が発射される。
その9000発のうち、1000発はアメリカへ到達したと考えらえる。

アメリカ、オレゴン州ブライでは、民間人6人が死亡
日曜学校のピクニックに来ていた生徒と、妊娠中の牧師の妻だった。
生徒は、まだ、11歳から14歳。


もうひとつアメリカのお話。

長崎に投下された原子爆弾は、風船爆弾がたどりついた
ワシントン州、ハンフォード・サイトで作られたものだった。
そこでは、風船の影響で3日間、停電した。
(その3日分、原爆投下は遅れたかもしれないけれど)

ハンフォード・サイトで造られた原子爆弾の
第一投下目標地は、小倉造幣局
少女たちがヒロポンを飲まされながら、風船を造っていた場所だ。



●終戦直後の闇市にて

あちこちに闇市が立ち、
東京の銀座、吉原や新宿には、赤線地帯があった。
そこで「桜紙」と呼ばれる質の良いチリ紙が大量に出回る。

あの風船造りのために漉かれた和紙の不合格品だ。
その生紙が、裁断され、売りさばかされていた。

「女が、少女が、慰安所で、キャバレーの隅で、遊郭で、
男に姦された後の仕舞紙になり、重宝されることになる」280頁


●戦後の女学生

風船を作っていた、女学生は言った。

「戦争は殺したり殺されたりするのが戦争っていう漠然とした
認識のなかにですね、そう、たった六人、っていう
かんじはありました」334頁

だが・・・真実を知る。
犠牲となった人の名前を、
その人生が突然に断ち切られたことに思い至って、気づく。

「わたしたちが造った風船爆弾は、殺人兵器だったのだ。
私はまぎれもなく戦争の加害者だ、と始めて(ママ)気づいたときには、
背筋がぞっとするような恐怖を感じた」338頁

かつての少女は、ブライの遺族と手紙のやりとりを続け、
やがて現地を訪ね、謝罪した。
遺族は彼女らを抱擁し、手料理でもてなしたという。

女学生は、67歳か68歳になっていた。



ここで、私事を・・・

本書の冒頭「プロローグ」は、こう始まる。

ーーこの街は、あの震災から十二年目の年を迎える。
春が来る...
わたしは、小学校一年生になる...
桜の花が咲いているーー8頁

震災とは大正12(1923)年の関東大震災を指す。
そこから計算すると・・・

「女の子たち」は、義母と同い年なのだ!

今年、年女の義母は、めでたく96歳の誕生日を迎えたばかり。
数年前から近くのサ高住(サービス付高齢者住宅)で
義父と暮らしている。
年相応に衰えてはいるものの、いわゆる認知症は、兆しもないw

わたしは、昭和初期生まれの義父母に、
聞いておきたいことがたくさんあった。

とりわけ義母は、東京生まれの東京育ち。
昭和20(1945)年の3月に「東京府立」の女学校を卒業している。
数ヶ月後には、空襲で焼け出され、地方都市へ疎開。
徴用を怖れ、できたばかりという地元の「女学校別科」へ通い、
終戦を迎えた。

その後、再び、進学のため東京へ戻ったものの
両親・家族は地方都市に残っていたので、
寮から大学へ通学した。


東京の空襲と言えば、昭和20(1945)年、
下町が灰燼に帰した、3月10日の東京大空襲が、よく知られている。
だが、義母は下町育ちではない。

義母に「山の手空襲ですか?」と尋ねると、
「そう」と、小さくうなずき、黙ってしまった。

昭和20(1945)年5月25日、いわゆる「山の手」が空襲を受けた。
表参道や東京駅、皇居周辺も焼けている。
義母の当時の住まいを考えると、この空襲で、間違いないだろう。

その後も何度か、戦中・戦後の話題に水を向けたのだが・・・
義母が語るのは、楽しいことばかり。

「赤坂の迎賓館が、戦後は図書館になっていたの。
赤い絨毯がフカフカでね・・・」

「大学の寮では、奥尻島の人と同じ部屋だったの。
地図を見ながら、『どこなの?』『ここ!』って
教えてもらって・・・遠いねぇ~って。」

・・・という具合。

調べてみたが、義母の卒業した女学校は
風船爆弾に関わっていないようだった。
でも、おそらく、何らかの勤労動員には行かされたはず。

義母は口を閉ざし、一切語らなかった。
夫は、実母が空襲にあったことすら、聞いたこともないという。

風船爆弾に関わった女学生は
軍部から箝口令を敷かれていたため、長く口を閉ざしていたそうだ。

でも、もしかしたら・・・
辛い記憶を繰り返したくなかった、
想い出したくなかったのかもしれない。

・・・義母のように。


そんな辛く苦しい記憶を、やっとのことで語り始めた人がいる。
その言葉が聞けるなら・・・
少なくとも、読めるものなら、何でも読む。読んでいきたい。

かくいう、わたしだって、もうシニアとよばれる年齢なのだから・・・


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長々と、おつきあいいただき、どうもありがとうございます。

勝手な感想文です。.
間違いや勘違いは、どうぞお許しを。

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