年上の知人Tさんは、歴史への造詣が深い。
日吉に長くお住まいなので、
この機会に以前から知りたかったことを伺った。
以下、Tさんのお話を忘れないようにまとめた備忘録で、
史料的な裏付けがある内容ではないことを
初めに申し上げておく。
「天国に結ぶ恋」をご存知だろうか。
もともとは「天城心中 天国に結ぶ恋」のタイトルによる
映画(1958)だった。
この前年の1957(昭和32)年12月、
伊豆天城山中(石川さゆりさんの「天城越え」の地)で
学習院大学に通う男女二人が、ピストルによる心中をした。
女性が愛新覚羅 慧生(あいしんかくら えいせい)だったことから
世間は大騒ぎになる。
というのも、彼女は、映画「ラストエンペラー」で知られる、
満州国の傀儡皇帝・溥儀(ふぎ)の弟、愛新覚羅溥傑(ふけつ)と
旧侯爵家、嵯峨浩(さが ひろ)の長女だったからだ。
以下、ウィキペディアを参考にする。
我が、愛新覚羅浩『流転の王妃の昭和史』(中公文庫)は、
ただいま行方不明で・・・(整理が良くて、おはずかしい!)
母君・浩は、同書で「絶対に心中ではない」と言い切っていらした。
何十年も前に読んだのだが、そこだけは、はっきり覚えている。
今回、Tさんのお話を伺い、その気持ちが強くなった。
横浜市港北区、日吉。
昭和の初期に、東急が開発した街である。
東急は広大な土地を慶應義塾に提供し誘致。
その結果、日吉駅の東口には当時「予科」と呼ばれた、
現在の教養課程の校舎などが建設された。
現在は、夏の甲子園大会を湧かせた慶應義塾高校と
慶應義塾大学の日吉キャンパスである。
西口には、同じく東横線の田園調布に倣い、
放射線状の街が広がり、当時は1区画150坪で造成された。
その一角に嵯峨侯爵家も屋敷を構える。
(華族さまゆえ、一区画のはずもなく・・・w)
長女・慧生は、学習院幼稚園へ通うため、
幼くして母方の実家・嵯峨家に預けられ、以後、日本で成長した。
1945(昭和20)年8月。
日本の敗戦により、満州国は崩壊する。
母・浩と妹・嫮生 (こせい)は、父・溥傑 と生き別れ、
国共内戦の続く大陸を流転した。
母と妹が日本に引き揚げたのは、1947(昭和22)年だった。
以後、母と娘は、嵯峨家で暮らし、やがて父の消息がわかり、
手紙のやりとりを続けながら、三人はとの溥傑との再会を心待ちにする。
Tさんが街の古老から聞いた話によると・・・
慧生さんは非常に明るく、優しい方で、誰からも好かれたという。
そして、父の生家・愛新覚羅家では、
父に次いで、皇位継承権第2位である。
そのため、SPが常に2人ついていたそうだ。
(そんな状態で恋愛が成就するのだろうか・・・?
令和の内親王の例もあるけれど・・・)
その運命の日。
慧生さんが帰ってこない・・・
行方不明だと、嵯峨家は大騒ぎ。
日吉の地元でも消防団が総出で捜索する。
行方不明になってから5日後、
慧生さんは変わり果てた姿で発見された。
マスコミは大々的にピストルによる天城山心中と報じたのだが・・・
これもTさんが古老から聞いた話。
この方は、日吉商店街の老舗の先代さんだ。
「僕が直接見たわけではないけれど・・・
遺体を発見した人の話では、
二人の遺体は、かなりの距離があったそうだよ。
だから心中ではないと、みんなが話していたね」
ウィキでは、遺体の距離は1mとあるが・・・
いずれにしても、心中だったら、手をつなぐとか、
重なり合うとか、それらしい距離感があるだろうに・・・
Tさんは言う。
「相手の男性に、しつこく言い寄られて、断り切れなくなって、
結局、慧生さんは殺されてしまった。
心中ではなくてね・・・私は、そう思っているわ」と。
更に続けられた言葉は・・・
「今だったら、警察の調書を見れば、いろいろとわかると思うのよ。
当時だって・・・でもね、していないの。
相手の男性の父親は陸軍の幹部だったそうだから・・・」と、Tさん。
ああ、昭和の30年代になってもなお、
軍部の隠蔽体質は続くのか・・・
「昭和は長かったでしょう?
だからいろいろあったのよね・・・
でも、きちんと伝えていくことも大事なのだけれど・・・」と
Tさんは、締めくくられた。
いまだに昭和史は謎に包まれた事件が多い。
たとえば、帝銀事件。
平沢死刑囚にあれだけの毒物が扱えるとは思えない。
最近では陸軍・登戸研究所の関係者が関与した可能性が高いとされる。
けれど、どこからか圧力がかかり警察は捜査を中止させられたとも・・・
この隠蔽体質。
よその国のことを言えないのではないだろうか・・・
**************************
おつきあいいただき、どうもありがとうございます。
正式な談話ではなく、あくまでも女性同志のおしゃべりです。
繰り返しますが、史料的根拠はありません。
でも、少女の頃から気になっていた「天城山心中」。
もしも慧生さんがご健在だったら、きっと日中の架け橋として
活躍されたことだろうと思うと、なおさら気になる事件でした。
母君の著作『流転の王妃の昭和史』だけでなく、
今までにも何冊か読んできました。
(内容は、すっかり忘れてしまったのですが・・・)
『流転の王妃の昭和史』に影響を受け、私の個人的な想いですが、
慧生さんは自ら命を絶つはずはないと信じています。
Tさんを通し、当時を知る古老のお話を伺い、
その想いをいっそう強くしました。
私、この話しにとても興味を持ち「流転の王妃」の本を持っていますよ。本当に劇的な人生、お嬢さんの悲劇については、テレビの特集でも何回か見ました。心中というより、無理やりだったという考えの方が多いようでした。男性の横恋慕。ただ、憶測なので真相は闇ですね。生きておられたら、素晴らしい人生を歩まれたと思うと切ないです。
「帝銀事件」も色々読みました。松本清張の「小説帝銀事件」も夢中で読みましたが、その後様々な話しを知り、こちらも闇の中ですね。
昭和は本当に長かったですね。なおとも
ウィキの「天城山心中」をどうぞご覧になって下さい。
わたしも長く心中ではないと思っていましたが、
そうと読めない説明が続いていて、びっくりしました。
今回Tさんのお話で地元の想いがよくわかったこと、
(オフレコもありますが)と同時に、
軍部の関与がここにも及んでいると、暗澹としました。
今でも公開されない軍関係の資料があるわけですから・・・
また、明治大学・旧登戸研究所資料館の山田朗先生たちのご研究で帝銀事件の解明も進むことを願っています。
昭和の負の遺産がいまだに続いていることを忘れてはなりませんね・・・