吉田清治(本名・雄兎)という人物は、勇気をもって従軍慰安婦の強制連行を告白したという評価がある一方で、捏造作家、稀代の詐欺師と批判された謎多き両面がある。一九八三年に三一書房から「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」を発刊したことが、今日の従軍慰安婦問題の発端となっている。
この本の中で、吉田氏は斉州島で「慰安婦強制連行」にかかわり、それは一週間にわたって10人の武装した兵隊と憲兵に護衛された徴発隊により行った。その徴発隊は島を縦横にかけめぐり、泣叫ぶ若い朝鮮人女性を狩りたて、片はしからトラックに積み込みこんだ。役得としてトラック上で強姦する兵もいたと書いた。
記憶の中で最も心が痛むのは従軍慰安婦の強制連行だったという。吉田と部下、十人か十五人が朝鮮半島に出張。総督府の五十人あるいは百人の警官といっしょになって、斉州島の村を包囲し、女性を道路に追い出す。木剣を振るって若い女性を殴り、けり、トラックに詰め込む。一つの村から三人、十人と連行して警察の留置場に入れておき、予定の百人二百人になれば、下関に運ぶ。女性たちは陸軍の営庭で軍属の手にわたり、前線におくられていった。吉田氏らが連行した女性は、少なくみても九百五十人はいた。(朝日新聞一九九二年一月十三日付夕刊)・・・と、かなり具体的である。
「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」は、一九八九年に韓国語訳(清渓研究所現代史研究室)がでたが、「済州新聞」の許栄善記者が書評を兼ねた紹介記事を書いている。一九八九年八月十四日付の記事。
<解放四四周年を迎え、日帝時代に済州島の女性を慰安婦として二〇五名を徴用していたとの記録が刊行され、大きな衝撃を与えている。しかし裏付けの証言がなく、波紋を投げている。
しかしこの本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で一五~一六人を強制挑発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を、裏付け証言する人はほとんどいない。
島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクタン(八五歳の女性)は「二五〇余の家しかないこの村で、一五人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。
郷土史家の金奉玉は「一九八三年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している。>
韓国の現地報道で否定されたことについて、吉田氏は「儒教の伝統の強い韓国で被害者の家族が名のり出ないのは当然」と抗弁して、水かけ論になった。しかし、やがて韓国内から済州島以外の強制連行の被害者が名乗りをあげた。最初の証言者は金学順という朝鮮人慰安婦で、日本軍に強制連行されたと大々的に報道されている。
ところが金学順は日本に来て証言した時には、十四歳の時に家が貧しかったのでキーセンハウスに売られ、十七歳になった時に、キーセンハウスの経営者である義父に日本軍の慰安所につれて行かれたと告白している。
日本でも東北の貧しい農家が娘売りをして、その悲惨な状況が二・二六事件で青年将校が決起した一因となった。死語となったが女衒(ぜげん)と称する娘買いが戦前には跋扈している。貧しい朝鮮半島でも同じか、それ以上の娘売り、娘買いが横行していた。これが戦地で行われたピー屋(慰安所)であった。
吉田の経歴にも嘘が多い。山口県生まれと称していたが、戸籍でみれば福岡県芦屋町西生まれ、中華航空上海支店に勤務していたというが、その事実はない。済州島の慰安婦狩りについて、妻が日記で「一九四三年五月の西部軍動員命令で済州島に行った」と書いてあるというが、結婚は一九九四年であった。朝日新聞は吉田氏が法政大学卒と報じたが、在籍記録はない。
これらの怪しい点はあるが、告白の「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」によって、一時期には時代の寵児として講演旅行などで人気があった。強制連行した謝罪碑を韓国に建てるとも言っている。話も大きくなり、百人の朝鮮人女性を海南島に連行したとか、訪米して米マスコミ、在米朝鮮人(約100万人)に働きかけ、国連事務総長に慰安婦問題をアピールすると言ったりしている。その度にマスコミで大きく扱われた。
その反面、証言の不確かさを突かれて「私がこれ以上言うと、元慰安婦や家族の方に迷惑がかかる。デッチ上げといわれても構いません。私の役目はもう終わったのですから」(週刊新潮一九九五年一月五日号)、「本に真実を書いても何の利益もない。事実を隠し自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやるじゃないか」(週刊新潮一九九六年二月九日号)と開き直った。奇怪なのは吉田とともに徴発隊として行った部下十人か十五人(吉田証言による)が、遂に現れなかった。
吉田は何故この様な捏造本を書いたのか?吉田は根っからの共産主義者であり、国家転覆を企んでおり生まれつきの「利己的主義者」であったからなのです。 後の1998年にこの現地調査をした教授とのやり取りで、日本国内の「人権屋」に依頼されたと、暴露もしている。
*人権屋*(光市母子殺害事件を担当した弁護士のような歪んだ正義感の持ち主、 その大多数がサヨクであり、日々平和、反戦、平等と叫んでおり、現在アイヌ問題なども人権屋が入り込み事を大きくしている)
日本政府の対応もまずかった。この捏造本により火のついた朝鮮人の世論をなだめる意味で安易に朝鮮人に謝罪をしてしまったに留まらず、朝鮮政府から「金銭補償は求めないから強制連行があった事実は認めて欲しい」との通達があり、安易な形で強制連行を国が認めてしまったのです。
この様な経緯があり、日本国家は日本国民に対し恥をかかせ、世界から性犯罪国家の汚名を着せたのです。
この様な「汚名」は簡単には消し去ることは出来ないと思いますが、未来の為、日本国家の威信の為に真の日本人で一日も早くこの汚名を消し去る努力をしなければいけません。
当時朝鮮には慰安婦は存在しましたが、強制的な従軍慰安婦は存在しなかったのです。そもそも従軍慰安婦なる言葉さえ当時はありませんでした。 従軍看護婦と言う言葉が混同された物なんでしょう。 従軍と聞きますとあたかも強制と言う響きに取れますが、強制連行は在りませんでした。
当時朝鮮には「キーセン」と言う売春宿が各地に数多くあり、それを仕切る朝鮮人と日本軍は取引をし軍専用の売春宿にしたことは当時の資料からも事実として伺えます。 キーセンを仕切っていた朝鮮人も日本軍を相手にしたほうが当然儲かりますので競って日本軍の専属売春宿に名乗りを上げたそうです。
この本の中で、吉田氏は斉州島で「慰安婦強制連行」にかかわり、それは一週間にわたって10人の武装した兵隊と憲兵に護衛された徴発隊により行った。その徴発隊は島を縦横にかけめぐり、泣叫ぶ若い朝鮮人女性を狩りたて、片はしからトラックに積み込みこんだ。役得としてトラック上で強姦する兵もいたと書いた。
記憶の中で最も心が痛むのは従軍慰安婦の強制連行だったという。吉田と部下、十人か十五人が朝鮮半島に出張。総督府の五十人あるいは百人の警官といっしょになって、斉州島の村を包囲し、女性を道路に追い出す。木剣を振るって若い女性を殴り、けり、トラックに詰め込む。一つの村から三人、十人と連行して警察の留置場に入れておき、予定の百人二百人になれば、下関に運ぶ。女性たちは陸軍の営庭で軍属の手にわたり、前線におくられていった。吉田氏らが連行した女性は、少なくみても九百五十人はいた。(朝日新聞一九九二年一月十三日付夕刊)・・・と、かなり具体的である。
「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」は、一九八九年に韓国語訳(清渓研究所現代史研究室)がでたが、「済州新聞」の許栄善記者が書評を兼ねた紹介記事を書いている。一九八九年八月十四日付の記事。
<解放四四周年を迎え、日帝時代に済州島の女性を慰安婦として二〇五名を徴用していたとの記録が刊行され、大きな衝撃を与えている。しかし裏付けの証言がなく、波紋を投げている。
しかしこの本に記述されている城山浦の貝ボタン工場で一五~一六人を強制挑発したり、法環里などあちこちの村で行われた慰安婦狩りの話を、裏付け証言する人はほとんどいない。
島民たちは「でたらめだ」と一蹴し、この著述の信憑性に対して強く疑問を投げかけている。城山浦の住民のチョン・オクタン(八五歳の女性)は「二五〇余の家しかないこの村で、一五人も徴用したとすれば大事件であるが、当時はそんな事実はなかった」と語った。
郷土史家の金奉玉は「一九八三年に日本語版が出てから、何年かの間追跡調査した結果、事実でないことを発見した。この本は日本人の悪徳ぶりを示す軽薄な商魂の産物と思われる」と憤慨している。>
韓国の現地報道で否定されたことについて、吉田氏は「儒教の伝統の強い韓国で被害者の家族が名のり出ないのは当然」と抗弁して、水かけ論になった。しかし、やがて韓国内から済州島以外の強制連行の被害者が名乗りをあげた。最初の証言者は金学順という朝鮮人慰安婦で、日本軍に強制連行されたと大々的に報道されている。
ところが金学順は日本に来て証言した時には、十四歳の時に家が貧しかったのでキーセンハウスに売られ、十七歳になった時に、キーセンハウスの経営者である義父に日本軍の慰安所につれて行かれたと告白している。
日本でも東北の貧しい農家が娘売りをして、その悲惨な状況が二・二六事件で青年将校が決起した一因となった。死語となったが女衒(ぜげん)と称する娘買いが戦前には跋扈している。貧しい朝鮮半島でも同じか、それ以上の娘売り、娘買いが横行していた。これが戦地で行われたピー屋(慰安所)であった。
吉田の経歴にも嘘が多い。山口県生まれと称していたが、戸籍でみれば福岡県芦屋町西生まれ、中華航空上海支店に勤務していたというが、その事実はない。済州島の慰安婦狩りについて、妻が日記で「一九四三年五月の西部軍動員命令で済州島に行った」と書いてあるというが、結婚は一九九四年であった。朝日新聞は吉田氏が法政大学卒と報じたが、在籍記録はない。
これらの怪しい点はあるが、告白の「私の戦争犯罪・朝鮮人強制連行」によって、一時期には時代の寵児として講演旅行などで人気があった。強制連行した謝罪碑を韓国に建てるとも言っている。話も大きくなり、百人の朝鮮人女性を海南島に連行したとか、訪米して米マスコミ、在米朝鮮人(約100万人)に働きかけ、国連事務総長に慰安婦問題をアピールすると言ったりしている。その度にマスコミで大きく扱われた。
その反面、証言の不確かさを突かれて「私がこれ以上言うと、元慰安婦や家族の方に迷惑がかかる。デッチ上げといわれても構いません。私の役目はもう終わったのですから」(週刊新潮一九九五年一月五日号)、「本に真実を書いても何の利益もない。事実を隠し自分の主張を混ぜて書くなんていうのは、新聞だってやるじゃないか」(週刊新潮一九九六年二月九日号)と開き直った。奇怪なのは吉田とともに徴発隊として行った部下十人か十五人(吉田証言による)が、遂に現れなかった。
吉田は何故この様な捏造本を書いたのか?吉田は根っからの共産主義者であり、国家転覆を企んでおり生まれつきの「利己的主義者」であったからなのです。 後の1998年にこの現地調査をした教授とのやり取りで、日本国内の「人権屋」に依頼されたと、暴露もしている。
*人権屋*(光市母子殺害事件を担当した弁護士のような歪んだ正義感の持ち主、 その大多数がサヨクであり、日々平和、反戦、平等と叫んでおり、現在アイヌ問題なども人権屋が入り込み事を大きくしている)
日本政府の対応もまずかった。この捏造本により火のついた朝鮮人の世論をなだめる意味で安易に朝鮮人に謝罪をしてしまったに留まらず、朝鮮政府から「金銭補償は求めないから強制連行があった事実は認めて欲しい」との通達があり、安易な形で強制連行を国が認めてしまったのです。
この様な経緯があり、日本国家は日本国民に対し恥をかかせ、世界から性犯罪国家の汚名を着せたのです。
この様な「汚名」は簡単には消し去ることは出来ないと思いますが、未来の為、日本国家の威信の為に真の日本人で一日も早くこの汚名を消し去る努力をしなければいけません。
当時朝鮮には慰安婦は存在しましたが、強制的な従軍慰安婦は存在しなかったのです。そもそも従軍慰安婦なる言葉さえ当時はありませんでした。 従軍看護婦と言う言葉が混同された物なんでしょう。 従軍と聞きますとあたかも強制と言う響きに取れますが、強制連行は在りませんでした。
当時朝鮮には「キーセン」と言う売春宿が各地に数多くあり、それを仕切る朝鮮人と日本軍は取引をし軍専用の売春宿にしたことは当時の資料からも事実として伺えます。 キーセンを仕切っていた朝鮮人も日本軍を相手にしたほうが当然儲かりますので競って日本軍の専属売春宿に名乗りを上げたそうです。